第四十七話 ゼロの理由
◇
三日目は、もう一度、森へ入った。
条件を一つ付けた。
「火は、使わないでください」
「はいはい」
ソラが答えるより早く、エルネスタが言った。
「使わせないわ。私が縛るから」
「うるせぇな」
「うるさくて結構よ」
沢の上流までは、二日前より短い時間で着いた。アリシアの足が、静かになっていた。
だが、痕跡は何もなかった。
新しい足跡はなく、引きずった跡は途中で消えている。焼けた場所は、灰が雨に流れて、ただの黒い地面になっていた。
「なんもねぇじゃん」
ソラが言った。
「はい」
「こんなとこ、イベント起きねぇって。……なあ、帰る?」
「もう少しだけ」
ジンは、沢を渡った。
◇
対岸の斜面を登り、尾根の肩に出たところで、足が止まった。
首の後ろの毛が、立った。
——見られている。
殺気ではなかった。殺気なら、もっと分かりやすい。相手がこちらを喰おうとしている時、空気は硬くなる。
これは、違った。
ただ、見られていた。
こちらが何をするかを、ずっと待っている目だった。
「……止まってください」
小声で言った。全員が止まった。
「どちらへ?」
アリシアが訊いた。
「東です。……たぶん、五百歩ほど向こう」
ジンは、動かなかった。動かないまま、四つ数えた。
視線は、続いていた。
「なんもいねぇけど」
ソラが、あっさり言った。
「なんも感じねぇし。あんたの気のせいじゃねぇの」
「かもしれません」
ジンは、そう答えた。
答えながら、首の後ろの毛が、まだ立っていた。
アリシアが、東の森を見ていた。
「……私も、分かりません」
「わたくしも」
リディアが言った。
「祈りにも、何も触れませんわ」
エルネスタは、目を細めて東を見て、それから首を振った。
「私も何もないわね。……でも、あんた、さっき四つ数えたでしょう」
「はい」
「なぜ四つ」
「三つでは短い。五つでは長い」
「何の話よ、それ」
「見られている時に、こちらが動かずにいられる長さです」
エルネスタは、それきり黙った。
◇
視線は、やがて、離れた。
ゆっくりと、東へ。押し引きのない、落ち着いた退き方だった。
ジンは、それが完全に消えるまで待ってから、口を開いた。
「戻りましょう」
「なんだったんですか」
アリシアが訊いた。
ジンは、少し考えた。
「殺気とも、少し違います。……ただ、見られていることに気づくかどうかです。それは、何度も見られたことがある者だけが、分かる」
「何度も」
「はい」
アリシアは、それ以上訊かなかった。
ソラは、もう先を歩いていた。
◇
その夜、村へ戻ってから、エルネスタがジンを捕まえた。
大菩提樹の下だった。彼女は根に腰を下ろし、杖を膝に置いた。
「一つ、聞いていい?」
「はい」
「あんた、あの七匹を見た時、真っ先に『下がれ』って言ったわね。……なんで前に出なかったの。あんたなら、正面から七匹相手にできたでしょう」
「できません」
「嘘おっしゃい。あんた、春に一人で五十仕留めたって聞いたわよ」
「一列に並ばせて、一匹ずつ相手にしました」
ジンは言った。
「一度に七匹が来たら、俺は死にます」
エルネスタが、目を細めた。
「……それ、本気で言ってる?」
「はい」
「あんた、自分が強いと思ってないの?」
ジンは、少し考えた。
「強い弱いで、考えたことがありません」
「じゃあ、何で考えてるのよ」
「勝てるか、勝てないかです」
エルネスタは、しばらくジンを見ていた。
それから、ため息をついた。
「……あのね。私、王宮で二十年、腕自慢を見てきたのよ。自分は強いって思ってる連中を、山ほど」
「はい」
「そういうのは、だいたい、勝てない相手に会った日に死ぬの。自分が強いって思ってるから、退けないのよ」
杖の先で、地面を突いた。
「あんた、退くのが上手いわね。それ、才能じゃないでしょ。……何回、退いたの」
ジンは、答えなかった。
数えたことがなかった。
数えられるはずもなかった。前の四十年と、今の四年。退いた夜のほうが、斬った夜より、たぶん多い。
「……何度も」
そう答えた。
◇
エルネスタは、杖の柄を撫でていた。
やがて、こう訊いた。
「あんた、なんで私たちがここに来たと思ってる?」
「道を訊きに寄られたと」
「うちの勇者はそう思ってるわ」
エルネスタは、鼻を鳴らした。
「私が引いたのよ、この道」
「……」
「辺境の届出の数字を、全部見たの。教国の紹介状があれば、王都の書庫は見放題だからね。……増えてるのよ。どこも増えてる。三年で四倍、五倍」
彼女は、杖を膝の上で回した。
「一つだけ、ゼロがあった」
「……」
「三年、ゼロ。こんな数字、普通は書き間違いよ。書いた人間が仕事をしてないの。だから私、書いた人間のほうを調べたわ」
エルネスタは、ジンを見た。
「ヴァレンシュ伯爵家の令嬢。三年で十一通、嘆願書を書いてる。全部、判で押した返事が返ってる。……仕事は、してるのよ。してるのに、その一つだけがゼロなの」
ジンの手が、止まった。
十一通。
冬の商館で、机に放り出された、あの写しの束。
読まれなかった、と彼女は言っていた。
読まれていた。まったく別の理由で、まったく別の人間に。
「だから来たの」
エルネスタは言った。
「ゼロの理由が知りたくて。……引退したS級か、元軍人か。そういうのが隠居してるんだろうと思ってたわ。魔物が変な動き方をしてるなら、その理由に一番近いのは、被害が出ていない場所だもの」
彼女は、ふ、と息を吐いた。
「出てきたのが、十六の百姓だったのよ。……冗談じゃないわ」
ジンは、大菩提樹の幹に手をついていた。
言葉が、出てこなかった。
シャルロッテの三年は、王都には届かなかった。だが、届かなかったはずのその紙が、西の国の人間の手に渡り、一行の進路を、この村まで引いてきた。
彼女は、そのことを知らない。
「……あの方に、話してもいいですか」
「令嬢に? どうぞ」
エルネスタは、杖をついて立ち上がった。
「言っておやりなさい。あの手の仕事はね、誰も見てないと思いながらやるのが一番きついのよ」
◇
去り際に、彼女は振り返った。
「うちの勇者に、それ、教えてやってちょうだい」
「何をですか」
「退き方」
エルネスタは、東の森を見た。
「あの子、まだ一回も退いたことがないの。……三回、私たちを助けたのも、全部、突っ込んで助けたのよ」
「……はい」
「四回目があるかどうかは、誰にも分からないわ」
彼女は、そう言って、家のほうへ歩いていった。
ジンは、板きれを一枚取り、剣を抜いた。
百、振った。
丸を一つ、刻んだ。
森の際で、東を見た。
視線は、もう無かった。
だが、無くなったのではなく、退いただけだということは、分かっていた。




