第三十六話 柵の外
◇
村へ発つ前に、ギルドへ寄った。
ヴィオラの部屋は、相変わらず紙の匂いがした。杖を壁に立てかけ、支部長は分厚い綴りを膝に載せている。
「帰るのかい」
「はい」
「そうかい」
ヴィオラは、綴りをめくった。指が、途中で止まる。
「一つ、聞いていきな」
紙面を、こちらへ向けた。地名と、数字が並んでいる。この三年、辺境の各村から上がってきた被害の届出だった。
「南の谷、十九件。炭焼きの集落、十一件。窪地の村、八件——ああ、これはもう、村ごと消えたがね」
指が下へ滑って、ある行で止まった。
「リンデ村」
そこには、何も書かれていなかった。
「三年、ゼロだ」
ジンは、その空欄を見ていた。
「柵と鳴子は、二年前だったね。稽古も、当番も。……それでも、ゼロにはならないんだよ、普通は。備えってのは、被害を減らすものだ。無くすものじゃない」
ヴィオラは、綴りを閉じた。
「あんたの村は、どうやってゼロにしてるんだい」
問われて、ジンは少し考えた。
嘘は、つかなくてよかった。ただ、全部を言う必要も、なかった。
「……村の連中が、よくやっているので」
「なるほどね」
ヴィオラは笑わなかった。笑わずに、こちらを見た。
「気をつけて帰りな。……東の風が、悪い」
◇
村へ着いたのは、三日後の昼過ぎだった。
雪はもう根雪になっていた。柵の杭が、白い中に黒く並んでいる。遠目に見て、ジンは足を止めた。
杭が、増えていた。
村を出る時、東側の柵は途中で終わっていた。今は、森の際まで伸びている。傾いだ杭は打ち直され、鳴子の縄が、新しいものに替わっていた。
「おう、帰ったか!」
粉屋のおじさんが、雪の上を滑るように走ってきた。手に鉈を持っている。
「見ろよ。あれから、皆でやったんだ。俺ぁ、あんたが留守の間に東を繋いでやろうと思ってな」
「……立派です」
「そうだろう。だがな、まだ足りねえ。北の斜面が、まだだ」
粉屋の顔は赤かった。寒さのせいだけではないだろう。
家に着くと、母が湯を沸かし、父が黙って荷を受け取った。リゼが飛びついてきて、ジンの背の布包みに目を丸くした。
「なにこれ、長い」
「刀だ」
「かたな」
「剣のようなものだ」
「見せて」
「傷をする」
「見るだけ!」
結局、布の端だけめくって見せた。リゼは「うわ」と言って、それきり黙った。子供には、綺麗なものより、危ないものの方が分かるらしい。
◇
その夜から、村の話し合いが始まった。
村長の家の囲炉裏端に、村の要のところにいる者が集まった。ジンは、グレンツで見たものを、順に並べた。ヴィオラの綴りの数字。シャルロッテの帳面。窪地の村の四十二人と、四十人と、二人。
「……源は、大魔境です。それも、奥から押し出されている」
「どのくらい来る」
村長が訊いた。
ジンは、しばらく答えなかった。
「分かりません」
正直に言った。
「群れで来るのは、確かです。数は、読めない。……多ければ、百を超えます」
囲炉裏の火が、ぱち、と鳴った。
「百」
猟師が、乾いた声を出した。
「百のゴブリンが、村に入ったら、どうなる」
「入れなければ、いい」
ジンは言った。
「柵で、速度を落とします。逃げ道を絞って、村に入る道を一本にする。一本にすれば、いっぺんに来るのは、せいぜい五匹です。五匹なら、こちらは二十人いる」
「……三人で一匹、か」
粉屋が言った。稽古で、耳にたこができるほど繰り返した言葉だった。
「はい」
「じゃあ、あとの九十五匹は」
「柵の外で、待たせます」
そう言ってから、ジンは自分の言葉を、少し訂正した。
「待たせている間に、こちらが減らします」
誰も、それをどうやってという顔をしなかった。二年、この村では、ジンが「やります」と言ったことは、たいてい、その通りになってきた。
——それが、少し怖い、と思った。
◇
翌日から、村は総出になった。
北の斜面に杭を打ち、東の柵を二重にした。倒木で獣道を潰し、村へ入る道を、南の一本だけ残した。井戸の脇に水の樽を増やし、乾いた藁を家から離した。婆さまたちは縄を綯い、子供らは鳴子の板を削った。
逃げ道の稽古は、日に二度やった。鳴子が鳴ったら、女子供と年寄りは岩場へ。走る道は三本、そのうち一本が塞がっても、残り二本で届く。
鍬を握れる男たちは、南の一本道の内側で、位置を決めた。誰が正面に立ち、誰が横へ回り、誰が後ろを塞ぐか。三人ひと組を、六組。
「一人で前に出ないでください」
ジンは、毎回、同じことを言った。
「三人で一匹。……勝とうとしないでください。止めるだけでいい」
疲れは、村中にあった。それでも、誰も文句を言わなかった。窪地の村の話が、この村まで届いていた。四十二人のうち、二人。あの二人は、集まれなかった二人だった。
集まれるように、村は毎日、走っていた。
◇
夜になると、ジンは森へ出た。
村の備えが厚くなるほど、彼の夜は長くなった。柵の外で待たせるというのは、そういうことだ。柵の内側に届く数を減らすには、届く前に減らすしかない。
新しい刀は、まだ、体に馴染みきっていない。
刃筋は、村へ帰る道中で、だいぶ通るようになっていた。だが、夜の森で、暗く、足場が悪く、相手が動く時——そういう時に、手首が古い癖を出す。一度、外した。仕留めるのに二度かかった。
二度かかるというのは、危ない。
その夜は、一匹で切り上げて帰った。無理をすれば、明日の夜が消える。明日の夜が消えれば、その分が柵の外に溜まる。
帰り道、雪を踏みながら、ジンは考えていた。
村は、強くなっていた。それは間違いなかった。柵は伸び、鳴子は増え、六組の男たちは、決めた通りに動けるようになりつつある。
だが、夜の森を歩く役だけは、誰にも渡せなかった。
渡そうと思えば、渡せないこともない。当番の男たちは、村の見回りなら、もうできる。だが、森は違う。暗い中で気配を読み、勝てる相手だけを選び、勝てない相手からは退く。それは、教えて身につくものではなかった。
前世で四十年かけて覚えたものを、この村の誰かに、あと一月で渡す方法を、ジンは知らなかった。
だから、行くしかない。
誰も、そう言ってはいない。誰も、彼に無理をさせているつもりがない。粉屋は柵を繋ぎ、猟師は罠を仕掛け、婆さまは縄を綯う。皆、自分の持ち場で、精一杯やっている。
その全員が、当たり前のように、東の森の方を信用していた。
——ジンがいるから。
そう思って、眠っている。
信用されるというのは、こういうことだったのか、と思った。二年前、誰も彼の話を聞かなかった頃、彼は一人だった。今、村中が彼の言うことを聞く。そして、やはり、一人だった。
孤独の形が、変わっただけだった。
◇
その日の昼、事件があった。
北の斜面に杭を打っていた若い衆が、柵の外側で、何かを見つけたのだ。
「おい、これ」
ジンが行った時には、四、五人が輪になっていた。雪の上に、黒い染みが広がっている。溶けかけた雪の下から、凍った土が覗いていた。
血だった。かなり古い。それから、掘り返した跡。
「獣が、やり合ったのかね」
「にしちゃ、毛が落ちてねえ」
猟師が屈み込み、土を指でこすった。
「……妙だな。埋めた跡だ、これ」
ジンは、輪の外に立っていた。
「埋めた?」
「ああ。掘って、埋めて、上から踏んである。……獣は、こんなことしねえよ」
「じゃあ、誰が」
「知るか」
猟師は立ち上がって、雪を払った。
「まあ、この辺は、たまに旅の狩人が通るからな。獲物を捌いて、臓物を埋めてったんだろ」
「ああ、それだ」
粉屋が納得した顔をした。
「そういや、去年の秋も、南でそんな跡を見たな」
「そうそう。あん時も、こんなだった」
三人ばかりが、うんうんと頷いた。
「けど、旅の狩人にしちゃ、律儀だな。ここまで丁寧に埋める奴、そういねえぞ」
猟師がそう言って、笑った。皆も笑った。
ジンは、笑わなかった。
笑わなかったが、何も言わなかった。輪の外で、雪の上の染みを、しばらく見ていた。
半月ほど前の夜だ。仕留めるのに二度かかった、あの夜だった。血の量が多くなって、そのままにしておけなかった。土が凍っていて、掘るのに手間取った。踏み固める時、雪が薄くて、跡が残るかもしれないと思った覚えがある。
思った覚えがあるのに、そのまま帰った。あの夜は、体が重かった。
「ジン」
呼ばれて、顔を上げた。
「北の杭、この向きでいいか」
「……ええ」
ジンは、輪へ入っていった。
「もう半歩、内側へ。斜面は、雪が緩むと押します」
「おう」
若い衆が杭を打ち直し始める。
血の染みの話は、それきり誰も口にしなかった。旅の狩人。律儀な男もいたものだ。そういうことになって、話は北の杭へ移り、昼が過ぎ、夕方になった。
ジンは、その日の夜も、森へ出た。
雪が固くなっていた。今夜は、埋める場所に困らないだろう、と思った。




