第三十九話 届く刃
◇
一目で、勝てない相手だと分かった。
肩の高さが、ジンの倍近い。腕は丸太のように太く、握っているのは、北の斜面から引き抜いた杭だ。あれを振られたら、受けるという選択肢はない。骨ごと持っていかれる。
村の男が二十人で囲んでも、届かない。囲む前に、半分が潰される。
——だから、囲ませない。
ジンは、村へ背を向けた。
柵とは反対の方向へ、五歩、走った。それから振り返り、鞘を鳴らした。
音に、影が反応した。頭が、こちらを向く。
「こっちだ」
聞こえるはずもない言葉を、それでも口にした。
影が、動いた。地面が揺れた。
ジンは走った。村から離れる方角へ。北の斜面の裾を、東へ。
◇
追わせながら、体の状態を確かめていた。
腕は上がらない。息は乱れている。一晩、数え切れないほど振った後だ。左の脇腹に、いつ受けたのか分からない打撲がある。
——万全ではない。
だが、それは向こうも同じだった。
追ってくる影の、右の後脚が、わずかに流れている。踏み込むたび、体が右へ傾ぐ。抜け道の縄に、一度は掛かったのだろう。腹には、いくつか浅い傷。村の男たちの誰かが、届かないなりに当てたのかもしれない。
そして、この巨体は、一晩ここまで歩いてきている。押し出されて、森を割って、木を倒しながら。
疲れているのは、こちらだけではない。
——それでも、正面からは無理だ。
ジンは、走る先を決めた。
北の斜面の東の端に、狭い切れ込みがある。雪解けの水が削った、岩と根の隘路だ。人が横になって、ようやく二人並べる。
二年前、あの道を潰すべきかどうか、迷った場所だった。潰さなかったのは、そこが村への近道にならないからだ。獣も、あまり通らない。
通らない理由は、狭すぎるからだった。
◇
隘路に、飛び込んだ。
岩の間を抜け、根の張った段差を越える。背中で、影が突っ込んでくる音がした。
肩が、岩に当たった。
追ってきた巨体が、隘路の入り口で詰まったのだ。杭を振り上げようとして、腕が岩に当たる。振り下ろせない。横に薙ごうとして、こちらも当たる。
体が大きいということは、こういう場所では、それだけで不利になる。
ジンは、振り返った。
十歩の距離。相手は、身をよじりながら、少しずつ前へ来る。岩を削り、根を引きちぎりながら。
長くは保たない。この隘路は、いずれ広がる。
——ここで、決める。
ジンは、抜いた。
◇
一の太刀は、前へ出てきた腕に入れた。
刃が、皮に食い込んだ。そこで、止まった。
——硬い。
厚い皮膚の下に、脂と、筋の層がある。ゴブリンや狼の手応えとは、まるで違う。斬るというより、叩いているのに近い。
腕が振られた。ジンは岩の陰へ転がった。振り遅れた杭が、岩を砕いた。石の破片が、頬を裂いた。
二の太刀。膝の裏を狙った。
浅い。皮を裂いただけだ。血は出たが、動きは止まらない。
三の太刀。四の太刀。
どれも、届いていなかった。
刀は、いい刀だった。オルグが二月かけて打った、地鉄の詰んだ一本だ。だが、この皮の厚さの前では、いい刀というだけでは足りなかった。
ジンは、岩の陰で、息を整えた。
——足りないのは、刃じゃない。
背筋に、汗が伝った。
——通す力だ。
◇
身体強化は、体に薄く、均一に、常に流している。三年、そうしてきた。呼吸と同じ場所に置いてある。
だが、それは常に、体の中に留めていた。
体の外にあるものへ流したことは、一度もない。
理屈は、分かる。刃も、握っている以上は、手の延長だ。木の柄を伝って、鉄まで届かない道理はない。
ただ、やったことがなかった。
やる余裕が、なかった。
——今なら、余裕はもっとない。
ジンは、刀を握り直した。
柄を握る手のひらから、指の付け根から、いつも体に流しているものを、そのまま先へ押し出す。
漏れた。
ほとんどが、柄の途中で散った。目に見えるものではないが、感覚で分かる。桶の底が抜けているような、間の抜けた手応えだった。
——薄く。
——均一に。
——長く。
毎朝、いや、毎晩。大菩提樹の下で、村の空き地で、川原で、繰り返してきた言葉だった。フィオナに教えた言葉でもあった。
火を大きくしようとするな。同じ量を、こぼさず、長く。
ジンは、量を減らした。
一気に押し込むのをやめ、細く、細く、途切れないように流す。
柄が、温くなった気がした。気のせいかもしれない。
そこへ、影が来た。
隘路が、広がりかけていた。
◇
杭が、振り下ろされた。
ジンは、避けなかった。避ければ、次に立て直すだけの余力が、もうない。
半歩、内へ入った。
振り下ろす腕の内側、力の乗る前の位置。前世で何百回もやった、後の先の入り方だった。体は追いつかない。だから、位置で稼ぐ。
刃を、脇の下へ入れた。
——通れ。
引いた。
反りに従って、刃が走った。
一の太刀で止まった場所に、今度は止まらなかった。皮を裂き、脂の層を分け、その下の筋まで刃が届いた。手のひらに、抜けていく感触が返ってきた。
影が、初めて声を上げた。
腕が跳ね上がる。ジンは離れようとして、遅れた。
杭ではなく、肘が、脇腹に入った。
体が、宙に浮いた。岩に叩きつけられ、息が全部、外へ出た。視界の端が白く飛んだ。
——立て。
肋が、何本か鳴っていた。左腕に力が入らない。
——立て。
倒れたままでいれば、次は村へ行く。柵の内側には、六組の男と、三本の火と、岩場に集まった女子供がいる。
——立て。
ジンは、立った。
◇
影も、傷を負っていた。
脇の下から血が流れ、右腕が下がっている。振り上げる高さが、さっきより低い。
それでも、まだ立っていた。
ジンは、刀を右手だけで構えた。左は、使えない。
流す。細く、途切れないように。
一度できたことは、二度目は少し楽だった。手が、道を覚えていた。
影が、来た。
ジンは、動かなかった。
隘路の岩と、根の段差と、相手の傾いだ右脚。それらが、どこで相手の足を止めるかを、体が計算していた。
半歩下がる。
影の前脚が、根に取られた。ほんの一瞬、体が沈む。
そこへ、入った。
首の脇、顎の下。皮の薄い場所は、どんな生き物でも決まっている。
刃が、通った。
血が噴いた。ジンは、そのまま押し込んだ。押し込みながら、体を横へ流す。倒れてくる巨体の、下から抜ける。
地面が、震えた。
それきり、動かなかった。
◇
ジンは、膝をついた。
刀を杖にして、体を支える。息が、吸っても入ってこない。肋が刺さっているのかもしれない。頬から流れた血が、顎の先で溜まって、雪に落ちた。
しばらく、そうしていた。
それから、顔を上げた。
——村。
立ち上がった。左腕がぶら下がっている。歩くたび、脇腹に杭を打たれるような痛みが走る。
構わず、歩いた。
隘路を抜け、斜面の裾を回り、柵沿いに南へ。
村の灯りは、まだついていた。
一本道の入り口に、松明の輪が残っている。六組の男たちが、まだ位置を崩していない。誰かが、こちらに気づいて、走ってきた。
「ジン!」
猟師だった。
「おい、あんた、血が——」
「全員は」
「え」
「全員、無事か」
猟師は、口をつぐんだ。
それから、首を振った。
「……粉屋が、やられた」
◇
粉屋は、村長の家の土間に寝かされていた。
腹から胸にかけて、深い裂傷。狼の爪だ。柵を飛び越えた最後の一頭が、岩場への道の入り口に回り込み、そこで、粉屋が立ちはだかったのだという。
その後ろにいたのは、リゼだった。
「怪我した人の手当てするって、聞かなくて」
母のミーナが、震える声で言った。
「岩場に薬草を持って行くって、走って、それで——」
土間の隅に、リゼが座り込んでいた。血で汚れた手を、膝の上で握りしめている。目が、乾いていた。泣いていない。泣くことを、まだ思いつかない顔だった。
ジンは、粉屋の脇に膝をついた。
出血は、まだ止まっていない。布を当てても、すぐに赤が抜ける。息が、浅く、速い。この傷を、この村で塞げる者はいない。街まで三日。三日は、保たない。
——間に合わない。
その言葉が、頭の芯に触れた瞬間、体の奥で、何かが軋んだ。
前世の、あの夜だ。
炎の中を走って、家の戸を開けて、そこにあったものを見た時の。
「……おにいちゃん」
リゼが、立っていた。
血で汚れた手を、こちらへ差し出すように、持ち上げている。
「これ、やったら、だめ?」
「リゼ」
「痛いの、なおれって。……いつもの、やつ」
ジンは、妹の顔を見た。
土間の灯りが、その手のひらを照らしていた。
「……やってくれ」
リゼは、粉屋の胸に、両手を置いた。
それから、いつもの、遊びのような、呪いのような一言を言った。
「いたいの、なおれ」
土間の空気が、一度、震えた。
リゼの手のひらから、白い光が滲んだ。血に濡れた布の下、裂けた肉の縁が、ゆっくりと、寄っていく。
誰かが、息を呑んだ。
ミーナが、口を押さえた。村長が、杖を落とした。
ジンは、動かなかった。
動けなかった、というほうが、正しかった。
光は、長くは続かなかった。数呼吸で消え、リゼが、へたり込むように座った。
だが、粉屋の胸は、上下していた。
さっきより、深く。ゆっくりと。
血は、止まっていた。




