第三十一話 雪の来る前に
◇
初雪の前に、ジンは村へ帰った。
雪が本降りになれば、辺境の道は閉じる。次に村へ帰れるのは、春の雪解けだ。だから、この帰郷は、いつもより長く取った。十日。冬を越すための、最後の十日だった。
坂を上がりきって、村を見下ろした時、ジンは、しばらく足を止めた。
柵が、村をぐるりと囲っている。杭は互い違いに打たれ、隙間には茨が積まれ、内側には鳴子の縄が張り渡されている。畑の向こうの空き地では、夕方の稽古の輪ができていた。村長の家の壁には、見張りの当番表が貼ってあるはずだ。
——これが、当たり前じゃない。
窪地の十二軒。腐った杭の跡。犬が一匹。地図に印すらない村。荷馬車の横を通り過ぎていった、いくつもの村。
あの村々の目で見れば、この村は、異常に守られていた。
二年前、この村は、あの窪地の村と、何も変わらなかった。変えたのは、柵を打った男たちであり、縄を綯った女たちであり、鳴子を作った子供たちだった。
「おにいちゃーん!」
坂の下から、リゼが駆けてくる。冬支度の厚着で、まるで毬が転がってくるようだった。ジンは、そのまま受け止めた。
「おかえり! ……手、見せて!」
「豆は、増えた」
「知ってる!」
◇
十日の間、ジンは村じゅうを回った。
蓄えの確認から始めた。塩は足りる。麦は、去年よりだいぶ多い。だが、干し肉と豆が少なかった。ジンはグレンツから運んだ銭で、隣村から豆を買い足す算段をつけた。
「そんなに、いるかね」と村長は言った。「例年なら、これで足りるんだが」
「例年で、足りなかった年のことを、考えています」
避難路の稽古も、二度やった。村の裏手の岩場まで、全員で走る。年寄りと子供が先。荷は持たない。犬は放す。二度目は、夜にやった。暗い中を走ると、昼とはまるで勝手が違う。転ぶ者が出て、道の途中の石を、皆でどけた。
「夜にやるとはなあ」と、粉屋のおじさんが息を切らして笑った。「面倒くせえが、確かに、昼と違うわ」
「来る時は、たいてい、夜です」
井戸の周りには、水を貯める樽を増やした。柵の内側の乾いた藁は、火の回りを速くするので、家から離れた場所へ移した。
やっていることは、地味だった。二年前と、何も変わらない。ただ、二年前と違って、誰も「なんで」とは訊かなかった。ジンが「これをやりましょう」と言えば、村は動いた。信用というのは、こういう形をしているのだと、ジンは思った。
そして十日目の夜、ジンは、村長の家の囲炉裏端で、東の話をした。
◇
「東の森が、静かです」
集まったのは、村長と、粉屋と、猟師と、エマと、古老。村の要のところにいる者たちだった。
ジンは、事実だけを並べた。南の谷の獣が、東から西へ移り住んでいること。鹿が下り、狼が逃げ、鳥が消えたこと。辺境全域で、間引きの依頼が増え続けていること。伯爵家が、物流の定期便を急いで作ったこと。
「何が起きているのかは、分かりません。俺の目で確かめられたのは、獣の逃げ方だけです。……ただ、この二年、俺が見てきたものは、全部、同じ方向を指しています」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。
「……で、どうすりゃいい」と、村長が訊いた。
騒ぎも、笑いもしなかった。二年前、熊の足跡の話を持ち込んだ時、この部屋には「騒ぐほどのことかね」という空気があった。今は、ない。
「今日まで、やってきたことを、続けてください。それだけです。柵と、鳴子と、見張りと、稽古と、蓄えと、逃げ方。……新しいことは、要りません」
「それだけかい」
「はい。……ただ、続けてください。冬の間も。雪の日も。何も起きない日が、百日続いても」
「百日か」
猟師が、首の後ろを掻いた。
「……なあ。こう言っちゃなんだが、うちの村は、元々そんなに出ねえんじゃねえか。南の谷にも、炭焼きのところにも出るってのに、ここらは、たまに狐が鳴子に引っかかるくらいだ。運がいいんだろうよ、この土地は」
「運でも、なんでもいいさ」と、粉屋が言った。「やって損はねえ」
「そりゃそうだ」
猟師は素直に頷いて、それきりだった。悪気があって言ったのではない。冬支度の話に戻り、誰も、その一言を引きずらなかった。
ジンも、何も言わなかった。
古老が、杖の先で、とん、と床を突いた。
「……備えは、招く、とわしは言ったな。二年前に」
「はい」
「あん時は、間違ってたよ」
しわだらけの顔が、火に照らされていた。
「あの鳴子が鳴って、狐が引っかかるたんびに、わしゃあ、ほっとするんだ。ああ、今夜も柵は生きてる、とな。……あれは、招いてねえ。あれは、わしらが夜に安心して寝るための、道具だ」
誰も、何も言わなかった。
ジンは、頭を下げた。二年かかって、この一言を、この人から聞けた。
◇
その晩、大菩提樹の下に、エマが立っていた。
「待ち伏せか」
「まあね。……あんた、明日発つんでしょ」
葉を落とした枝の間から、冬の星が見えた。二人は、いつかと同じ根の上に、並んで腰を下ろした。
「ねえ、ジン。あんた、焦ってる」
ジンは、少し、驚いた。
「……そう見えるか」
「見える。あたしには」
エマは、膝を抱えた。
「囲炉裏で話してた時、あんた、すごく落ち着いてた。落ち着きすぎてた。……あんたが、あんまり静かな時は、たいてい、内側で何か抱えてる時よ。二年、見てきたんだから、分かる」
ジンは、しばらく黙っていた。
言うべきか、迷った。村を怯えさせないために、囲炉裏では事実だけを並べた。感情は、置いてきた。だが、この幼馴染は、それごと見抜いている。
「……怖い」
出てきたのは、その一言だった。
「何が来るのか、分からない。いつ来るのかも、どのくらいのものが来るのかも、分からない。……分からないのに、備えろとしか、言えない。俺が積んだ二年が、足りるのかどうかも、分からない」
言ってしまってから、少し、後悔した。守る側の人間が、言っていい言葉ではない気がした。
だが、エマは、笑わなかった。怯えもしなかった。しばらく星を見て、それから、こう言った。
「あんたが怖いって言うなら、相当なんだね。……で、あたしたちは、何をすればいい?」
ジンは、その横顔を見た。
「……続けることです。柵と、鳴子と」
「それ、囲炉裏で聞いた。あたしが訊いてるのは、そうじゃなくて」
エマは、まっすぐジンを見た。
「あんたが、いない時のこと。……あんた、街にいるでしょ。冬の間も、春も。何かが来る時、あんたがここにいるとは限らない。……そうでしょ」
心臓が、一つ、大きく打った。
その通りだった。ジンが最も恐れ、最も口に出せずにいたことを、この娘は、正面から言葉にした。
「そうだ」
「じゃあ、それを考える。あんたがいない村で、何がどこまでできるか。……あたし、村の稽古、回してるから。当番も、だいたい把握してる。……あんたが帰ってくるまで、持ちこたえる形を、考えとく」
「エマ」
「なによ」
「……頼む」
エマは、ふん、と鼻を鳴らして、それから、少しだけ笑った。
「あんたに頼まれるの、初めてじゃない?」
言われて、思い返した。確かに、そうかもしれなかった。教えることは、いくらでもしてきた。だが、頼んだことは、なかった。一人で抱えるのが、当たり前になっていた。
「……そうだな。初めてだ」
「よろしい」
冬の風が、裸の枝を鳴らした。エマは立ち上がり、いつもの調子で言った。
「じゃ、明日は、ちゃんと見送りに出るから。寝坊しないでよ」
「そっちこそ」
「あたしは寝坊しないの!」
◇
翌朝、ジンは村を発った。
いつもの見送り。母の握り飯。父の顎。リゼの膨れっ面。エマの「いってらっしゃい」。
坂の上で、一度だけ振り返った。柵に囲まれた村から、朝の煙が、細く立ちのぼっている。
グレンツへの街道を、半日ほど歩いた頃だった。
道の脇の茂みに、ジンは、足を止めた。
糞があった。まだ新しい。ゴブリンのものだ。
街道は、村や町を結ぶ道だ。人の往来が多く、魔物は普通、近寄らない。二年前、この街道でゴブリンの痕跡を見たことは、一度もなかった。
ジンは、しゃがんで、周囲を見回した。
痕跡は、一つではなかった。街道の南側の斜面に、いくつも。それも、東から来て、街道を横切り、西へ抜けている。
森の中の話ではなくなっていた。
押し出されたものが、人の道にまで、溢れ始めている。
ジンは立ち上がり、東の空を見た。
灰色の雲が、低く、重く垂れ込めていた。その下のどこかで、初雪が、降り始めていた。




