第二十九話 もう一つの村
◇
定期便の二度目は、秋の終わりだった。
前と同じ三つの村へ、越冬の荷を運ぶ。シャルロッテは今回、屋敷の用向きで同行しなかった。隊商は、荷馬車が四台と、ジン、フィオナ、雇われの護衛が三人。
三つ目の村への道の途中で、水が切れた。
「この先に、村があるはずです」と、御者が言った。「小せえ村でね。荷の届け先じゃねえが、井戸を貸してもらえる」
その村は、街道から半里、谷を一つ下りた窪地にあった。
家が、十二軒。畑と、山羊と、犬が一匹。柵は——なかった。正確には、あったのだろう。腐って崩れた杭の列が、草に埋もれて、村の境目だったものの跡を、かろうじて示していた。
「ようこそ、ようこそ。井戸は好きに使ってくだせえ」
出てきた村長は、腰の曲がった老人だった。旅人が珍しいのか、村じゅうの人間が出てきた。子供が六人。年寄りが半分。若い男は、三人しかいなかった。
「若えのは、みんな街に出ちまってなあ」と、村長は笑った。「残ったのは、これだけよ」
ジンは、井戸で革袋を満たしながら、村を、見ていた。
見るつもりは、なかった。目が、勝手に見る。森までの距離。逃げ道のなさ。窪地という地形。夜の見張りのいない家々。犬が一匹。
——ここは、あの夜のリンデ村より、弱い。
◇
「今夜は、ここに泊めてもらいます」
ジンがそう言うと、御者は驚いた顔をした。日はまだ高い。あと二刻は進める。
「日程は、遅れません。明日、夜明け前に発って、少し急げば取り返せます」
「そりゃあ、まあ、構わねえが……」
その晩、ジンは村長に、頼まれてもいないことを、話した。
村の弱いところ。森からの獣の道。夜、どの方角から来るか。窪地は、音が籠もるので、鳴子がよく響くこと。
「柵は、打ち直すのに何日もかかります。今の人手では、冬までには無理です。だから、今夜は、二つだけ」
板と、空き瓶と、細縄。子供でも作れる鳴子。もう一つは、逃げ方だった。
「何かが来たら、戦わないでください。ここは、戦って守れる村じゃない。……村の裏手の、あの岩の窪み。あそこまで、全員が走る。年寄りと子供が先。走る道は、決めておいて、月に一度、皆で走ってみてください。それだけで、助かる人の数が、変わります」
村長は、しわだらけの目を、しばたたかせた。
「……お前さん、なんで、そんなことを、うちみてえな村に」
理由を、ジンは、うまく言えなかった。
依頼ではない。金にもならない。この村は、荷の届け先ですらない。ただ——通りかかってしまった。見てしまった。それだけだった。
「……昔、似た村を、知っているので」
村長は、それ以上訊かず、ただ、深く頭を下げた。
夜の間に、子供たちが、鳴子を作り始めた。板を割り、空き瓶を通し、けたたましい音を立てて、大人に叱られていた。フィオナが手伝って、指先の火で縄の端を焼いて留める芸を見せ、子供たちに大受けした。
そのやかましさを、ジンは、少し離れて聞いていた。
十二軒。それが、この村の全部だった。
◇
夜明け前、隊商は発った。
村人たちが、総出で見送りに出てきた。子供たちは、昨夜作った鳴子を、誇らしげに掲げていた。
「またなあ! 次も、寄っとくれよ!」
ジンは、頭を下げた。次に寄れるかどうかは、分からなかった。定期便の日程は、三月に一度。荷の届け先は、三つの村。この村は、その中に、入っていない。
谷を上がりきったところで、フィオナが、ぽつりと言った。
「……あの村さ。鳴子と、逃げ道だけで、足りるのかな」
「足りない」
ジンは、正直に言った。
「柵がない。人手がない。若い男が三人。……本気の群れが来たら、逃げるのが精一杯だ。逃げても、村は残らない」
「じゃあ、なんで」
「逃げれば、人は残る。人が残れば、村は、また作れる。……逆は、ない」
フィオナは、黙った。
しばらく、街道を歩く音だけが続いた。
ジンは、あの窪地の村の子供の顔を、思い出していた。鳴子を掲げて、得意げに笑っていた顔。あの子らは、今夜から、村を囲む縄の内側で眠る。縄が鳴らない夜が、何年も続けばいい。続かなかった時、あの縄は、逃げる時を、いくらか稼ぐ。それだけのものを、置いてきた。それだけしか、置いてこられなかった。
街道に戻って、半日進んだ頃、遠くの丘の中腹に、また、小さな村が見えた。
家が、十軒ほど。煙が、細く上がっている。柵は——遠目には、分からない。
隊商は、その村に、寄らなかった。日程がある。荷は、三つ目の村で待たれている。ジンは、荷馬車の横を歩きながら、遠ざかっていくその村を、一度だけ、振り返った。
その日、同じような村を、あと二つ、通り過ぎた。
どの村にも、井戸があり、煙が上がり、犬が吠え、たぶん、子供がいた。荷馬車の車輪の音が、その全部の横を、通り過ぎていった。
◇
三つ目の村へ荷を届け、グレンツへの帰路についた夜。
野営の火のそばで、ジンは、地図を広げていた。シャルロッテから借りた、オストマルク辺境の絵図だ。
村の印が、いくつも打ってある。
数えた。
大小合わせて、四十を超えていた。それも、伯爵家が把握している村だけだ。あの窪地の十二軒のように、地図に印すらない村が、まだ、いくつもある。
ジンは、火の明かりで、それを、じっと見た。
一つの村に、一晩。それで教えられるのは、鳴子と、逃げ方だけ。柵まで直そうとすれば、一つの村に、十日はかかる。
四十の村に、十日ずつ。
——千日を超える。
その間にも、村は、増えも減りもしない。いや、減る。今日通り過ぎた村のどれかが、来年には、五年前の廃村のように、夏草に埋もれているかもしれない。
一人では、届かない。
はっきりと、そう思った。素振りを三百回に増やしても、糸を一日じゅう保てるようになっても、この四十の印には、届かない。剣の腕は、村の数を減らしてはくれない。
「……ジン。難しい顔してる」
火の向こうで、フィオナが、毛布にくるまったまま言った。
「全部は、救えないよ。分かってるでしょ」
「分かってる」
分かっている。分かっているが、腹の底が、冷たいままだった。
前世の男は、一つの村すら守れなかった。今の自分は、四十を数えて、届かないと知っている。進歩なのか、後退なのか、よく分からなかった。
◇
だが、火を見ているうちに、ジンは、一つのことを思い出した。
あの窪地の村で、鳴子を作っていたのは、ジンではなかった。子供たちだった。板を割り、瓶を通し、けたたましく鳴らして、大人に叱られていた。ジンが教えたのは、作り方だけだ。作ったのは、村の人間だった。
リンデ村も、そうだった。柵を打ち直したのはジンではなく、村の男たちだ。稽古の号令をかけているのは、今はエマだ。当番表を回しているのは、村の全員だ。ジンがいない一月、村は、当たり前に回っていた。
一つの村に十日いる必要は、ないのかもしれない。
必要なのは、その村に、「これを続ける人」が、一人できること。柵の直し方でも、鳴子の作り方でもなく——毎日続けることの、値打ちが伝わればいい。伝わったものは、その村の中で、勝手に育つ。
それでも、四十の村に一人ずつ、その一人を作るには——。
「……やっぱり、一人じゃ、無理だな」
「え? なに?」
「……いや」
ジンは、地図を畳んだ。
答えは、まだ出ていない。だが、探すべき方向が、少しだけ見えた気がした。一人で四十の村を回るのではない。回れる人間を、増やす。あるいは、村同士が、互いに助け合う形を作る。
どうやって、は分からない。今の自分には、金も、名も、力も、まるで足りない。
だが、村の柵を一人で直していた十三の自分も、同じことを思ったはずだった。そして、二年で、村は変わった。
——積むしかない。
いつもの結論に、いつものように、たどり着いた。
火が、小さくなっていく。ジンは、毛布をかぶり、目を閉じた。
あの窪地の村の、鳴子が鳴らない夜が、一日でも長く続くように。そう思いながら、浅い眠りに落ちた。




