第三十話 炭焼きたちの伝言
◇
その男は、ギルドの扉を、遠慮がちに開けた。
炭の匂いを、体じゅうに染み込ませた、日焼けの深い男だった。武器も持たず、革の前掛けのまま、酒場の卓の間を、きょろきょろと見回している。冒険者たちの視線が、場違いな客に、いくつか刺さった。
南の谷の、炭焼きの親方だった。
「おう! やっぱりいた!」
ジンを見つけると、親方は大股で寄ってきた。ジンは立ち上がった。半年ぶりだった。
「親方。……何か、ありましたか」
「いや、それがな。……依頼じゃねえんだ。銭も、持ってきてねえ」
親方は、ばつが悪そうに、頭を掻いた。
「知らせに、来た。あんたに。ギルドに言っても、たぶん、笑われるだけだからよ」
一度、窓口で話しかけたのだ、と親方は言った。だが「魔物の目撃ですか、依頼のご相談ですか」と訊かれて、答えられなかった。魔物は見ていない。襲われてもいない。依頼にする話が、何もない。ただ、山がおかしい。それだけを言いに、谷から一日かけて歩いてきた。
「あんたなら、鹿の足跡の話でも、最後まで聞くだろうと思ってよ」
ジンは、卓を勧め、麦酒を一杯頼んだ。親方は恐縮しながら座り、それを半分ほど飲んで、ようやく口を開いた。
ジンは、卓を勧め、麦酒を一杯頼んだ。親方は恐縮しながら座り、それを半分ほど飲んで、ようやく口を開いた。
「狼はよ、あれから、一匹も出てねえ。あんたの言うとおり、火は絶やさねえし、古着も掛け替えてる。おかげさんで、窯は動いてる。……それは、いいんだ」
「では、何が」
「獣がな。……おかしいんだよ」
◇
親方の話は、断片的だった。
炭焼きは、獣を狩る仕事ではない。だが、山に籠もって窯を守る暮らしは、山の様子に、誰よりも敏い。四十年、同じ谷で炭を焼いてきた男の「おかしい」は、軽い言葉ではなかった。
「鹿がな、下りてくる。夏の終わりから、ずっとだ。冬でもねえのに、群れで、谷を下りてくる。……それも、上手からじゃねえ。もっと奥だ。深い山の、東の方からよ」
「戻ってはいきませんか」
「戻らねえ。下りっぱなしだ。窯場のまわりの草も、若木も、食い荒らされてよ。あいつら、腹減ってんだ」
ジンは、卓の上で、指を組んだ。
「狼は」
「それよ。……消えた」
親方は、麦酒の椀を置いた。
「あんたが仕留めたのの、残りだ。あれから、東の山にいたはずなんだ。それが、ぷつりといなくなった。死骸も見ねえ。……逃げたんだよ。谷を、西へ抜けてった跡だけが、残ってた」
狼が、逃げる。
第19話の狼は、賢く、飢えていた。あの群れですら、押し出されて南の谷へ来た口だった。その狼が、さらに西へ逃げた。
追ったものが、いる。
「それとな、いちばん薄気味悪いのは」と、親方は声を落とした。「静かなんだ、東の山が。鳥が、いねえ。虫の声も、薄い。……四十年、あの山で炭焼いてるが、あんな静かな山は、知らねえよ」
◇
その夜、ジンは、宿の寝床で、頭の中の地図を広げていた。
一つ一つは、たいしたことのない話だ。だが、並べると、形になる。
二年前の冬。リンデ村の裏山に、冬ごもりし損ねた熊が下りてきた。
一年半前の春。川筋に、痩せて追われたゴブリンが三匹。上流の巣も、はぐれ者の群れだった。追われて、押し出されてきた。
半年前。南の谷の狼。痩せて、鹿を狩り尽くしかけ、東から押し出されてきた口だった。
グレンツの酒場。東の街道の間引き依頼が増え続けている。南の谷も。ここ二、三年、ずっと。
シャルロッテ。定期便を「急いで」作ろうとした伯爵家の令嬢。欠ける村が増えると、確信しているような口ぶり。
そして、今夜の親方の話。鹿が下りる。狼が逃げる。東の山が、静かだ。
——全部が、同じ方向を指している。
東。深い森の、その奥。人が、大魔境と呼ぶあたりだ。
弱いものが里に出てくる時、森の奥では、より強いものが場所を取っている——一年半前、川原でゴブリンの死骸を検分しながら、そう思った。あの考えは、間違っていなかった。ただ、規模が違った。
一つの群れが、一つの縄張りを追われたのではない。
森全体が、押されている。
耳の奥で、しわがれた声がした。
——近頃、森が騒がしくてなあ。ま、悪い年ってのは、たまにあるもんさ。
爺さん、とジンは、暗い天井に向かって、胸の内で呼んだ。
あんたが感じ取っていたのは、悪い年なんかじゃなかった。あんたは、たぶん、辺境でいちばん早く、あれに気づいてた。毎朝、森を歩いていたから。毎日、同じ森を見ていたから。
——いつも通りの形を知っている者だけが、いつも通りでないものに気づける。
雪の朝、熊の足跡の前で、自分でそう思った。あの時は、自分の二年ぶんの見回りの話だと思っていた。違った。あれは、爺さんの四十年の話だった。
そして、気づいた時には、あんたはもう、死んでいた。
◇
三日後、ジンはフィオナと、南の谷へ入った。
依頼ではなかった。銭にもならなかった。ただ、自分の目で確かめたかった。
炭焼き場から、東へ。親方に道を聞き、日暮れまでに戻れる距離だけを歩いた。物見の作法どおり、線を引いて、その内側だけを見る。
線の内側で、答えは、十分に見つかった。
獣道が、変わっていた。
けもの道は、本来、餌場と水場を結んで、行き来する。だが、この谷の獣道は、片道だった。東から西へ。行った跡ばかりで、戻った跡がない。鹿も、狐も、兎も。大小さまざまの足跡が、みんな、同じ向きに流れている。
「……なんか、変な感じ」と、フィオナが小声で言った。「静か、っていうか。……音が、抜けてる?」
「鳥がいない」
見上げた枝に、巣はあった。だが、空だった。落ち葉の上に、羽が数枚。あわてて飛び立った跡だ。
これ以上は、行かない。ジンは、線の手前で足を止めた。
行けば、何かが分かるかもしれない。だが、分かった時に、帰れないかもしれない。帰らない物見に、値打ちはない。
ジンは、しゃがんで、獣道の土を指でなぞった。踏み固められ方が、尋常ではない。数日ではなく、何ヶ月も、同じ向きに通り続けた跡だった。逃げる、という一度きりの動きではない。移り住んでいるのだ。森の東側の住人が、丸ごと、西へ引っ越している。
「戻る」
「え、もう?」
「十分だ。……見るべきものは、見た」
引き返しながら、フィオナが、ぽつりと訊いた。
「ねえ、ジン。この森の奥に、何かいるの?」
「分からない」
「じゃあ、なんで戻るの。確かめないの」
「確かめる力が、まだ、ないからだ」
自分で言って、腹の底が冷えた。
Dランク。素振り三百回。糸は一日保つ。二年前の自分とは、比べものにならない。それでも、この森の奥に何がいるのかを確かめて、無事に帰ってくる力は、まだ、ない。
◇
グレンツへの帰り道、ジンは、ずっと東の空を見ていた。
灰色の雲が、東から西へ、ゆっくりと流れている。獣たちと、同じ方向だ。
「フィオナ」
「なに?」
「次の定期便は、いつだった」
「ええと……年明け。冬の間は、街道が閉じるから」
「……そうか」
冬の間、辺境の道は、雪に閉ざされる。人も、荷も、報せも、動きが鈍くなる。
その冬を、東の森は、どう過ごすのか。
ジンは、リンデ村のことを考えた。柵。鳴子。稽古。当番表。蓄えの塩と麦。避難の道順。この二年で積んだものが、全部、頭の中を通り過ぎた。
足りるか?
分からない。何が来るのかが、分からないのだから、足りるかどうかも、分かるはずがなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
爺さんが「騒がしい」と言った森は、二年経って、静かになった。
鳥のいない森。戻らない獣道。押し出されてくる、飢えた群れ。
騒がしさが終わって、静かになった森の奥で、何かが、腰を据えている。
——早く、帰りたい。
村を出て初めて、ジンは、そう思った。




