第四十二話 二十年分の帳面
◇
ヴァレンシュ伯爵は、二十年、同じ帳面をつけてきた。
領内の各村から上がってくる被害の届出を、月ごとに書き写す。日付、村名、被害の種別、死者、負傷者、失われた家屋と家畜。父の代から続く形式で、変えたことは一度もない。
意味があるとは思っていなかった。
王都へ十一通の上申を出して、返ってきたのは判で押した文面だけだった。数字を並べても、辺境の数字は誰も読まない。読まれない数字を、それでも書き写し続けてきた。
書くことしか、できなかったからだ。
◇
その朝、机の上には、雪解け後の届出が積んであった。
南の谷、四件。死者三。炭焼きの集落、二件。死者一、家屋二棟。東の三村、合わせて九件。死者七。
どの村も、同じことを書いていた。数が多かった。今までと違った。森から、押し出されるように来た。
——始まったか。
ペンを置いて、こめかみを押さえた。
三年、増え続けていた。増え方が、今年で変わった。これは波ではない。傾きだ。
伯爵は、地図を広げた。届出の場所に、印を打っていく。東から西へ、押し出す矢印を描くように、印が並んでいく。
打ち終えて、地図を眺めた。
——おかしい。
東の縁、大魔境にいちばん近いあたりに、印のない場所があった。
指を置いた。
リンデ村。
伯爵は、届出の束をもう一度めくった。リンデ村のものを探した。
なかった。
去年の束を出した。なかった。一昨年。なかった。
「シャルロッテ」
隣室に声をかけた。娘が、書類を抱えて入ってくる。
「なに、お父様」
「リンデ村の届出は、どこだ」
「ありませんわ」
即答だった。
「三年、ゼロです。……前に、お話ししたはずですけれど」
「聞いた覚えがない」
「お父様が、王都の返書に頭を抱えておられた時ですから」
シャルロッテは、書類を机に置いた。
「そのついでに申し上げたのが、悪うございました」
伯爵は、地図に置いた指を、動かせなかった。
「三年、ゼロ」
「ええ」
「あの村は、どこにある」
「東の縁です。大魔境から、いちばん近い村の一つ」
「……それで、ゼロか」
伯爵は、帳面を閉じた。
二十年、この帳面をつけてきて、初めて分かったことがあった。
数字が読まれないのは、数字が多すぎるからではない。無い数字は、誰も見ないからだ。
被害が出た村は、報告を上げる。上げれば、記録に残る。目に入る。
被害が出なかった村は、何も上げない。だから、何年経っても、誰の目にも入らない。
その村が、いちばん危険な場所にあっても。
◇
三日後、伯爵は自ら馬を出した。
シャルロッテが同行を申し出た。断ろうとして、やめた。この娘は、三年、上申の代筆をしてきた。見せる権利がある。
リンデ村へは、二日かかった。
近づくにつれ、道が良くなった。
これは奇妙なことだった。辺境の村へ向かう道は、村に近づくほど荒れる。人の手が回らなくなるからだ。だがこの道は、崩れた法面が直され、水の抜け道が切ってあった。
「……誰が、これを」
「定期便が通りますから」
シャルロッテが言った。
「わたくしが手配した便です。ですが、道の補修までは、頼んでおりません」
村の手前で、伯爵は馬を止めた。
柵が、見えた。
辺境の村の柵は、たいてい、獣よけの粗末なものだ。だがこれは違った。二重になっている。東側は、森の際まで伸びている。杭の間隔が均一で、傾いだものが一本もない。
そして、柵の上に、縄が渡してあった。等間隔に、板が吊るされている。
「鳴子です」
シャルロッテが言った。
「村の子供が作っていると聞きました」
村へ入ると、人々が畑を起こしていた。
伯爵の一行を見て、手を止め、頭を下げる。物珍しそうに見る者もいたが、怯えている者はいなかった。
——被害が出た村の顔ではない。
伯爵は、そう思った。この三月、東の村を回ってきた。どの村も、人の目が沈んでいた。次はうちかもしれない、という目だ。
この村の人間は、そういう目をしていなかった。
◇
村長の家で、話を聞いた。
老人は、雪解けの前に起きたことを、順に話した。
森が動いたこと。鳴子が鳴ったこと。女子供が岩場へ走ったこと。男が六組に分かれて、南の一本道の内側で止め続けたこと。
伯爵は、途中から、筆記を止めていた。
「……死者は」
「ゼロです」
村長は言った。
「重傷が一人。あとは、擦り傷と打ち身が十ばかり」
「数は。どのくらい来た」
「柵の内側に入ったのが、十五。それは、村の男で止めました」
村長は、そこで一度、言葉を切った。
「柵の外に、五十を超えて、積んでありました」
シャルロッテの手が、止まった。
「五十」
「数えきれてはおりません。下に埋まっていたのも入れれば、もっとあったでしょう。……それから、村の東の隘路に、一体」
村長は、両手を広げてみせた。
「これくらいの、大きいのが。杭を握って倒れておりました」
伯爵は、しばらく黙っていた。
「村の男が、それを」
「いいえ」
「では、誰が」
「一人です」
村長は、答えた。
「うちの村の、ジンという若いのが、一人で」
◇
伯爵は、その男に会う前に、村を歩いた。
柵を見た。杭は深く、間隔は均一だった。東側の柵の内側に、細い通路が確保してある。すぐに補修へ回れるようにだ。
逃げ道を見た。岩場までの道が三本。縄が張ってある。手で辿れるように。
井戸を見た。水を貯める樽が並んでいる。乾いた藁は、家から離れた場所にまとめてあった。
どれも、思いつきではなかった。
伯爵には分かった。二十年、被害の記録をつけてきた男だ。どういう時に人が死ぬかを、数字で知っている。
——この村の備えは、人が死ぬ理由を、一つずつ潰してある。
「シャルロッテ」
「はい」
「この村は、いつからこうだ」
「二年前からと、聞いております」
「二年」
「柵が、二年前。稽古が、その秋。当番が、その冬。……順に、増えていったそうです」
伯爵は、村の中央の大樹を見上げた。
「三年、届出がゼロだったな」
「はい」
「柵は二年前だ」
シャルロッテが、顔を上げた。
「……一年、合いませんわ」
「合わん」
伯爵は、答えた。
「柵ができる前の一年、この村はどうやって、ゼロだった」
◇
村長の家の裏で、伯爵は、その男を見た。
若い。まだ十七か、そこらだろう。左腕を布で吊り、右手だけで木の桶を運んでいる。すれ違った婆さまに何か言われて、短く頷いていた。
背が高いわけでも、体が大きいわけでもない。目立つところが、何もない男だった。
「あれが、ジンです」
村長が言った。
伯爵は、その男が桶を置き、土を掘り返している畑のほうへ歩いていくのを見ていた。
畑を、耕していた。
五十を超える魔物を一晩で仕留めた男が、雪解けの土を、片手で起こしていた。
伯爵は、二十年つけてきた帳面のことを考えた。
数字は、嘘をつかない。届出は届出であり、ゼロはゼロだ。
だが、あの空欄は、嘘のようだった。
何もなかったのではない。何も起きなかったのでもない。
あそこには、書かれなかったものが、三年ぶん、詰まっていた。
「……あの男を、呼んでくれ」
伯爵は言った。
「話がしたい」




