第三十七話 鳥のいない朝
◇
雪解けの走りに、フィオナが来た。
約束より、ひと月早かった。荷を背負って村の入り口に立ち、柵の高さに目を丸くして、それからジンを見つけて手を振った。
「ちょっと! 何よこれ、砦じゃないの!」
「早いな」
「早いよ。悪い?」
フィオナは荷を下ろし、腰に手を当てた。
「街で、噂になってんの。辺境の依頼が、また増えたって。ヴィオラさんとこの地図、印だらけだった。……あたし、春まで待ってる場合かって思って」
「……そうか」
「なんか言いなさいよ。感激したとか」
「助かる」
フィオナは、それで満足したらしかった。
村の女たちは、街から来た魔法使いの娘を、しばらく遠巻きに見ていた。だが、フィオナが井戸端で指先に火を灯し、濡れた薪を乾かしてみせると、その日のうちに輪の中へ入っていた。
「あんた、便利だねえ!」
「便利って言うな。……でも、まあ、便利」
夜、リゼがフィオナの寝床に潜り込んで、朝まで出てこなかった。
◇
三日後の朝、鳥が鳴かなかった。
ジンが気づいたのは、夜明け前だった。森から帰る道で、いつもより静かだと思った。冬の終わりの朝は、雪の下で虫が動き出す分、鳥がうるさい。
その朝は、一羽も鳴かなかった。
家へ入らず、そのまま東の森の際まで戻った。獣道を三本、上流まで辿った。
——鹿の糞が、古い。
——兎の足跡が、ない。
——狐の巣穴が、空だった。
炭焼きの親方が半年前に言っていたことが、そのまま、村の裏の森で起きていた。
家へ戻り、囲炉裏の灰をならしていた母に、ジンは言った。
「母さん。今日から、蓄えの樽を、村長の家へ移してください」
母は、火箸を持つ手を止めた。それから、何も訊かずに頷いた。
「分かった。……ミーナの分と、婆さまとこの分もね」
◇
その日、村は動きを変えた。
杭を打つのをやめ、逃げ道の整備に人を回した。岩場までの三本の道を、雪をどけて踏み固める。老人と子供が、暗くても走れるように、道の脇に杭を立てて縄を張った。手で辿れば、目が見えなくても届く。
夜は、当番を倍にした。村の四隅に二人ずつ、交代で立つ。
「鳴子が鳴ったら」
ジンは、集まった村人に、もう一度言った。
「まず、走ってください。確かめないでください。何が来たか見ようとしないでください。……見に行った人から、死にます」
誰も、笑わなかった。
「男衆は、南の一本道の内側へ。組ごとに。位置は、稽古の通りです」
「ジンは、どこにいる」
粉屋が訊いた。
「柵の外です」
村人が、ざわりとした。
「外って、あんた」
「一本道の外で、数を減らします。中に入る数が五匹を超えないように」
「一人でか?」
「はい」
言ってから、ジンは付け足した。
「危なくなったら、退きます。柵の中へ。……無茶はしません」
粉屋は、しばらく黙っていた。それから、鉈の柄を握り直した。
「……ジン。俺ぁ、あんたが来る前の村を、覚えてるよ」
「はい」
「あの頃はな、こういう時、村の男が順番に外へ出たんだ。ダンの爺さんと、一緒にな。三人か四人でよ、松明持って、森の際まで見に行った」
その話は、初めて聞いた。
「爺さんは、いつも一番前を歩いた。……で、帰ってくると、何もなかった、って言うんだ。毎回な」
粉屋は、鼻の頭を掻いた。
「毎回、何もねえわけ、ねえよなあ」
ジンは、返事をしなかった。
「まあいい」
粉屋は、話を切った。
「あんたが外に立つなら、俺は一本道の一番前に立つ。……あんたが退いてくる時に、そこに誰もいなかったら、格好がつかねえだろうが」
その夜、村長の家に、もう一度、村の要が集まった。
決めることは、二つだった。誰が岩場へ行き、誰が残るか。それから、岩場へ行った者が、いつまで戻ってこないか。
「鳴子が鳴んだら、朝まで戻るな」
村長が言った。
「途中で静かになっても、戻るな。静かになったから終わったんだと思って戻った村が、どうなったかは、皆、聞いとるだろう」
窪地の村の話だ。誰も、口を挟まなかった。
「岩場は、婆さまが仕切れ。子供らの頭を、数で覚えとけ。名前じゃなく、数でだ」
「なんでだね」
「暗いと、名前は呼べん。数なら、数えられる」
婆さまが、黙って頷いた。
ジンは、その采配を、囲炉裏の隅で聞いていた。
二年前、この老人は「騒ぐほどのことかね」と言った。今は、誰よりも早く、逃げ方の指図をしている。
——教えたわけではない。
自分が教えたのは、柵の立て方と、鳴子の吊り方と、囲みの手順だけだ。名前ではなく数で覚えろ、という知恵は、この村がこの村の中で見つけたものだった。
◇
その夜、ジンは森へ出なかった。
出ようとしたところを、フィオナに捕まった。
「行かないで」
戸口で、袖を掴まれた。
「今夜は、だめ」
「なぜ」
「なぜって……」
フィオナは、言葉を探して、それから諦めたように言った。
「あんた、顔が死んでる」
「……そうか」
「そうか、じゃなくて」
袖を掴む手に、力が入った。
「あたし、街で、あんたの噂の話をしたでしょ。雑用係だとか、化物だとか。……あの時、あたし、腹立ったの。ちゃんと見てる人は見てるって、あんたは言ったけど。あたし、ちゃんと見てなかった」
「見ていた」
「見てない。二本の火のことばっかりで、あんたが毎晩どこ行ってんのか、一回も訊かなかった」
ジンは、フィオナの手を見ていた。細い指だった。半年前は、この指が震えて、火が膨れて、爆ぜていた。
「今日は、いい」
袖を、そっと外した。
「行かない」
「……ほんとに?」
「ああ。今夜、森は静かだ。静かすぎる」
嘘ではなかった。あの静けさの中へ一人で入るのは、割に合わない。数を減らすのは大事だが、減らす前にこちらが減っては、意味がない。
「……ならいい」
フィオナは、袖を離した。
その夜、ジンは久しぶりに、日の暮れた頃から横になった。
眠れはしなかった。天井の梁を見ながら、明後日か、明々後日か、と考えていた。獣が消えてから、押し出しが届くまでの日数を、炭焼きの親方の話から逆算していた。
眠れないまま、それでも横になっていた。体は、休ませた分だけ動く。
◇
翌日は、風がなかった。
村は、静かに動いた。誰も大声を出さなかった。婆さまが縄を綯う手の速さだけが、いつもと違った。
昼、ジンは大菩提樹の下で刀を振った。
百。数えるのはやめていたが、体が百で止まる。刃筋は、もう外れなかった。雪解けの水が、根の間を流れる音がしていた。
エマが、桶を持って通りかかった。
「ねえ」
「ああ」
「終わったらさ、また溝さらいやんなきゃね。あんた、いつも一番汚れる場所やるでしょ。今年もやりなさいよ」
「……そうだな」
「言質取ったから」
エマは、それだけ言って、行ってしまった。
ジンは、その背中を見送ってから、もう一度、刀を鞘に納めた。
終わったら、溝さらいをする。畑を起こす。柵を直す。夏には水路の当番が回ってくる。婆さまが縄を綯い、子供が板を削り、粉屋が笑って、リゼが騒ぐ。
その全部を、明後日の向こうに置いた。
◇
その夜、東の空が、鳴った。
雷ではなかった。地鳴りでもなかった。もっと低い、多くの足が同時に土を踏む音が、森を伝って届いた。
ジンは、寝床から起き上がった。
戸を開けると、当番の男が走ってくるところだった。松明の火が、震えている。
「ジン! 森が——森が、動いてる!」
村の四隅で、鳴子が、いっせいに鳴り始めた。




