第四十三話 割に合わない話
◇
村長の家の座敷に通されて、ジンは、伯爵の向かいに座った。
貴族と向き合うのは、シャルロッテで慣れたつもりでいた。だが、あれは商館の一室で、依頼の話だった。今日は違う。相手は、この土地を治めている男だった。
「ヴァレンシュだ」
伯爵は、名乗った。
「ジンです」
「知っている。娘から、何度も聞いた」
伯爵は、机の上に帳面を置いた。厚い綴りだった。
「二十年、被害の記録をつけてきた。父の代から数えれば、四十年になる」
ページをめくる。指が、ある行で止まった。
「この三年、お前の村の欄には、何も書かれていない」
ジンは、その空欄を見た。ヴィオラの綴りで見たものと、同じ形をしていた。
「柵は二年前と聞いた。稽古はその秋、当番はその冬。……順に増えていったそうだな」
「はい」
「では、その前の一年は、何をしていた」
ジンは、答えなかった。
伯爵も、急がなかった。帳面を閉じ、ジンの顔を見た。
「村長に聞いた。柵の外に、五十を超えて積んであったと」
「……はい」
「一人でやったと」
「はい」
「一晩でか」
「はい」
「その前も、やっていたな」
ジンは、伯爵の目を見た。
この男は、村長に何かを聞いたのではない。数字から、逆に辿ってきたのだ。柵ができる前の一年がゼロだったという、ただそれだけの空欄から。
「……はい」
そう答えた。
伯爵は、少しの間、目を閉じた。
「毎晩か」
「はい」
「何日だ」
「……三年ほど」
「三年」
伯爵は、目を開けた。
「三年、一日も欠かさずにか」
「はい」
座敷が、静かになった。
伯爵の後ろに控えていたシャルロッテが、口を押さえていた。何か言おうとして、やめたようだった。
◇
「なぜ、届け出なかった」
伯爵が訊いた。
「討伐の届出を出せば、報奨が出る。三年ぶんとなれば、相当な額になったはずだ」
「必要が、ありませんでした」
「金は要らんのか」
「要ります」
ジンは、正直に答えた。
「ですが、届け出れば、村に人が来ます。調べる人が来て、話を聞く人が来て、噂が立ちます。……そうなると、うちの村が、そういう場所だと知られる」
「そういう場所?」
「魔物が多い場所です」
伯爵の眉が、動いた。
「人は、減ります。そういう村からは、人が離れる。……離れた村は、守れなくなる。守れない村は、次に消える」
シャルロッテが、息を呑む音がした。
自分が第33話で口にした言葉だと、気づいたのだろう。ジンは、それをそのまま返しただけだった。
「……なるほど」
伯爵は、しばらく黙っていた。
「では訊くが、お前の村は、なぜ人が減らなかった」
「何も起きなかったからです」
ジンは言った。
「うちの村では、この三年、誰も魔物に殺されていません。だから、誰も出ていかない。人がいるから、柵が立ち、鳴子が鳴り、六組が動く。……村が守れるのは、人がいるからです。人がいるのは、何も起きなかったからです」
「その『何も起きなかった』を、お前が作っていた」
「村の全員です」
「三年前は、お前一人だったろう」
「……一人でした」
ジンは、認めた。
「ですが、一人で守れる村は、その一人が倒れれば終わる村です。今は違います。今は、俺がいない三日を、この村は持ちこたえます」
◇
伯爵は、机の上で手を組んだ。
「ジン」
「はい」
「私は、お前を召し抱えたい」
来た、と思った。
「領の常備兵を、作ろうと考えている。今は、各村が自分でやるしかない。だが、それでは限界がある。訓練を受けた者を五十人、東の縁に置きたい」
「……人手は、集まりますか」
「集まらん。金がない」
伯爵は、あっさり言った。
「王都は出さん。三年で十一通、出した。返ってきたのは同じ文面だけだ。……だから、領の金で、少しずつやる。十年かかる」
ジンは、その言い方に、少し驚いた。
貴族というものは、もっと大きなことを言うのだと思っていた。この男は、十年かかると言った。
「その隊の長を、お前に任せたい」
伯爵は、続けた。
「身分は用意する。禄も出す。……村の出であることを、誰にも言わせん」
ジンは、少し考えた。
考える必要も、本当はなかった。
「お断りします」
シャルロッテが、腰を浮かせた。
「あなた、それがどういう——」
「シャルロッテ」
伯爵が、娘を止めた。
「理由を聞こう」
「村を、離れられません」
ジンは言った。
「東の縁に五十人置いても、リンデ村に届く数は減りません。あそこへ来るものは、あそこで止めるしかない。……俺が村を出れば、村の柵の外に、誰も立たなくなります」
「代わりを育てればよかろう」
「三年、やってみました」
ジンは言った。
「柵の立て方は、教えられました。囲み方も、逃げ方も、教えられました。……夜の森だけが、教えられなかった」
「なぜだ」
「教えると、死ぬからです」
座敷が、静まり返った。
「半端に教えれば、その人は森へ行きます。行って、勝てない相手に会って、退けずに死にます。……退くのを覚えるのに、俺は四十——」
言いかけて、止まった。
「……時間が、かかりました」
伯爵は、その言い淀みを、追及しなかった。
◇
「割に合わんな」
伯爵は、そう言った。
「お前の話は、どこまでも割に合わん。報奨を取らず、身分も取らず、毎晩森へ出て、朝は寝坊して笑われる」
「……はい」
「なぜやる」
ジンは、答えを探した。
理由は、一つしかなかった。だが、そのまま言うわけにはいかない。前世のことを、この人に話す気はなかった。
「昔」
だから、こう言った。
「守れなかったものが、あります」
伯爵は、何も訊かなかった。
しばらくして、机の上の帳面を、指で叩いた。
「私も、割に合わんことをしている」
「はい」
「二十年、読まれない数字を書いてきた。三年、届かない手紙を書いてきた。……妻には、無駄だと言われた。その通りだと思っていた」
伯爵は、帳面を開いた。空欄のページだった。
「だが、無駄ではなかったらしい。この空欄がなければ、私はここへ来ていない」
そして、閉じた。
「取り立ては、諦める。だが、これだけは受けてもらう」
「なんでしょう」
「教えろ」
伯爵は言った。
「森へ行く技ではない。柵の立て方だ。鳴子の吊り方だ。逃げ道の作り方だ。囲み方だ。……お前が村人に教えられたものを、東の縁の村全部に、教えろ」
ジンは、伯爵の顔を見た。
「それなら、村を離れずにできる。村々を回ればいい。……道は、私が直す。定期便は、娘がもう作っている」
「……それは」
「割に合うだろう」
伯爵は、初めて、笑った顔をした。
「一人で夜の森へ行くより、よほど多く救える。私は、そういう勘定をする男だ」
ジンは、深く頭を下げた。
「承知しました」
◇
伯爵の一行が発ったのは、翌朝だった。
見送りに出た村人の中で、シャルロッテだけが、馬に乗らなかった。
「わたくしは、残ります」
「……は」
「父の目として。それから、わたくしの目としても」
シャルロッテは、荷を下ろした。旅の荷にしては、多すぎる量だった。最初から、そのつもりで来たらしい。
「二年で村がどう変わったのか、記録します。柵の高さ、杭の間隔、鳴子の数、稽古の頻度。……全部、数字にします。数字にしないと、他の村へ持っていけません」
「宿は」
「村長の家に置いていただきます。話は通してありますわ」
用意周到だった。
「それと」
シャルロッテは、ジンを見た。
「一つだけ、腹が立っていることがあります」
「……はい」
「あなた、わたくしが三年かけて書いた十一通の手紙より、あなたの村の空欄一つのほうが、父を動かしたんですのよ」
ジンは、返す言葉を持たなかった。
「……申し訳ない」
「謝らないでくださいまし。余計に腹が立ちます」
シャルロッテは、ふん、と鼻を鳴らして、荷を持ち上げた。
「ですから、今度はわたくしが書きます。あなたの村の数字を。……次は、王都に読ませますわ」




