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転生した名もなき侍は今日も静かに村を守る  作者: morino
第三章 スタンピードと露見
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第三十五話 打ち上がり


冬のグレンツで、ジンの朝は、鉄を打つ音から始まる。


夜明け前に宿を出て、城壁の裏通りへ回る。工房の戸を開けると、もう火床が赤い。オルグは、ジンより早く起きている。二月通って、一度も先に着いたことがなかった。


やることは決まっていた。炭を割る。灰を掻き出す。水を汲む。鞴を踏む。刃の焼き入れに使う土を練る。どれも、覚えるのに頭の要らない仕事だった。頭の要らない仕事ほど、手際の差が出る。


初めの頃、オルグはジンの動きを見ては舌打ちしていた。


「炭の粒が揃ってねえ」


「灰を掻くのが早すぎる。火が痩せる」


「水を、そんな置き方するな。跳ねた分だけ、土が緩む」


言われるたびに直した。同じことは、二度言われないようにした。三十日を過ぎた頃から、舌打ちが減った。五十日を過ぎた頃には、何も言われなくなった。


代金の代わりだった。金がなかったわけではない。護衛の稼ぎは、宿代を引いてもいくらか残っていた。だがオルグは、金の話をする前に「下働きに来い」と言った。


理由は訊かなかった。訊かなくても、分かる気がした。


——打つ物の使い手を、見ておきたいのだろう。


前世でも、そういう職人はいた。刀を売るのではなく、預けるつもりで打つ男たち。渡す相手が、その一本をどう扱うかまでを、値のうちに勘定している。


だからジンは、二月のあいだ、黙って炭を割った。



その朝は、火床の音が違った。


戸を開けた時、槌の音がしなかった。オルグは、火の前ではなく、奥の作業台に向かって座っていた。背中が、いつもより丸かった。


「来たか」


振り向きもせずに言う。ジンは戸を閉め、いつものように炭の袋へ手を伸ばした。


「今日は、いい」


手が止まった。


「上がったんですか」


「そう言ってる」


オルグは、台の上の布を、無造作にどけた。


刀身が、火床の赤を弾いた。


反りは、思っていたより浅かった。ジンが木炭で引いた線より、わずかに。だが見た瞬間に分かった。この浅さは、間違いではない。この土地の、この重さの魔物を斬るなら、この反りだ。


刃文は、荒かった。前世で見た数打ちの刀に近い。美しいものではない。だが、地鉄は詰んでいた。目を近づけると、細かい層が、ゆっくりと折り返されているのが見えた。


「触れ」


ジンは手を拭いてから、柄を握った。


重さが、腕の内側に落ちてきた。直剣より軽い。だが軽さの位置が違う。切っ先寄りに、わずかに重心が残してある。振れば、勝手に走る重さだ。


「……ちょうどいい」


「当たり前だ」


オルグは、鼻を鳴らした。


「二月も同じ小僧の手つきを見てりゃ、握りの太さくらい合わせられる。炭を割る手も、水を汲む手も、剣を握る手だ」


そういうことか、と思った。下働きは、値の代わりであると同時に、寸法を測る時間でもあったのだ。


「銘は、どうする」


不意に、そう訊かれた。


「彫るなら、今のうちだ。刃をつけちまうと、面倒になる」


ジンは、刀身を見たまま、少し黙った。


銘。作り手の名を刻むのが常だが、この老爺は「どうする」と訊いた。持ち主の名を入れるか、と訊いている。


胸の奥で、一つ、名前が動いた。


——動いただけだった。


「いりません」


「ほう」


「名の要る得物じゃない。使えれば、それでいい」


オルグは、ジンの横顔をしばらく見ていた。何か言いかけて、やめた顔だった。


「そうかい」


それきり、訊かなかった。



裏の空き地で、振らせてもらった。


雪が薄く積もっていた。息が白い。ジンは上着を脱ぎ、袖をたくし上げて、刀を抜いた。


一振り目で、分かった。


——追いつかない。


真っ直ぐな剣の癖が、体に染みついていた。二年、あの直剣一本で夜を越えてきた。突きと、押し斬りと、返しの角度。全部、真っ直ぐな刃のためのものだった。


反りのある刃は、押すのではなく、引いて斬る。刃筋を、反りに従わせなければならない。頭では知っている。四十年、この体ではない体で、それをやってきた。


だが、この体は、知らない。


二振り目。刃が、わずかに寝た。三振り目。手首が、余計な仕事をした。四振り目で、雪を蹴った足が滑った。


背中で、笑い声がした。


「言ったろうが。打てても、使いこなせるかは、また別の話だとな」


オルグが、戸口に寄りかかっていた。腕を組んで、いい気味だという顔をしている。


「ええ」


ジンは、息を整えた。


「聞きました」


そして、また構えた。


五振り目。六振り目。七振り目。


刃筋が、少しだけ通った。八振り目で、また外れた。九振り目、十振り目。


雪が、袖口から入ってくる。指の感覚が鈍りはじめる。それでも止めなかった。止めれば、体が今日の失敗を覚えたまま、明日を迎えることになる。


——一日目だ。


そう思った瞬間、少しだけ、可笑しくなった。


三年前、村の空き地で、豆を潰しながら数えた一日目。あの時と、同じ場所に立っている。何も進んでいないわけではない。ただ、新しい一本を握るというのは、そういうことなのだ。積み上げてきたものの上に、もう一度、一日目を置く。


百振ったところで、腕が上がらなくなった。


数えるのを、やめた。



工房に戻ると、オルグが湯を沸かしていた。


差し出された椀を受け取る。白湯だった。喉を通ると、腹の底から指の先まで、順番に温かくなっていく。


「あの直剣は、どうする」


台の隅に、ジンの古い得物が置いてあった。刃こぼれの列が、灯りの下で影を作っている。二年前のあの夜、盗賊の手からもぎ取った一本だ。


「潰すか。鉈にでもすりゃ、村で使えるだろうよ」


「……持って帰ります」


「なまくらだぞ」


「はい」


それ以上、説明しなかった。


説明のしようがなかった。あの夜、この剣は、ジンの手の中で人を斬った。前世の記憶が戻ったのも、その手触りからだ。刃としてはもう終わっている。それでも、あれは村へ帰るべき一本だった。


納屋の隅に置いておけばいい。板きれの束の、隣あたりに。


オルグは肩をすくめただけで、それ以上は言わなかった。



湯を飲み終えた頃、オルグが、ぼそりと言った。


「あの古い剣な」


「はい」


「お前が線を引いた日に、見せたやつだ。東方の形の」


錆びた、反りのある片刃。オルグがどこからか手に入れて、参考にと出してきた一本だった。ウルヴァルト、という名だけが伝わっている剣。


「あれをどこで買ったか、話したか」


「いえ」


「東の山越えの行商からだ。もう死んだがな」


オルグは、火床の残り火を見ていた。


「その行商が言うにはな。あれは、東の外れの村の、蔵にあったんだと。代々、開けずに置いてあったそうだ。……なんでも、そこの家の先祖が、森へ入って、帰ってこなかったらしくてな」


指が、椀の縁で止まった。


「森」


「大魔境だ。ほかにどこの森がある」


オルグは、こともなげに言った。


「帰ってこなかった男の得物が、なんで蔵に残ってたのかは、行商も知らんとよ。誰かが持ち帰ったのか、置いていったのか。……何百年も前の話だ。眉唾に決まってる」


「……そうですね」


そう答えながら、ジンは、椀の中の湯を見ていた。


数百年前、東方から流れ着いた男がいた。反りのある刃を使っていた。その男は、大魔境へ入った。そして、帰らなかった。だが、得物だけが、人の側に残った。


——置いていったのか。


置いていったのだとしたら、それは、二度と使う気がなかったということだ。斬るつもりが、なかったということだ。


なぜ、そう思ったのかは、自分でも説明がつかなかった。ただ、ウルヴァルトという名の響きが、また、頭の奥の古いどこかを、静かに撫でていった。


気のせいだ。前にもそう思うことにした。今度も、そうすることにした。


確かめる術は、今もない。



刀を布に包み、背に負って、工房を出た。


「小僧」


戸口で、呼び止められた。


「二月、よく働いた。……欠けたら、持ってこい。研ぎ直してやる」


「かたじけない」


「なんだそりゃ」


「……ありがとうございます」


オルグは、ふん、と鼻を鳴らして、戸を閉めた。すぐに、鉄を打つ音が始まった。ジンがいてもいなくても、あの音は続くのだろう。


路地を出ると、雪が降っていた。


宿へ戻る道すがら、ジンは、背中の重さを確かめていた。慣れない位置に、慣れない重さがある。この重さが、あと何日で当たり前になるのかは、分からない。


分からないが、日数の問題だ。日数の問題なら、なんとかなる。


大通りに出ると、荷を積んだ馬車が、次々と東へ向かっていた。冬の間、辺境へ入る荷は少ない。それでも、いくつかの隊は動いている。ジンは、その流れを目で追った。


村へ帰る。


炭焼きの親方の話。シャルロッテの帳面の数字。ヴィオラの地図に打たれた印。窪地の村の、四十人と、二人。全部、同じ方角を指していた。


足りないものが、いくつかあった。金と、情報と、力。そのうちの一つが、今、背中にある。


一つだけだ。


まだ、足りない。


雪の向こうで、東の空が、重く沈んでいた。

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