第三十八話 三人で一匹
◇
鳴子が鳴ってから、女子供が岩場へ着くまで、七十を数えた。
稽古では、六十だった。夜で、雪が緩んでいて、赤子を抱えた者がいて、七十。
上等だった。
ジンは、村の入り口の櫓——といっても、丸太を三本組んだだけのものだ——に登り、東を見ていた。松明の火が、南の一本道の内側に、六つ。組ごとに固まっている。誰も持ち場を離れていない。
「ジン!」
下から、フィオナの声がした。杖を握って、息を切らしている。
「あたし、どこ行けばいい!」
「一本道の、内側。組の後ろだ」
「戦うよ!」
「灯りを頼む」
フィオナが、口を開けた。
「……灯り?」
「暗いと、三人が揃わない。誰がどこにいるか見えないと、決めた通りに動けない。……お前の火は、二本、こぼさずに保てる」
「三本、出せる」
「なら、三本頼む」
フィオナは、何か言い返そうとして、やめた。杖を握り直し、走っていった。
その後ろ姿を見ながら、ジンは思った。この娘は、たぶん、今日の役目の意味を、あとで分かる。灯りがなければ、村は自分たちの手際で自分たちを傷つける。それを防ぐのは、剣より難しい。
◇
森の際に、最初の影が出た。
一つではなかった。木立の間に、点々と、いくつも。腰の高さのものが多い。その間に、もっと低く、四つ足で走るものが混じっている。
——狼が、混ざっている。
ジンは、櫓を降りた。
柵の外へ出る。背中で、村の門が閉められる音がした。
北へ回り込み、獣道の合流点に立った。倒木で潰した道の、唯一残した抜け道だ。ここを通らなければ、村の南の一本道へは出られない。逆に言えば、ここを通るものは、必ず一列になる。
二年かけて、そういう形にしてきた。
先頭が来た。
ゴブリンだ。走っていない。押し出されて、歩いている。目が、村の灯りを見ている。
ジンは、抜いた。
一匹目。二匹目。三匹目。
刃筋は、通った。押すのではなく、引く。反りに従わせる。手首は、余計な仕事をしなかった。二月分の素振りが、こういう夜のためにあった。
四匹目で、後ろが詰まった。列が押し合い、脇の茂みへ溢れ出す。
そこには、猟師が仕掛けた縄の輪があった。
一匹が足を取られ、撥ねた枝が、後続の頭を打った。倒れたところへ、ジンが踏み込む。五匹目。六匹目。
数えるのは、途中でやめた。
◇
半刻ほどで、抜け道は死体で埋まった。
死体が積み上がれば、そこはもう道ではない。群れは、迂回を始めた。北の斜面の、杭を打った側へ。
杭は、越えられる高さだ。だが、越えるには、いったん止まらなければならない。
止まった影を、ジンは横から突いた。
——順番に、こちらの手数の中へ入れる。
それだけを考えていた。倒すことではない。減らすことでもない。同時に村へ届く数を、五匹以下に保ち続ける。それだけが、今夜の仕事だった。
三十を過ぎたあたりで、腕の感覚が変わった。振っているのに、振っている気がしない。重さが、腕ではなく背中に来ている。
——半分だ。
まだ半分も来ていない。
◇
村の側では、鳴子が二度目に鳴った。
南の一本道に、抜けたものがあったのだ。
ジンは、走った。柵沿いに南へ。走りながら、数えた。抜けたのは、三か。四か。
一本道の入り口に、松明の輪ができていた。
「来た! 正面!」
粉屋の声だった。
「退くな! 目だけ引きつけろ!」
正面に立ったのは、粉屋だった。鉈を構え、腰を落として、動かない。ゴブリンの目が、その火に引かれる。
半呼吸。
「今!」
横から、若い衆が鍬を振り下ろした。膝の裏を打つ。ゴブリンが崩れる。後ろに回っていたもう一人が、逃げ道を塞ぐように踏み込み、上から叩いた。
一匹。
「次、来るぞ! 二組目、前へ!」
村長の声だ。位置を捌いているのは、村長だった。腰を痛めて鍬も握れない老人が、松明の下で、組を回している。
「一組目、下がれ! 息を入れろ!」
三人で一匹を止めるということは、三人が疲れるということだ。一匹止めるごとに、組を回さなければ、四匹目で誰かが遅れる。遅れた組から、怪我人が出る。
村長は、それを回していた。六組を、順に。
二匹目が、三人に囲まれる。
三匹目が、囲まれる。
四匹目で、若い衆の一人が先に出た。
「出るな!」
粉屋の怒鳴り声が飛んだ。
「正面は俺だ! お前は横だ!」
若い衆が、慌てて下がる。半呼吸遅れて、横から鍬が入った。形は崩れたが、止まった。
「……悪ぃ」
「謝るな。次、直せ」
五匹目。今度は、崩れなかった。
——動けている。
ジンは、柵の外から見て、それを確かめた。
決めた通りに動いていた。誰も一人で前に出ていない。正面が退かず、横が半呼吸を待ち、後ろが塞ぐ。稽古で百回やった形が、そのまま出ている。
そして、三本の火が、その全部を照らしていた。
一本道の後ろで、フィオナが杖を掲げていた。膨れず、爆ぜず、風にも消えない三本の火が、男たちの足元と手元を、はっきりと見せていた。
「フィオナ! そっちの端、暗い!」
「はいはい!」
火が、動いた。
村の奥から、小さい影が走ってきた。
リゼだった。手に、布の束を抱えている。
「怪我した人、こっち!」
「リゼ! 岩場へ行け!」
エマの声が飛んだが、リゼは止まらなかった。
「だって、腕、切れてる人いるもん!」
打ち身をした若い衆の腕に、布を巻きつけている。巻き方は、ぐるぐるで、およそ手当てとは言えない代物だった。それでも、巻いてもらった当人は、笑った。
「おう、効くな。これ」
「効くよ。あたしが巻いたもん」
その笑い声が、松明の輪の中を、一往復した。
ジンは、柵の外へ戻った。中は、任せられる。
◇
任せられる、と思ったのは、その時までだった。
夜の半ばを過ぎて、群れの質が変わった。
ゴブリンが減り、狼が増えた。狼は、一本道へ入らなかった。柵に沿って走り、低い場所を探し、そこから飛んだ。
囲みを、嫌う。
ジンは、飛び越えた三頭を追った。畑の中で追いつき、二頭を斬った。三頭目は、家屋の間へ逃げた。
「ジン!」
エマの声が、家々の間から響いた。
「こっち! 婆さまが遅れてる!」
岩場への三本の道のうち、一本の入り口で、婆さまが転んでいた。その前に、狼がいた。
エマが、棒を構えて立っていた。
転び方、逃げ方、棒での払い方。エマが習ったのは、時を稼ぐ技だ。倒す技ではない。
だが、その棒は、狼の鼻先で、正確に円を描いていた。近づけば当たる、という円を。狼は、間合いを測りかねて、低く唸っていた。
三呼吸。
その三呼吸で、ジンが届いた。
一撃で終わった。
「……遅い」
エマが、棒を下ろした。手が、震えていた。
「すまぬ」
「あんたが謝ることじゃないでしょ。……婆さま、立てる?」
婆さまは、腰を抜かしたまま、けらけら笑っていた。
「転び方は、稽古した通りだったよ。……立ち方は、まだ稽古してねえ」
エマが婆さまを抱え、道の奥へ消えていく。ジンは、その背中を見送ってから、また柵の外へ走った。
◇
明け方近く、群れの勢いが落ちた。
抜け道は死体で塞がり、北の斜面には杭が並び、南の一本道は六組の男が押さえ続けていた。狼は八頭中六頭までを潰し、残りは森へ引いた。
ジンは、柵の外で膝をついた。
腕が上がらない。息が、喉の奥で笛のような音を立てている。刃には脂が乗り、拭っても切れ味が戻らなくなっていた。
だが、村の灯りは、まだ全部ついていた。
一つも、消えていない。
村の側から、声が上がった。歓声ではない。ただ、誰かが誰かの名を呼んで、返事があって、それが順に伝わっていく音だった。
——生きているか。
——生きている。
その繰り返しが、村中を回っていた。
ジンは、立ち上がった。まだだ。群れの尻尾が、まだ森の中にいる。押し出す力が止まったわけではない。
そう思った時、
森が、鳴った。
木が折れる音だった。一本ではない。太い幹が、次々と、なぎ倒されていく音。
ゴブリンの立てる音ではなかった。狼の音でもなかった。
木立の間に、影が立った。
腰の高さのものが多かった群れの中で、その影だけが、木の枝を割って進んでいた。肩の高さが、ジンの背丈の倍近い。腕に、抜けた杭を一本、握っている。
村の側で、フィオナの三本の火が、揺れた。
「……なに、あれ」
誰かが、言った。
ジンは、鞘に手をかけた。
腕は、上がらない。息も、整っていない。
それでも、あれを柵の内側へ入れるわけには、いかなかった。




