第三十四話 風の向き
◇
その報せは、雪と一緒に、街へ流れ込んできた。
冬のグレンツは、門が混む。雪に閉ざされる前に用を済ませようとする者と、街で冬を越そうと流れてくる者が、重なるからだ。
だがその日の門前は、様子が違った。
荷車が二台。人が、二十人ほど。荷車に積まれているのは、商いの荷ではなかった。鍋。布団。子供。年寄り。家財を積めるだけ積んで、あとは徒歩の一団だった。
門番と押し問答をしているのは、腰の曲がった老人だった。
ジンは、その背中に、見覚えがあった。
「……村長さん」
老人が振り向いた。顔じゅうが煤で汚れ、右の手のひらに、乾いた血の跡があった。
半年前、あの窪地の村で、ジンに何度も頭を下げた男だった。
◇
「鳴子が、鳴ったんだ」
ギルドの酒場の隅で、麦の湯を両手で包んだまま、老人は言った。
「三日前の、夜半だ。……あんたの言った通りだった。夜だった」
村の子供らが作った、板と空き瓶の鳴子。柵の内側にぐるりと張り渡した、あの縄。
「からん、と鳴ってな。……そのあと、じゃらじゃらじゃら、と。あちこちで、いっぺんに」
「……何が来ましたか」
「ゴブリンだ。……数えられんかった。二十か、三十か。今まで、あの村で見たこともねえ数だ」
十二軒の村に、三十匹。
「わしはな、あんたの言葉を、そのまま怒鳴った。戦うな、走れ、年寄りと子供が先だ、荷は持つな、ってな。……月に一度、皆で走ってたろう。だから、みんな、道を知ってた。暗くても、知ってた」
老人の声が、そこで、少し掠れた。
「岩の窪みまで、走った。……全部で、四十二人。逃げ切ったのが、四十人だ」
ジンは、目を閉じた。
「二人は」
「腰を悪くしてた婆さんと、その連れ合いだ。……家から出るのに、手間取ってな」
「……」
「わしがな、戻ろうとしたんだ。だが、うちの倅が、腕を掴んで離さんかった。あんたが言ったんだと。戻ったら、助ける人間が減るだけだと。……それも、あんたの言葉だよ」
老人は、麦の湯の椀を、じっと見ていた。
「夜明けに、戻ってみた。……家は、半分焼けとった。畑も、井戸も、めちゃくちゃだ。あそこには、もう住めん。……だから、街へ来た」
村は、なくなった。
だが、四十人が、ここにいる。
◇
老人は、最後に、ジンの手を握った。
煤と血で汚れた、節くれだった手だった。
「ありがとうな。……あんたが、あの晩、うちに泊まってくれてなかったら。……鳴子がなかったら。走る道を、決めてなかったら」
ジンは、頭を下げた。
言葉が、何も出てこなかった。
礼を言われる資格が、自分にあるのか、分からなかった。あの晩、ジンが置いてきたのは、鳴子と、逃げ方だけだった。柵は諦めた。人手がないから、冬までに間に合わないから、と自分で判断して、諦めた。
その判断は、正しかったかもしれない。柵を直そうとして、鳴子も逃げ道も間に合わないまま、あの夜を迎えていたら、四十二人が全部、失われていたかもしれない。
だが、二人は、死んだ。
——もし、あの村に、十日いたら。
考えても、意味のないことだった。あの時のジンには、十日はなかった。定期便の日程があり、待っている村が三つあった。
意味がないと分かっていて、それでも考えてしまう自分を、ジンは知っていた。前世から、ずっとそうだった。
◇
その夜、ジンは支部長室にいた。
「聞いたよ。窪地の村だってな」
ヴィオラは、杖を横に置き、机の上に、辺境の地図を広げていた。
「……あんたが、備えを教えて回ってた村の一つだと聞いた。四十人、助かったそうじゃないか」
「二人、死にました」
「四十人、助かった」
ヴィオラは、同じ言葉を、もう一度言った。
「あたしはな、ジン。三十年前に、村一つで、二百人埋めた。……四十人助かった話は、四十人助かった話だ。二人死んだ話じゃない。そこを取り違えると、この稼業は、続かんよ」
ジンは、答えなかった。答えられなかった。
ヴィオラは、それ以上は言わず、机の上の地図を、指で叩いた。
「本題だ。……これを見な」
地図には、この三年の被害の記録が、印で打ってあった。ギルドに上がった討伐依頼、目撃報告、被害届。ヴィオラが、支部長として集めた記録だった。
「あんたの言ってた話が、気になってな。全部、日付順に打ち直してみた」
三年前の印は、東の端に、ぽつぽつと散っていた。
二年前の印は、その少し西に。
去年の印は、さらに西へ。
そして今年の印は——街道に届いていた。
「……押されてます」
「そうだ。……森の中の話が、三年かけて、人の道まで出てきた」
ヴィオラは、印の並びを、指でなぞった。東から西へ、まっすぐに。
「炭焼きの話も、あんたの獣道の話も、伯爵家の娘の帳面も、これと同じ形だろう」
「はい」
「四つの目が、別々の場所から、同じものを見てるってことだ。……こうなると、もう、勘違いじゃ済まねえ」
◇
「一つ、伺ってもいいですか」
「言いな」
「この線を、東へ伸ばすと、どこへ行き当たりますか」
ヴィオラの手が、止まった。
彼女は、地図の東の端を、指で叩いた。そこには、村の印も、街道の線も、何もなかった。ただ、緑の墨で、広く塗り潰された領域があるだけだった。
「大魔境だ」
「……」
「東の森の、そのまた奥さ。あたしらは、そう呼んでる。人が入って、帰ってきた話を、あたしは知らん」
ジンは、地図を、じっと見た。
三年分の印は、その緑の縁から、順に、こちらへ向かって並んでいた。
何かが、あそこから、押し出してきている。
獣も、魔物も、みんな逃げてきている。逃げてくるものに追われて、村が消えていく。押し出す力の正体は、地図の緑の中にある。
そして、その緑の縁に、いちばん近い村の一つが——。
「……ジン」
ヴィオラが、ジンの顔を見た。
「あんたの村は、どこだ」
ジンは、地図の一点を、指した。
緑の縁から、指二本ぶんの場所だった。
ヴィオラは、その指先を、長いこと見ていた。
「……そうかい」
それだけ言って、彼女は、椅子に深く沈み込んだ。
◇
ギルドを出ると、雪が降っていた。
酒場の外の軒下で、フィオナが待っていた。芋の包みを二つ抱えて、片方をジンに押しつけてくる。
「はい。夕飯」
「……ありがとう」
二人は、軒下に並んで、雪を見ていた。避難してきた村の人たちが、ギルドの世話で、街の空き家へ移っていくのが見えた。荷車を押す、若い男が三人。あの晩、鳴子を作っていた子供らが、その後ろを歩いている。
生きている。村はなくなったが、生きている。
「ねえ、ジン」
フィオナが、芋を頬張らずに、そのまま持っていた。
「あたし、ずっと、聞かないようにしてたんだけどさ」
「なんだ」
「……あんたの村、大丈夫なの」
雪が、静かに降っていた。
ジンは、答えなかった。答えられる材料が、何もなかった。
柵はある。鳴子はある。稽古も、当番も、蓄えも、避難路もある。あの窪地の村より、リンデ村は、はるかに備えている。四十二人のうち四十人が助かった村より、ずっと。
だが、あの村に来たのは、ゴブリンが三十匹だった。
もし、それが百匹だったら。もし、ゴブリンより強いものだったら。もし——地図の緑の中から、押し出す力そのものが、来たら。
「……分からない」
正直に、そう言った。
「分からないけど、今できることは、全部やってきた。……足りるかどうかは、来てみないと、分からない」
フィオナは、しばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「……あたしも、行く」
「え」
「あんたの村。春になったら、行く。……あたし、二本の火が出せるようになったし。三本目も、そのうち出す。……役に、立つでしょ」
ジンは、フィオナの横顔を見た。
雪の中で、この娘は、自分の魔力の話をしていた。かつて「欠陥品でーす」と笑っていた娘が、誰かの村を守る勘定に、自分を数えていた。
「……ああ」
ジンは、言った。
「頼む」
雪は、東から西へ、流れていた。獣たちと、同じ方向だった。




