第四十一話 侍が眠る夜
◇
三日、村は片付けに追われた。
柵を立て直し、畑の土を戻し、死体を埋めた。埋める穴は、村から離れた窪地に掘った。若い衆が交代で掘り、婆さまたちが握り飯を運んだ。
粉屋は、四日目の朝に目を覚ました。
「……ああ、痛ぇ」
第一声がそれだったので、村中が笑った。婆さまが泣きながら笑って、粉屋が「泣くか笑うか、どっちかにしろ」と言って、また笑いが起きた。
リゼは、その輪の中にいなかった。
土間の隅で膝を抱えて、大人たちに何か言われるたび、身を縮めていた。
「リゼちゃん、あんた、どうやったんだい」
「あの光は、なんだったの」
「教会に、知らせなくていいのかね」
悪意はなかった。皆、ただ驚いていた。だが、六歳の子供が受け止めるには、多すぎる量だった。
ジンは、輪の外からリゼを引っぱり出して、外へ連れて行った。
「おにいちゃん、あたし、悪いことした?」
「してない」
「でも、みんな」
「驚いてるだけだ。……お前は、粉屋のおじさんを助けた。それだけだ」
リゼは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「手が、熱かった」
「そうか」
「今も、ちょっと熱い」
ジンは、妹の手を取った。小さな手だった。熱くはなかった。だが、リゼには熱いのだろう。
——教会に知らせるかどうかは、いずれ決めなければならない。
決めるのは、今日ではない。今日は、この子が笑って眠れればそれでいい。
「リゼ」
「ん?」
「よくやった」
リゼは、ようやく、少し笑った。
◇
その夜も、ジンは森へ出ようとした。
肋は、まだ折れたままだ。左腕は吊っている。歩けば、脇腹に杭を打たれるような痛みが走る。
それでも、行かなければならない理由があった。
群れは終わったが、押し出す力は止まっていない。あの夜、村へ来なかったものが、まだ森にいる。散らばったものが、少しずつ集まって、また村へ向かい始める。
三日、休んだ。三日ぶんが、森に溜まっている。
戸口で草鞋の紐を締めていると、背中で声がした。
「どこ行くの」
エマだった。
「森だ」
「その体で」
「見るだけだ。斬らない」
「嘘」
エマの声は、静かだった。怒鳴られたほうが、まだ楽だったかもしれない。
「あんた、二年前からずっとそうよ。夜になると、いなくなる」
ジンは、紐を締める手を止めた。
「知ってたのか」
「知らなかった。……昨日まで」
エマは、戸口に手をついた。
「みんな、話してる。柵の外の、あの山のこと。板きれのこと。……あたし、あんたが眠れないの、知ってた。前世のせいだって思ってた。眠れないから、夜に何かしてるんだろうって。それだけだと思ってた」
言葉が、途切れた。
「そうじゃなかった。逆だったのね」
ジンは、答えなかった。
「眠らないために、夜があったんじゃない。夜に行くために、眠らなかったんでしょう」
◇
村の中央、大菩提樹の下に、人が集まっていた。
ジンが戸を出た時には、もう二十人ほどが立っていた。松明を持っている者もいる。ほとんどが、あの夜、一本道に立った男たちだった。
先頭に、村長がいた。
「ジン」
杖の先が、雪の残りを突いた。
「今夜から、当番を変える」
「……当番、ですか」
「柵の外だ」
村長は、そう言った。
ジンは、村長の顔を見た。それから、その後ろに並ぶ顔を見た。猟師がいた。若い衆がいた。腕を吊った者も、頭に布を巻いた者もいた。
「無理です」
ジンは言った。
「森は、村の見回りとは違います。暗い中で気配を読んで、勝てる相手だけを選んで、勝てない相手からは退く。それは——」
「教えて身につくもんじゃねえ、だろ」
猟師が、遮った。
「知ってるよ。今朝、あの山を見て分かった。俺ら全員で行ったって、あんたの代わりにはならねえ」
「では」
「代わりにはならねえ。だから、代わりをやるとは言ってねえ」
猟師は、松明を持ち直した。
「森には行かねえ。柵の外を、歩く。村の周り一周だ。あんたが森の奥でやってきたのは、無理だ。だが、柵の外を歩いて、何かいたら鳴子を鳴らして逃げるくらいなら、俺らにもできる」
「それでは、村に届く数が——」
「減らねえよ。だから、そのぶんは、あんたが明日やりゃあいい」
猟師は、言い切った。
「今夜じゃなくていいってことだ」
ジンは、口を開いて、閉じた。
理屈は、通っていた。柵の外を歩いて警戒するだけなら、村人にもできる。それで減らせる数はゼロだ。だが、今夜届くものを見つけて鳴子を鳴らせれば、村は起きる。起きた村は、六組で止められる。
一晩ぶんを、後ろへずらせる。
——それだけのことだ。
それだけのことを、この二年、誰も言い出さなかった。言い出せる形になっていなかったからだ。
柵ができ、鳴子ができ、逃げ道ができ、六組ができた。全部そろって、初めて「一晩ぶんを、後ろへずらす」ということが、できるようになった。
「……ですが」
ジンは、まだ言おうとした。
「今夜、俺が行かなければ、明日の森が」
「ジン」
村長が、遮った。
「わしはな、昨日、あんたの納屋を見た」
ジンの手が、止まった。
「板きれを、数えようとした。数えられんかった。……その一番上の一枚に、丸が一つ、彫ってあった」
村長は、杖を握り直した。
「あの晩の前に、あんた、素振りをしてから出たな」
「……はい」
「三年だ」
老人の声は、震えていなかった。
「三年、一日も欠かさんかったんだろう。夜に出て、朝に帰って、寝坊して、皆に笑われて。……その笑ってた側が、わしらだ」
誰も、何も言わなかった。
「わしらはな、この村を、たまたま魔物の少ない土地だと思っとった。運がいいと思っとった。柵のおかげだと思っとった。……どっちも間違いだった。柵はな、あんたが取りこぼした分を止めるためのもんだった。それだけだったんだ」
村長は、一歩、前に出た。
「三年ぶんの礼は、言わん。言葉でどうにかなる量じゃねえ」
そして、こう言った。
「今夜は、わしらが見てる。……寝ろ」
◇
ジンは、動けなかった。
「寝ろ」
もう一度、村長が言った。
「あんたが倒れたら、この村は終わりだ。それが、昨日はっきりした。……だからな、これは、あんたのためじゃねえ。村のためだ。そう思って、寝ろ」
理屈を、用意されていた。
断れないように、村のためだという形にして、差し出されていた。この老人が、どれだけ考えてこの言い方を選んだのかが、分かった。
ジンは、口を開いた。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
「……かたじけない」
それだけが、出た。
猟師が笑った。
「なんだそりゃ」
「……ありがとうございます」
「おう」
男たちが、松明を持って、柵のほうへ歩き出した。四人ずつ、三組。夜明けまで、交代で村の周りを回るのだという。
エマが、その背中を見送ってから、こちらを向いた。
「ほら、寝なさい」
「ああ」
「言っとくけど、あたし、あんたが寝るまで見てるからね」
「……見ていても、寝られない」
「じゃあ、寝るまで見てる」
◇
寝床に入ったのは、日が変わる前だった。
天井の梁が見えた。三年、この梁を見ながら、起き上がる時間を待っていた。
肋が痛む。左腕が重い。目を閉じても、あの隘路の岩の感触と、皮の厚さと、通らなかった刃の手応えが、瞼の裏に残っていた。
眠れるはずが、なかった。
外で、雪を踏む音がした。
四人ぶんの足音が、家の前を通り過ぎていく。低い声。誰かが咳をして、誰かが「静かにしろ」と言った。松明の火が、板戸の隙間を、ゆっくりと横切った。
——歩いている。
前世の、あの夜のことを思った。
物見の櫓の上で、十日目の夜だった。仲間は減っていた。交代する者がいなかった。ずっと一人だった。誰も来なかった。
誰かが来ていたら、と、何万回も思った。
たった一晩、誰かが「代わる」と言ってくれていたら、と。
板戸の外を、また足音が通った。今度は、反対回りだった。
——歩いている。
ジンは、目を閉じた。
痛みは、あった。梁のことも、隘路のことも、頭から消えなかった。
それでも、体が、少しずつ下へ沈んでいくのが分かった。三年、一度も許さなかった沈み方だった。
——今夜は、いい。
そう思ったのが、最後だった。
◇
翌朝、ジンは、日が昇りきってから目を覚ました。
こんなに明るくなってから起きたのは、記憶にないほど久しぶりだった。
土間で、母が振り返った。
「あら」
それだけ言って、また鍋に向き直った。何も言わずにいてくれたことが、ありがたかった。
外へ出ると、柵のほうから、四人が戻ってくるところだった。夜明けまで歩いた組だ。皆、目を赤くして、足を引きずっている。
「よお」
猟師が、大あくびをしながら手を上げた。
「何もなかったぞ」
ジンは、その言葉を聞いて、少し、息を止めた。
——何もなかった。
ダンが、四十年、毎朝言っていた言葉だった。
「……ええ」
ジンは、言った。
「何もない朝が、いちばんいいです」
猟師は、きょとんとした顔をして、それから、はは、と笑った。
「違えねえ」




