第四十六話 足の置き方
◇
一日目は、歩くだけで終わった。
朝、村の東の雑木林へ入り、日が暮れるまで、ジンはひたすら足の置き方を言い続けた。
「踵から下ろさないでください。爪先の外側から、静かに置いて、そのあとで重さを乗せる」
「……こう、ですか」
「もう少し、遅く」
アリシアは、素直だった。言われたとおりに歩き、言われたとおりに直した。剣の腕は確かなのに、歩き方は驚くほど下手だった。
「甲冑を、外していただけますか」
「え」
「音がします」
アリシアは、真っ赤になって甲冑を外した。
フィオナが、隣で笑いをこらえていた。
「あんた、あたしの時とおんなじこと言われてる」
「……あなたも?」
「一年前。二日、歩かされたわよ」
「二日」
「あたし、そのあと三日、足が動かなくなったから」
◇
昼を過ぎて、糞の見方に移った。
「新しいものは、艶があります。古いものは、乾いて崩れる」
「……はい」
「見るのは、新しさだけではありません。中身です。……骨が混じっていれば、近くに獲物がいた。混じっていなければ、飢えている」
「飢えているほうが、危ないのですね」
「はい。飢えたものは、人を狙います」
アリシアは、しゃがみ込んで、真面目に覗き込んだ。
木の根元に座っていたソラが、口を挟んだ。
「なあ、それ意味あんの?」
「あります」
「いや、糞見るくらいなら、全部焼いたほうが早くね? そういうの、スキルで一発だろ」
「森が燃えます」
「燃やせばいいだろ、こんな森」
アリシアが、顔を上げた。
「ソラ」
「なんだよ」
「……いえ」
アリシアは、また下を向いた。
ジンは、何も言わなかった。
言わないまま、次へ移った。
◇
風の向きは、日が暮れる前に一度だけ教えた。
「昼と夜で、変わります。昼は谷から尾根へ、夜は尾根から谷へ」
「なぜですか」
「地面が冷える速さが違うので」
「……理屈があるのですね」
「あります。ですが、覚えるのは理屈ではなく、頬です」
「頬」
「風は、頬で分かります。手のひらでは遅い」
アリシアは、頬に手を当てて、しばらくじっとしていた。
そして、驚いた顔をした。
「……変わりました」
「はい。日が落ちたので」
◇
二日目は、村の中でやった。
逃げ道の縄を辿らせ、鳴子の吊り方を見せ、当番の稽古に混ぜた。
三人一組の稽古で、アリシアは正面に立った。
粉屋が、横から怒鳴った。
「姉ちゃん! 前に出すぎだ!」
「はい!」
「正面は退かねえんだ。踏ん張れ。踏ん張るだけでいい。倒すのは横の役目だ」
「はい!」
騎士は、農夫に怒鳴られて、素直に位置を直した。
三度目で、形になった。
「おう、覚えがいいな」
粉屋が、そう言った。
アリシアは、汗を拭いながら、少し笑った。
「私は、一人で二匹を受けようとする癖があります」
「そりゃ死ぬぞ」
「はい。……今、初めて、なぜ死ぬのか分かりました」
◇
三人一組が形になってから、ジンは、もう一つだけ教えた。
「下がる稽古をします」
「下がる」
アリシアが、聞き返した。
「はい。……前へ出る稽古は、どこでもやります。下がる稽古は、あまりやりません」
「なぜでしょう」
「情けないからです」
粉屋が、鼻を鳴らした。
「そりゃそうだ。俺も最初、嫌だったぞ」
ジンは、地面に線を一本引いた。
「この線まで下がったら、そこで踏み止まる。……大事なのは、下がる速さではありません。下がりながら、こちらを見ていることです」
「見ている」
「背中を向けたら、それは逃げです。逃げは、追われます。……下がるのは、間合いを作る仕事です」
アリシアは、剣を構えて、少しずつ後退した。
三歩目で、足がもつれた。
「もう一度」
五度目で、線まで届いた。
「今のが、下がるです」
「……こんなに難しいものだとは、思いませんでした」
「難しいです」
ジンは言った。
「前へ出るのは、勢いでできます。下がるのは、勘定です。今、退いていい場面かどうかを、その場で数えなければならない」
そこへ、ソラが通りかかった。
稽古を見て、一言だけ言った。
「なんで下がる練習してんの?」
「間合いを作るためです」
「間合い作るくらいなら、先に殺せばよくね?」
そう言って、井戸のほうへ歩いていった。
アリシアが、その背中を見ていた。
何も言わなかった。
だが、剣を握り直して、もう一度、線まで下がった。
◇
ソラは、退屈していた。
稽古を半刻ほど見て、あくびをして、井戸端へ行き、そこで子供に囲まれた。
「兄ちゃん、また火出して!」
「しょうがねぇなあ」
手のひらに火を出して見せ、歓声を浴びて、機嫌が直った。
「兄ちゃん、勇者ってすげぇな!」
「まあな」
ソラは、胸を張った。
そのまま夕方まで、子供と遊んでいた。石を投げて的に当て、木に登り、犬に吠えられて逃げた。
その笑い方だけは、年相応だった。
ジンは、柵の上からそれを見ていた。
十七だ。
そう思った。
前世の彼が、初めて戦場へ出たのが十五だった。二年後には、もう何も驚かなくなっていた。
この少年は、まだ何も削れていない。
削れる前に、削られない場所を作られてしまった。それだけのことなのかもしれなかった。
◇
同じ夕方、リディアがリゼを見つけた。
婆さまの手伝いで縄を運んでいたリゼに、白い法衣の少女が声をかけた。
「そのお荷物、重くはございませんか」
「……重くない」
「そう」
リディアは、屈んで、リゼと目の高さを合わせた。
「お名前を、伺っても?」
「リゼ」
「……そう。よいお名前ですわね」
それだけだった。
リディアは、それ以上、何も訊かなかった。手も伸ばさなかった。縄を半分持つと言うこともしなかった。
ただ、リゼが行ってしまうまで、その背中を見ていた。
ジンは、離れた場所からそれを見ていた。
見ていることを、リディアも知っていた。
目が合った。
聖女は、静かに一礼して、家のほうへ歩いていった。
何も言わなかった。
言わないことのほうが、はっきりした答えだった。
◇
二日目の夜、ジンは一人で森へ出た。
誰もついて来なかった。アリシアは足が上がらなくなっており、フィオナは早々に寝た。ソラは子供と遊び疲れて寝ていた。
一匹だけ、柵から二百歩の場所で仕留めた。
戻って、井戸で手を洗った。
大菩提樹の下に、人影があった。
アリシアだった。
素振りをしていた。数を数えている。声には出さず、口だけが動いていた。
ジンは、何も言わずに、隣に立った。
板きれを一枚取り、鉈で丸を刻む場所を確かめてから、剣を抜いた。
百、振った。
アリシアは、途中で止まらなかった。最後まで、隣で振っていた。
終わってから、彼女が言った。
「毎晩、これを?」
「はい」
「何年」
「四年目です」
アリシアは、しばらく黙っていた。
「私は、三日で帰ります」
「はい」
「三日で、あなたの四年には、届きません」
「そうですね。届くことはないと思います」
ジンは、板きれに丸を一つ刻んだ。
「ですが、明日の朝、あなたの足の置き方は、今日より静かになっています」
アリシアは、剣を鞘に納めた。
「……はい」
そして、こう言った。
「明日は、三日目ですね」




