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転生した名もなき侍は今日も静かに村を守る  作者: morino
第三章 スタンピードと露見
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第四十七話 ゼロの理由


三日目は、もう一度、森へ入った。


条件を一つ付けた。


「火は、使わないでください」


「はいはい」


ソラが答えるより早く、エルネスタが言った。


「使わせないわ。私が縛るから」


「うるせぇな」


「うるさくて結構よ」


沢の上流までは、二日前より短い時間で着いた。アリシアの足が、静かになっていた。


だが、痕跡は何もなかった。


新しい足跡はなく、引きずった跡は途中で消えている。焼けた場所は、灰が雨に流れて、ただの黒い地面になっていた。


「なんもねぇじゃん」


ソラが言った。


「はい」


「こんなとこ、イベント起きねぇって。……なあ、帰る?」


「もう少しだけ」


ジンは、沢を渡った。



対岸の斜面を登り、尾根の肩に出たところで、足が止まった。


首の後ろの毛が、立った。


——見られている。


殺気ではなかった。殺気なら、もっと分かりやすい。相手がこちらを喰おうとしている時、空気は硬くなる。


これは、違った。


ただ、見られていた。


こちらが何をするかを、ずっと待っている目だった。


「……止まってください」


小声で言った。全員が止まった。


「どちらへ?」


アリシアが訊いた。


「東です。……たぶん、五百歩ほど向こう」


ジンは、動かなかった。動かないまま、四つ数えた。


視線は、続いていた。


「なんもいねぇけど」


ソラが、あっさり言った。


「なんも感じねぇし。あんたの気のせいじゃねぇの」


「かもしれません」


ジンは、そう答えた。


答えながら、首の後ろの毛が、まだ立っていた。


アリシアが、東の森を見ていた。


「……私も、分かりません」


「わたくしも」


リディアが言った。


「祈りにも、何も触れませんわ」


エルネスタは、目を細めて東を見て、それから首を振った。


「私も何もないわね。……でも、あんた、さっき四つ数えたでしょう」


「はい」


「なぜ四つ」


「三つでは短い。五つでは長い」


「何の話よ、それ」


「見られている時に、こちらが動かずにいられる長さです」


エルネスタは、それきり黙った。



視線は、やがて、離れた。


ゆっくりと、東へ。押し引きのない、落ち着いた退き方だった。


ジンは、それが完全に消えるまで待ってから、口を開いた。


「戻りましょう」


「なんだったんですか」


アリシアが訊いた。


ジンは、少し考えた。


「殺気とも、少し違います。……ただ、見られていることに気づくかどうかです。それは、何度も見られたことがある者だけが、分かる」


「何度も」


「はい」


アリシアは、それ以上訊かなかった。


ソラは、もう先を歩いていた。



その夜、村へ戻ってから、エルネスタがジンを捕まえた。


大菩提樹の下だった。彼女は根に腰を下ろし、杖を膝に置いた。


「一つ、聞いていい?」


「はい」


「あんた、あの七匹を見た時、真っ先に『下がれ』って言ったわね。……なんで前に出なかったの。あんたなら、正面から七匹相手にできたでしょう」


「できません」


「嘘おっしゃい。あんた、春に一人で五十仕留めたって聞いたわよ」


「一列に並ばせて、一匹ずつ相手にしました」


ジンは言った。


「一度に七匹が来たら、俺は死にます」


エルネスタが、目を細めた。


「……それ、本気で言ってる?」


「はい」


「あんた、自分が強いと思ってないの?」


ジンは、少し考えた。


「強い弱いで、考えたことがありません」


「じゃあ、何で考えてるのよ」


「勝てるか、勝てないかです」


エルネスタは、しばらくジンを見ていた。


それから、ため息をついた。


「……あのね。私、王宮で二十年、腕自慢を見てきたのよ。自分は強いって思ってる連中を、山ほど」


「はい」


「そういうのは、だいたい、勝てない相手に会った日に死ぬの。自分が強いって思ってるから、退けないのよ」


杖の先で、地面を突いた。


「あんた、退くのが上手いわね。それ、才能じゃないでしょ。……何回、退いたの」


ジンは、答えなかった。


数えたことがなかった。


数えられるはずもなかった。前の四十年と、今の四年。退いた夜のほうが、斬った夜より、たぶん多い。


「……何度も」


そう答えた。



エルネスタは、杖の柄を撫でていた。


やがて、こう訊いた。


「あんた、なんで私たちがここに来たと思ってる?」


「道を訊きに寄られたと」


「うちの勇者はそう思ってるわ」


エルネスタは、鼻を鳴らした。


「私が引いたのよ、この道」


「……」


「辺境の届出の数字を、全部見たの。教国の紹介状があれば、王都の書庫は見放題だからね。……増えてるのよ。どこも増えてる。三年で四倍、五倍」


彼女は、杖を膝の上で回した。


「一つだけ、ゼロがあった」


「……」


「三年、ゼロ。こんな数字、普通は書き間違いよ。書いた人間が仕事をしてないの。だから私、書いた人間のほうを調べたわ」


エルネスタは、ジンを見た。


「ヴァレンシュ伯爵家の令嬢。三年で十一通、嘆願書を書いてる。全部、判で押した返事が返ってる。……仕事は、してるのよ。してるのに、その一つだけがゼロなの」


ジンの手が、止まった。


十一通。


冬の商館で、机に放り出された、あの写しの束。


読まれなかった、と彼女は言っていた。


読まれていた。まったく別の理由で、まったく別の人間に。


「だから来たの」


エルネスタは言った。


「ゼロの理由が知りたくて。……引退したS級か、元軍人か。そういうのが隠居してるんだろうと思ってたわ。魔物が変な動き方をしてるなら、その理由に一番近いのは、被害が出ていない場所だもの」


彼女は、ふ、と息を吐いた。


「出てきたのが、十六の百姓だったのよ。……冗談じゃないわ」


ジンは、大菩提樹の幹に手をついていた。


言葉が、出てこなかった。


シャルロッテの三年は、王都には届かなかった。だが、届かなかったはずのその紙が、西の国の人間の手に渡り、一行の進路を、この村まで引いてきた。


彼女は、そのことを知らない。


「……あの方に、話してもいいですか」


「令嬢に? どうぞ」


エルネスタは、杖をついて立ち上がった。


「言っておやりなさい。あの手の仕事はね、誰も見てないと思いながらやるのが一番きついのよ」



去り際に、彼女は振り返った。


「うちの勇者に、それ、教えてやってちょうだい」


「何をですか」


「退き方」


エルネスタは、東の森を見た。


「あの子、まだ一回も退いたことがないの。……三回、私たちを助けたのも、全部、突っ込んで助けたのよ」


「……はい」


「四回目があるかどうかは、誰にも分からないわ」


彼女は、そう言って、家のほうへ歩いていった。


ジンは、板きれを一枚取り、剣を抜いた。


百、振った。


丸を一つ、刻んだ。


森の際で、東を見た。


視線は、もう無かった。


だが、無くなったのではなく、退いただけだということは、分かっていた。

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