第三十二話 達成率十割の男
◇
「ジンさん。支部長が、お呼びです」
ミレーヌにそう告げられたのは、初雪の翌週だった。奥の階段を上がった二階、いちばん奥の扉。冒険者が呼ばれることは、めったにない部屋だった。
支部長室は、豪奢ではなかった。
壁一面が、辺境の地図だった。村の印、街道、山、森。書き込みで、ほとんど黒くなっている。窓際に、古びた大剣が一振り、鞘のまま立てかけてあった。柄の巻きは擦り切れ、鞘には無数の傷がある。飾りではない。使い倒された得物だった。
その部屋の主が、机の向こうで、杖を横に置いて座っていた。
「掛けな」
ヴィオラは、ジンが座るのを待って、帳面を一冊、机に放った。
「あんたの記録だ。開いてみな」
ジンは、開かなかった。
「中身は、たぶん、支部長のほうがご存じです」
「……ふん」
ヴィオラは、初めて、少しだけ笑った。目は、笑っていなかった。
◇
「五十三件」と、ヴィオラは言った。
「登録から、半年と少し。受けた依頼、五十三件。達成、五十三件。未達、ゼロ。違約、ゼロ。苦情、ゼロ。指名依頼、十一件。……あたしゃね、四十年この稼業にいるが、こんな帳面は、見たことがない」
「運が、良かったので」
「運」
ヴィオラは、机に肘をつき、身を乗り出した。
「じゃあ訊くが。南の谷の狼を、三日で片付けたのは、運かい。廃坑の奥に大物がいると読んで、引き返してきたのは、運かい。……街道の護衛で、三日間、荷を一つも落とさなかったのは?」
「……」
「ガレスが言ってた。あんたと組むと、戦いが起きねえと。気づいたら終わってると。……あの男は、Cだ。腕は悪くない。八年、真面目にやってきた男だよ。その男が、あんたの隣を歩いて、自分の八年が崩れる音を聞いた」
ヴィオラは、指を三本立てた。
「達成率十割ってのは、三種類しかない。一つ、楽な依頼しか受けない臆病者。二つ、記録を誤魔化してる詐欺師。……三つ目が、あんただ」
「三つ目は、なんでしょう」
「先を、見据えてる奴だよ」
ヴィオラは、指を折った。
「敵が来る前に、来る場所を潰しとく。危ない依頼は、危なくない形に組み替えてから受ける。無理な相手には、そもそも手を出さない。……そういう奴の帳面は、綺麗になる。当たり前だ。危ない目に、遭ってねえんだから」
彼女は、杖を手に取って、立ち上がった。
右脚を、少し引きずっていた。
「で、ここからが本題だ」
窓辺まで歩いて、辺境の地図を見上げる。
「そういう仕事の仕方をな、あたしは、二十年かけて覚えた。仲間を三人埋めて、この脚を潰して、ようやくだ。……あんた、十五だろう」
背中を向けたまま、ヴィオラは言った。
「どこで、覚えた」
◇
部屋が、静かになった。
嘘は、いくらでも用意できた。旅の人に聞いた。村で覚えた。本で読んだ。柵の杭の由来を訊かれた時のように、するりと言える嘘は、いくつもあった。
だが、この老女には、通じない。それが分かった。
「……説明しても、たぶん、信じてもらえません」
「そうかい。じゃあ、信じられる範囲で言いな」
ジンは、少し考えて、言った。
「昔、全部、失ったことがあります。守りたいものを、一つも守れずに。……その時に、体で覚えました」
ヴィオラの背中が、止まった。
しばらく、誰も何も言わなかった。窓の外で、冬の風が鳴っていた。
やがて、ヴィオラは、振り向いた。
「……そうかい」
それだけだった。
ジンは、身構えていた。どこで、いつ、と重ねて訊かれれば、答えようがなかった。十五の体に収まらない年月のことを、どう説明しろというのか。
だが、老女は、何も訊かなかった。
いつ、どこで、何を失ったのか。十五の小僧に、そんな過去がいつあったのか。矛盾は、山ほどあったはずだ。だが、この老女は、一つも訊かなかった。
代わりに、机に戻り、どさりと椅子に沈み込んで、言った。
「あたしもだ」
◇
「三十年前だ」と、ヴィオラは言った。
「あたしはS級でな。辺境で、そこそこ名の売れた女だった。……北の、ヘルデンって村があってな。今は、地図にも載ってない」
彼女は、杖の頭を、指でなぞった。
「魔物の群れが下りてきた。村から報せが来て、あたしは王都にいた。……援軍を出せと、掛け合ったよ。王国軍にも、ギルドの本部にも。三日、待たされた」
「三日」
「返事はな、こうだ。『辺境の村一つに、軍は動かせない』『討伐依頼として正式に上がっていない』『報酬の出所が不明である』……全部、正しいんだ。理屈は、一つも間違ってない」
ヴィオラの声は、平らだった。四十年、その平らさを保つ訓練をしてきた者の声だった。
「あたしは、待つのをやめて、一人で走った。……間に合わなかった。着いた時には、村は無くなってた。この脚は、その時に、置いてきた土産だ」
「……」
「S級だぞ。当時の王国で、五人といなかった。……その一人が、村一つ、間に合わなかった」
ジンは、何も言えなかった。
言葉が出なかったのではない。言葉が、多すぎた。目の前の老女の話は、遠い国の、三十年前の話のはずだった。なのに、燃える村の匂いまで、思い出せそうだった。
夜通し走った山道。裂けそうな肺。尾根の上から見下ろした、赤い村。
三十年前の北の村と、遠い昔の自分の故郷が、胸の中で、同じ形に重なった。走った者の後悔だけが、時代も世界も飛び越えて、まったく同じ味をしていた。
「……着いてから、どうされましたか」
我ながら、妙な問いだった。
ヴィオラは、少しだけ驚いた顔をして、それから、答えた。
「埋めたよ。……三日かけて、全員。数えたのが、いけなかったな。数えると、忘れられなくなる」
ジンは、うなずいた。
数えると、忘れられなくなる。その通りだった。前世の男も、七日目から、死んだ者を数えるのをやめた。名を胸の内で繰るだけで、夜が明けてしまうからだ。
「……だから、辺境に」
「そうだ」
ヴィオラは、地図の壁を、顎で示した。
「王都に残ってりゃあ、あたしは今頃、本部の役員だよ。いい椅子と、いい酒と、いい年金だ。……ここを選んだのはな、ジン。あたしが、間に合わなかった側だからだ」
◇
「覚えときな」と、ヴィオラは言った。
「これは、あんたに言っておかにゃならん話だ。……王国は、辺境を守らない」
「……」
「守る気がないんじゃない。守れないんだ。距離だよ。王都から辺境まで、軍が動くのに、どれだけかかると思う。報せが行って、会議が開かれて、予算が通って、兵が発って、着く。……早くて、二十日だ。魔物は、二十日待っちゃくれない」
「ギルドは」
「ギルドは商売だ。依頼が出て、報酬が払われて、初めて人が動く。……辺境の村に、冒険者を雇う銭があるか?」
無い、とジンは、心の中で答えた。あの窪地の村。十二軒。若い男が三人。
「札は張り出される。報酬が安すぎて、誰も取らねえ。取らねえまま、日に焼けて、色が褪せる。……あんた、あの壁の隅の張り紙を、いつも見てただろう」
見ていた。半年前から、ずっと。
「あれが、辺境だ」
ヴィオラは、机の上で指を組んだ。
「だからな、辺境を守れるのは、辺境にいる奴だけなんだ。中央でも、軍でも、ギルドでもねえ。そこに住んで、そこで備えて、そこで踏ん張る奴だけだ。……あんたが村でやってきたことは、正しい。正しいが、それを分かってる奴は、この世に、ほとんどいない」
◇
「で、あんたをどうするか、だが」
ヴィオラは、帳面を指で叩いた。
「あんたの記録は、そのうち、王都の本部にも上がる。達成率十割の若手なんてのは、いい餌だ。貴族が囲いに来るか、本部が引き抜きに来るか、あるいは——気味悪がって、調べに来る」
「……」
「あたしは、あんたを泳がせる。記録は、正直に書く。だが、書き方ってもんがある。派手に見せねえ書き方がな。……代わりに、条件が一つだ」
「なんでしょう」
「ランクは、Cで止めときな。しばらくは」
意外な条件だった。
「Bに上げりゃ、大きい依頼が受けられる。銭も、桁が変わる。……だが、Bってのは、王都が名前を覚える高さだ。Cなら、まだ、辺境の便利な若手で済む」
ヴィオラは、初めて、ふっと、目まで笑った。
「その代わり、辺境の情報は、あたしが優先で回す。どこの村がやばい、どこの街道が荒れてる、どこの領主が金を出す。……あんた、そういうのが欲しいんだろう」
ジンは、頭を下げた。
「……ありがとうございます。ですが、一つ、伺っても」
「言いな」
「なぜ、そこまで」
ヴィオラは、しばらく、ジンの顔を見ていた。
それから、椅子に深くもたれて、天井を見上げた。
「……間に合わなかった人間はな、ジン。間に合う奴を見ると、放っておけねえんだ」
窓の外で、風が鳴った。
「あたしの脚は、もう走らねえ。あの村は、戻ってこねえ。……だが、あんたが村を一つ守るたびに、あたしの三十年が、少しは意味を持つ気がする。……勝手な話だがな。年寄りの、道楽だと思いな」
◇
部屋を出る前に、ヴィオラは、もう一つだけ言った。
「ジン。……あんた、東の異変を、追ってるな」
「はい」
「南の谷の炭焼きが、あんたを訪ねてきたのも聞いた。獣道を見に行ったのも」
「……お耳が早い」
「支部長だからな。……いいか、あれは、たぶん、あんた一人の手に負えるもんじゃない。だが、あんたが手を引いたところで、誰も代わりにやらねえ。それも、事実だ」
ヴィオラは、杖を突いて、立ち上がった。
「辺境は割に合わん。合わんから、行く奴が要る。……あんたみたいなのがな」
◇
階段を下りながら、ジンは、胸の中を整理していた。
見抜かれた。全部ではない。だが、隠していた部分の、輪郭は、はっきりと。そして、その上で、味方になると言われた。
同時に、突きつけられたものがあった。
王国は、辺境を守らない。守れない。ギルドも、商売の範囲でしか動かない。二十日。援軍が来るまで、早くて二十日。
もし、東の森の何かが、リンデ村へ来たら。
報せを出しても、間に合わない。誰も、来ない。
——分かっていたつもりだった。
だが、S級だった女の口から聞くと、意味が違った。あの人は、実際に走って、間に合わなかったのだ。当時の王国最強の一人が。全力で走って。
だから、こう考えるしかない。
来るまでに、終わらせる。あるいは、来なくても、持ちこたえる形を、先に作っておく。
それしか、ない。
酒場の隅で、フィオナが芋を頬張りながら手を振っていた。ジンは、その卓へ歩いていきながら、頭の中で、村の絵図を広げていた。
柵。鳴子。稽古。当番。蓄え。避難路。
——足りない。
まだ、圧倒的に、足りなかった。




