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転生した名もなき侍は今日も静かに村を守る  作者: morino
第三章 スタンピードと露見
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第四十二話 二十年分の帳面


ヴァレンシュ伯爵は、二十年、同じ帳面をつけてきた。


領内の各村から上がってくる被害の届出を、月ごとに書き写す。日付、村名、被害の種別、死者、負傷者、失われた家屋と家畜。父の代から続く形式で、変えたことは一度もない。


意味があるとは思っていなかった。


王都へ十一通の上申を出して、返ってきたのは判で押した文面だけだった。数字を並べても、辺境の数字は誰も読まない。読まれない数字を、それでも書き写し続けてきた。


書くことしか、できなかったからだ。



その朝、机の上には、雪解け後の届出が積んであった。


南の谷、四件。死者三。炭焼きの集落、二件。死者一、家屋二棟。東の三村、合わせて九件。死者七。


どの村も、同じことを書いていた。数が多かった。今までと違った。森から、押し出されるように来た。


——始まったか。


ペンを置いて、こめかみを押さえた。


三年、増え続けていた。増え方が、今年で変わった。これは波ではない。傾きだ。


伯爵は、地図を広げた。届出の場所に、印を打っていく。東から西へ、押し出す矢印を描くように、印が並んでいく。


打ち終えて、地図を眺めた。


——おかしい。


東の縁、大魔境にいちばん近いあたりに、印のない場所があった。


指を置いた。


リンデ村。


伯爵は、届出の束をもう一度めくった。リンデ村のものを探した。


なかった。


去年の束を出した。なかった。一昨年。なかった。


「シャルロッテ」


隣室に声をかけた。娘が、書類を抱えて入ってくる。


「なに、お父様」


「リンデ村の届出は、どこだ」


「ありませんわ」


即答だった。


「三年、ゼロです。……前に、お話ししたはずですけれど」


「聞いた覚えがない」


「お父様が、王都の返書に頭を抱えておられた時ですから」


シャルロッテは、書類を机に置いた。


「そのついでに申し上げたのが、悪うございました」


伯爵は、地図に置いた指を、動かせなかった。


「三年、ゼロ」


「ええ」


「あの村は、どこにある」


「東の縁です。大魔境から、いちばん近い村の一つ」


「……それで、ゼロか」


伯爵は、帳面を閉じた。


二十年、この帳面をつけてきて、初めて分かったことがあった。


数字が読まれないのは、数字が多すぎるからではない。無い数字は、誰も見ないからだ。


被害が出た村は、報告を上げる。上げれば、記録に残る。目に入る。


被害が出なかった村は、何も上げない。だから、何年経っても、誰の目にも入らない。


その村が、いちばん危険な場所にあっても。



三日後、伯爵は自ら馬を出した。


シャルロッテが同行を申し出た。断ろうとして、やめた。この娘は、三年、上申の代筆をしてきた。見せる権利がある。


リンデ村へは、二日かかった。


近づくにつれ、道が良くなった。


これは奇妙なことだった。辺境の村へ向かう道は、村に近づくほど荒れる。人の手が回らなくなるからだ。だがこの道は、崩れた法面が直され、水の抜け道が切ってあった。


「……誰が、これを」


「定期便が通りますから」


シャルロッテが言った。


「わたくしが手配した便です。ですが、道の補修までは、頼んでおりません」


村の手前で、伯爵は馬を止めた。


柵が、見えた。


辺境の村の柵は、たいてい、獣よけの粗末なものだ。だがこれは違った。二重になっている。東側は、森の際まで伸びている。杭の間隔が均一で、傾いだものが一本もない。


そして、柵の上に、縄が渡してあった。等間隔に、板が吊るされている。


「鳴子です」


シャルロッテが言った。


「村の子供が作っていると聞きました」


村へ入ると、人々が畑を起こしていた。


伯爵の一行を見て、手を止め、頭を下げる。物珍しそうに見る者もいたが、怯えている者はいなかった。


——被害が出た村の顔ではない。


伯爵は、そう思った。この三月、東の村を回ってきた。どの村も、人の目が沈んでいた。次はうちかもしれない、という目だ。


この村の人間は、そういう目をしていなかった。



村長の家で、話を聞いた。


老人は、雪解けの前に起きたことを、順に話した。


森が動いたこと。鳴子が鳴ったこと。女子供が岩場へ走ったこと。男が六組に分かれて、南の一本道の内側で止め続けたこと。


伯爵は、途中から、筆記を止めていた。


「……死者は」


「ゼロです」


村長は言った。


「重傷が一人。あとは、擦り傷と打ち身が十ばかり」


「数は。どのくらい来た」


「柵の内側に入ったのが、十五。それは、村の男で止めました」


村長は、そこで一度、言葉を切った。


「柵の外に、五十を超えて、積んでありました」


シャルロッテの手が、止まった。


「五十」


「数えきれてはおりません。下に埋まっていたのも入れれば、もっとあったでしょう。……それから、村の東の隘路に、一体」


村長は、両手を広げてみせた。


「これくらいの、大きいのが。杭を握って倒れておりました」


伯爵は、しばらく黙っていた。


「村の男が、それを」


「いいえ」


「では、誰が」


「一人です」


村長は、答えた。


「うちの村の、ジンという若いのが、一人で」



伯爵は、その男に会う前に、村を歩いた。


柵を見た。杭は深く、間隔は均一だった。東側の柵の内側に、細い通路が確保してある。すぐに補修へ回れるようにだ。


逃げ道を見た。岩場までの道が三本。縄が張ってある。手で辿れるように。


井戸を見た。水を貯める樽が並んでいる。乾いた藁は、家から離れた場所にまとめてあった。


どれも、思いつきではなかった。


伯爵には分かった。二十年、被害の記録をつけてきた男だ。どういう時に人が死ぬかを、数字で知っている。


——この村の備えは、人が死ぬ理由を、一つずつ潰してある。


「シャルロッテ」


「はい」


「この村は、いつからこうだ」


「二年前からと、聞いております」


「二年」


「柵が、二年前。稽古が、その秋。当番が、その冬。……順に、増えていったそうです」


伯爵は、村の中央の大樹を見上げた。


「三年、届出がゼロだったな」


「はい」


「柵は二年前だ」


シャルロッテが、顔を上げた。


「……一年、合いませんわ」


「合わん」


伯爵は、答えた。


「柵ができる前の一年、この村はどうやって、ゼロだった」



村長の家の裏で、伯爵は、その男を見た。


若い。まだ十七か、そこらだろう。左腕を布で吊り、右手だけで木の桶を運んでいる。すれ違った婆さまに何か言われて、短く頷いていた。


背が高いわけでも、体が大きいわけでもない。目立つところが、何もない男だった。


「あれが、ジンです」


村長が言った。


伯爵は、その男が桶を置き、土を掘り返している畑のほうへ歩いていくのを見ていた。


畑を、耕していた。


五十を超える魔物を一晩で仕留めた男が、雪解けの土を、片手で起こしていた。


伯爵は、二十年つけてきた帳面のことを考えた。


数字は、嘘をつかない。届出は届出であり、ゼロはゼロだ。


だが、あの空欄は、嘘のようだった。


何もなかったのではない。何も起きなかったのでもない。


あそこには、書かれなかったものが、三年ぶん、詰まっていた。


「……あの男を、呼んでくれ」


伯爵は言った。


「話がしたい」

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