第三十五話 打ち上がり
◇
冬のグレンツで、ジンの朝は、鉄を打つ音から始まる。
夜明け前に宿を出て、城壁の裏通りへ回る。工房の戸を開けると、もう火床が赤い。オルグは、ジンより早く起きている。二月通って、一度も先に着いたことがなかった。
やることは決まっていた。炭を割る。灰を掻き出す。水を汲む。鞴を踏む。刃の焼き入れに使う土を練る。どれも、覚えるのに頭の要らない仕事だった。頭の要らない仕事ほど、手際の差が出る。
初めの頃、オルグはジンの動きを見ては舌打ちしていた。
「炭の粒が揃ってねえ」
「灰を掻くのが早すぎる。火が痩せる」
「水を、そんな置き方するな。跳ねた分だけ、土が緩む」
言われるたびに直した。同じことは、二度言われないようにした。三十日を過ぎた頃から、舌打ちが減った。五十日を過ぎた頃には、何も言われなくなった。
代金の代わりだった。金がなかったわけではない。護衛の稼ぎは、宿代を引いてもいくらか残っていた。だがオルグは、金の話をする前に「下働きに来い」と言った。
理由は訊かなかった。訊かなくても、分かる気がした。
——打つ物の使い手を、見ておきたいのだろう。
前世でも、そういう職人はいた。刀を売るのではなく、預けるつもりで打つ男たち。渡す相手が、その一本をどう扱うかまでを、値のうちに勘定している。
だからジンは、二月のあいだ、黙って炭を割った。
◇
その朝は、火床の音が違った。
戸を開けた時、槌の音がしなかった。オルグは、火の前ではなく、奥の作業台に向かって座っていた。背中が、いつもより丸かった。
「来たか」
振り向きもせずに言う。ジンは戸を閉め、いつものように炭の袋へ手を伸ばした。
「今日は、いい」
手が止まった。
「上がったんですか」
「そう言ってる」
オルグは、台の上の布を、無造作にどけた。
刀身が、火床の赤を弾いた。
反りは、思っていたより浅かった。ジンが木炭で引いた線より、わずかに。だが見た瞬間に分かった。この浅さは、間違いではない。この土地の、この重さの魔物を斬るなら、この反りだ。
刃文は、荒かった。前世で見た数打ちの刀に近い。美しいものではない。だが、地鉄は詰んでいた。目を近づけると、細かい層が、ゆっくりと折り返されているのが見えた。
「触れ」
ジンは手を拭いてから、柄を握った。
重さが、腕の内側に落ちてきた。直剣より軽い。だが軽さの位置が違う。切っ先寄りに、わずかに重心が残してある。振れば、勝手に走る重さだ。
「……ちょうどいい」
「当たり前だ」
オルグは、鼻を鳴らした。
「二月も同じ小僧の手つきを見てりゃ、握りの太さくらい合わせられる。炭を割る手も、水を汲む手も、剣を握る手だ」
そういうことか、と思った。下働きは、値の代わりであると同時に、寸法を測る時間でもあったのだ。
「銘は、どうする」
不意に、そう訊かれた。
「彫るなら、今のうちだ。刃をつけちまうと、面倒になる」
ジンは、刀身を見たまま、少し黙った。
銘。作り手の名を刻むのが常だが、この老爺は「どうする」と訊いた。持ち主の名を入れるか、と訊いている。
胸の奥で、一つ、名前が動いた。
——動いただけだった。
「いりません」
「ほう」
「名の要る得物じゃない。使えれば、それでいい」
オルグは、ジンの横顔をしばらく見ていた。何か言いかけて、やめた顔だった。
「そうかい」
それきり、訊かなかった。
◇
裏の空き地で、振らせてもらった。
雪が薄く積もっていた。息が白い。ジンは上着を脱ぎ、袖をたくし上げて、刀を抜いた。
一振り目で、分かった。
——追いつかない。
真っ直ぐな剣の癖が、体に染みついていた。二年、あの直剣一本で夜を越えてきた。突きと、押し斬りと、返しの角度。全部、真っ直ぐな刃のためのものだった。
反りのある刃は、押すのではなく、引いて斬る。刃筋を、反りに従わせなければならない。頭では知っている。四十年、この体ではない体で、それをやってきた。
だが、この体は、知らない。
二振り目。刃が、わずかに寝た。三振り目。手首が、余計な仕事をした。四振り目で、雪を蹴った足が滑った。
背中で、笑い声がした。
「言ったろうが。打てても、使いこなせるかは、また別の話だとな」
オルグが、戸口に寄りかかっていた。腕を組んで、いい気味だという顔をしている。
「ええ」
ジンは、息を整えた。
「聞きました」
そして、また構えた。
五振り目。六振り目。七振り目。
刃筋が、少しだけ通った。八振り目で、また外れた。九振り目、十振り目。
雪が、袖口から入ってくる。指の感覚が鈍りはじめる。それでも止めなかった。止めれば、体が今日の失敗を覚えたまま、明日を迎えることになる。
——一日目だ。
そう思った瞬間、少しだけ、可笑しくなった。
三年前、村の空き地で、豆を潰しながら数えた一日目。あの時と、同じ場所に立っている。何も進んでいないわけではない。ただ、新しい一本を握るというのは、そういうことなのだ。積み上げてきたものの上に、もう一度、一日目を置く。
百振ったところで、腕が上がらなくなった。
数えるのを、やめた。
◇
工房に戻ると、オルグが湯を沸かしていた。
差し出された椀を受け取る。白湯だった。喉を通ると、腹の底から指の先まで、順番に温かくなっていく。
「あの直剣は、どうする」
台の隅に、ジンの古い得物が置いてあった。刃こぼれの列が、灯りの下で影を作っている。二年前のあの夜、盗賊の手からもぎ取った一本だ。
「潰すか。鉈にでもすりゃ、村で使えるだろうよ」
「……持って帰ります」
「なまくらだぞ」
「はい」
それ以上、説明しなかった。
説明のしようがなかった。あの夜、この剣は、ジンの手の中で人を斬った。前世の記憶が戻ったのも、その手触りからだ。刃としてはもう終わっている。それでも、あれは村へ帰るべき一本だった。
納屋の隅に置いておけばいい。板きれの束の、隣あたりに。
オルグは肩をすくめただけで、それ以上は言わなかった。
◇
湯を飲み終えた頃、オルグが、ぼそりと言った。
「あの古い剣な」
「はい」
「お前が線を引いた日に、見せたやつだ。東方の形の」
錆びた、反りのある片刃。オルグがどこからか手に入れて、参考にと出してきた一本だった。ウルヴァルト、という名だけが伝わっている剣。
「あれをどこで買ったか、話したか」
「いえ」
「東の山越えの行商からだ。もう死んだがな」
オルグは、火床の残り火を見ていた。
「その行商が言うにはな。あれは、東の外れの村の、蔵にあったんだと。代々、開けずに置いてあったそうだ。……なんでも、そこの家の先祖が、森へ入って、帰ってこなかったらしくてな」
指が、椀の縁で止まった。
「森」
「大魔境だ。ほかにどこの森がある」
オルグは、こともなげに言った。
「帰ってこなかった男の得物が、なんで蔵に残ってたのかは、行商も知らんとよ。誰かが持ち帰ったのか、置いていったのか。……何百年も前の話だ。眉唾に決まってる」
「……そうですね」
そう答えながら、ジンは、椀の中の湯を見ていた。
数百年前、東方から流れ着いた男がいた。反りのある刃を使っていた。その男は、大魔境へ入った。そして、帰らなかった。だが、得物だけが、人の側に残った。
——置いていったのか。
置いていったのだとしたら、それは、二度と使う気がなかったということだ。斬るつもりが、なかったということだ。
なぜ、そう思ったのかは、自分でも説明がつかなかった。ただ、ウルヴァルトという名の響きが、また、頭の奥の古いどこかを、静かに撫でていった。
気のせいだ。前にもそう思うことにした。今度も、そうすることにした。
確かめる術は、今もない。
◇
刀を布に包み、背に負って、工房を出た。
「小僧」
戸口で、呼び止められた。
「二月、よく働いた。……欠けたら、持ってこい。研ぎ直してやる」
「かたじけない」
「なんだそりゃ」
「……ありがとうございます」
オルグは、ふん、と鼻を鳴らして、戸を閉めた。すぐに、鉄を打つ音が始まった。ジンがいてもいなくても、あの音は続くのだろう。
路地を出ると、雪が降っていた。
宿へ戻る道すがら、ジンは、背中の重さを確かめていた。慣れない位置に、慣れない重さがある。この重さが、あと何日で当たり前になるのかは、分からない。
分からないが、日数の問題だ。日数の問題なら、なんとかなる。
大通りに出ると、荷を積んだ馬車が、次々と東へ向かっていた。冬の間、辺境へ入る荷は少ない。それでも、いくつかの隊は動いている。ジンは、その流れを目で追った。
村へ帰る。
炭焼きの親方の話。シャルロッテの帳面の数字。ヴィオラの地図に打たれた印。窪地の村の、四十人と、二人。全部、同じ方角を指していた。
足りないものが、いくつかあった。金と、情報と、力。そのうちの一つが、今、背中にある。
一つだけだ。
まだ、足りない。
雪の向こうで、東の空が、重く沈んでいた。




