第三十三話 シャルロッテの憂い
◇
冬の商館は、寒かった。
前と同じ部屋に通されたが、様子が違った。机の上の帳面が、倍に増えている。地図には新しい書き込みが幾重にも重なり、算盤の珠は、はじかれた形のまま止まっていた。
シャルロッテは、机の向こうで、目の下に薄い隈を作っていた。
「呼び立てて悪いわね。……冬の間、定期便は出せない。だから今日は、仕事の話じゃないの」
「では、何の話でしょう」
「愚痴よ」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。強がりの笑い方だった。
「……というのは、半分。もう半分は、情報の交換」
シャルロッテは、一冊の帳面を、ジンの前に押し出した。
「まず、うちの数字を見せる。……あなたが持ってる話と、突き合わせたいの」
◇
帳面には、数字が並んでいた。
「ヴァレンシュ領内の、魔物被害の記録よ。父の代から、二十年分ある。……ここ三年だけ、形が違うの」
シャルロッテの指が、列をなぞった。
「被害の届出件数。十年前まで、年に十二から十八件。多い年で二十。ここ三年は——四十一、五十八、そして今年が、七十三」
「……四倍」
「件数だけじゃないわ。中身が変わってる。昔は、収穫期に畑を荒らされた、家畜が食われた、そういうのが大半だった。今は、人が死んでいる。……三年前、死者は年に四人。去年は十九人。今年は、二十九人」
ジンは、数字の列を、じっと見た。
「そして、これ」
シャルロッテは、地図の上の、いくつかの印を指した。赤い墨で、上から×が書かれている。
「消えた村。三年で、四つ。……襲われて全滅したのは、一つだけよ。あとの三つは、住人が耐えられなくなって、自分から捨てたの。畑を捨てて、家を捨てて、街へ流れた。……人が減った村は、守れない。守れない村は、次の被害で消える。そういう順番」
あの窪地の村を、ジンは思い出した。家が十二軒。若い男が三人。
「一つ、伺っても」
「どうぞ」
「その被害は、どの方角から来ていますか」
シャルロッテの手が、止まった。
彼女は、ジンを見て、それから、地図の上の×印を、順に指でなぞった。四つの印は、地図の東側に、きれいに固まっていた。
「……全部、東よ」
ジンは、うなずいた。
「南の谷では、獣が東から西へ移り住んでいます。鹿が下り、狼が逃げ、鳥が消えました。炭焼きの衆が四十年見てきた山が、静かになっています。……グレンツの酒場でも、東の街道の間引き依頼が、増え続けている」
シャルロッテは、しばらく、何も言わなかった。
「……そう。現場も、同じ絵を、見ているのね」
数字と、獣道。まるで違う場所から見た二枚の絵が、重なって、一つの形になった。
東で、何かが起きている。
◇
「王都には、報せたのですか」
ジンが訊くと、シャルロッテは、机の引き出しから、束を取り出して、放った。
写しの束だった。同じ形式の、嘆願書。
「三年で、十一通。父の名で、五通。私が代筆したのが、六通。……オストマルク辺境伯様も、別途、幾度も上申しておられるはずよ」
「返事は」
「これ」
彼女は、束の中から一枚を抜いて、読み上げた。
「『辺境における魔物被害の増加については承知している。しかしながら現状、北方国境の情勢に鑑み、追加の兵力および予算の配分は困難である。各領において、従前どおりの対処を継続されたい』」
紙を、机に置く。
「三年で、十一通。……文面が、ほとんど、変わらないの」
数字を並べ、被害を訴え、村の名を書き連ねた紙が、十一通。返ってきたのは、判で押したような、同じ言葉。書いた人間の三年は、その紙の束の厚みぶんしか、王都に届いていなかった。
「北方国境というのは」
「ヴェルガ帝国よ」
シャルロッテは、椅子に深くもたれた。
「北の国境が、この二、三年、きな臭いの。小競り合いが増えて、兵が集まってる。王都の関心は、そっちに全部持っていかれてるわ。……分かる? 王都から見れば、魔物は"例年のこと"で、帝国は"新しい脅威"なの」
「……」
「それに、こういう理屈もあるわ。……帝国と事を構えて負ければ、消えるのは、国よ。魔物に襲われて消えるのは、村。……王都の帳面の上では、そういう順番になるの」
「……」
「それにね、交渉の卓に着くにも、後ろに兵が要るの。兵のいない国の言い分なんて、誰も聞かないもの。だから北に兵を並べる。並べておけば、事を構えずに済むかもしれない。……理屈としては、間違ってないのよ。憎らしいことに」
◇
「それと、もう一つ。笑い話みたいなのが、あるわ」
「笑い話」
「西の教国が、勇者を立てたそうよ」
「勇者」
「魔王が復活する兆しがあるんですって。だから、儀式をして、別の世界から人を呼んだ。……ええ、私も書付を二度読んだわ。書き間違いかと思って」
「別の世界から」
「そう書いてあったの。教国が数百年に一度やる、と。……本当かどうかは、私には分からない。私が確かめられるのは、数字だけだもの」
シャルロッテは、返事の束を、指先で押した。
「返事の文面は、三年、変わらないわ。でも、王都の噂話のほうは、秋からずいぶん賑やかよ。勇者様がどこそこの魔物を退治した。勇者様がどこそこの領主に招かれた。……こっちの十一通より、そっちのほうが、よほど早く回るの」
「……」
「今年、うちの領で二十九人死んだわ」
彼女は、そう言った。
「その二十九人のために動いた人は、一人もいない。……いるかどうかも分からない魔王のために、王都は真剣な顔をしているのにね」
ジンは、返事の紙を見ていた。
「その勇者は、今、どこに」
「さあ。教国か、王都か。……どうして?」
「いえ」
ジンは、首を振った。
自分でも、なぜ訊いたのか、分からなかった。
別の世界から呼ばれた、という一言が、頭の中で、うまく落ち着かなかった。それだけのことだった。
「……で、噂には、必ず尾ひれがつくのよ」
シャルロッテが、思い出したように言った。
「招いた領主が、二度と招かないんですって」
「……なぜです」
「さあ。武勇伝と一緒に、そういう話も回ってくるだけ」
◇
ジンは、ヴィオラの言葉を思い出していた。
——理屈は、一つも間違ってない。
三十年前も、今も、同じ形の理屈が、辺境の村を切り捨てている。
◇
「だから、急いだのですね」と、ジンは言った。
「え?」
「定期便です。三月に一度の、越冬の荷。……あれを、あなたは急いで作った。算盤を弾く人が、急ぐには、理由が要ります」
シャルロッテは、驚いた顔をして、それから、諦めたように笑った。
「……見てたのね、そこまで」
「はい」
「そうよ。急いだ。……冬を越せない村が出る前に、道を作っておきたかったの。一度できた道は、消えにくいから。緊急の時に、新しく道を作るのは間に合わないけど、もうある道を使うのは、早いでしょう」
——備えは、いつも、事が起きる前にしか、積めない。
ジンは、それを、身に染みて知っていた。この令嬢は、剣を持たず、算盤と紙とで、同じことをやっていた。
「……ねえ、ジン」
シャルロッテの声が、少しだけ、崩れた。
「私、家督は継げないの。兄がいるから。私にできるのは、帳面をつけて、荷を送って、嘆願書を書くことだけ。……剣も振れない。魔法も使えない。魔物が来ても、私は、何一つ、止められない」
彼女は、机の上の、返事の束を見た。
「十一通、書いたわ。全部、同じ返事。……何をやっているのかしら、私」
部屋が、静かになった。
ジンは、少し考えて、言った。
「その荷で、冬を越した村が、三つあります」
「……え」
「一つ目の村は、去年の冬、種籾が尽きかけていました。あなたの荷が届かなければ、春の作付けができなかった。作付けができなければ、あの村は、今年の秋に、捨てられていたはずです」
シャルロッテの目が、少し、見開かれた。
「消えた村は、四つと言いましたね。……消えなかった村を、数えたことは、ありますか」
「……」
「俺は、荷を運びました。運んだ先で、人が生きているのを見ました。……それは、あなたが帳面をつけて、算盤を弾いて、荷を送ったからです。剣を振ったからでも、魔法を使ったからでもない」
シャルロッテは、しばらく、机の上の一点を見ていた。
それから、小さく、洟をすすった。
「……ずるいわね、あなた。人を、そういう風に、勘定に入れるのね」
「勘定は、あなたに教わりました」
「〜〜っ、うるさい」
◇
帰り際、シャルロッテは、ジンを扉まで送りに出た。
「春になったら、定期便を再開するわ。……それと、一つ、頼みがあるの」
「なんでしょう」
「あなたが現場で見たものを、教えて。獣の動きでも、村の様子でも、何でもいい。……私は、帳面の数字しか見られない。数字は、起きたことしか教えてくれないの。起きる前のことは、現場にいる人にしか、見えない」
ジンは、うなずいた。
「では、俺からも一つ。……その数字を、俺にも見せてください。俺は、目の前の谷しか見られません。領全体で何が起きているかは、あなたにしか見えない」
シャルロッテは、口の端を上げた。
「取引成立ね」
差し出された手を、ジンは握った。二度目の握手だった。
商館を出ると、冬の風が吹きつけてきた。
ジンは、東の空を見た。
数字と、獣道。政治と、鳥のいない森。二人の女が、まるで違う場所から、同じ結論を差し出してきた。
ヴィオラは言った。王国は辺境を守らない。距離が遠すぎる、と。
シャルロッテは言った。王都は辺境を見ない。北の国境で、手一杯だ、と。
守る者がいない土地で、何かが、静かに膨れ上がっている。
そして、その土地の、いちばん東の縁に、リンデ村があった。




