第二十八話 割に合う理由
◇
隊商は、荷馬車が六台。護衛は、ジンとフィオナを入れて、五人だった。
出立の朝、ジンは荷の積み方から、口を出した。
「重い荷を、後ろの三台に。軽いのを、前に」
「逆だろ。重いのを先に行かせたほうが、道が均される」と、雇われの護衛の一人が言った。
「均された道は、後ろの馬車には楽です。でも、襲われた時に、重い前が止まると、後ろが全部詰まって、逃げ場がなくなる。軽い前は、いざとなれば押して動かせます。……荷を落とさない、が条件なので」
雇われ護衛たちは、顔を見合わせた。この十五の小僧が、なぜ護衛の頭を任されているのか、まだ誰も納得していない。それでも、隊商の主が「言うとおりに」と割って入り、荷は積み直された。
その様子を、一台目の荷馬車の横で、シャルロッテが腕を組んで見ていた。
「……あなた、同行するんですか」
「私の荷よ。私の領の村へ運ぶの。屋敷で報告を待つだけの領主なら、算盤は弾けないわ」
上等な旅装の裾には、すでに埃がついていた。この令嬢は、本当に、自分の足で領を歩く人間らしかった。
「言っておくけど、私は足手まといにはならない。馬には乗れるし、帳面もつけられる。……ただし、剣は使えない。守られる側よ。それは、承知しておいて」
自分の弱さを、はっきり申告する。ジンは、この娘の、そういうところを、悪くないと思った。
◇
道中、ジンがやったことは、地味の一言だった。
一日目。街道の分かれ道で、ジンは行商人を捕まえて、二言三言、話を聞いた。「北回りは、先週から沢が出ています。荷馬車は、南で」——それだけで、隊商は泥濘の半日を回避した。
昼の休憩は、見晴らしのいい場所を選んだ。飯の煙は、風下に流れる位置で焚いた。
夜営は、日暮れの一刻前に切り上げた。「暗くなってから場所を探すと、悪い場所に泊まることになります」。馬車を扇形に並べ、火を三つ焚き、見張りを二人一組で立てた。ジンは、その二人に、村で教えたのと同じことを言った。
「勝たなくていいです。何か見えたら、まず声を上げてください。声が届けば、全員が起きます。全員が起きた場所を、たいていのものは、避けます」
当番表に、ジンは自分の名を書かなかった。
「頭が寝ていないと、いざという時に、判断が鈍ります」
雇われ護衛たちは、それもそうだと頷いた。一台目の荷馬車の陰に毛布を敷いて、ジンは横になった。
◇
火が落ち、話し声が途切れ、いびきが一つ増えた。見張りの二人は、火のそばで賭け事の話をしている。
ジンは、目を開けた。
起き上がる時、音は立てなかった。剣を取り、毛布を丸めて、人の寝ている形に整えておく。馬の脇を抜けると、一頭が耳をこちらへ向けた。首を二度撫でると、耳は戻った。
火の輪の外へ出ると、夜が、急に広くなった。
まず、風下へ回った。飯の匂いも、馬の匂いも、そちらへ流れている。寄ってくるものがあるとすれば、匂いを辿ってくる。
草の倒れ方を見た。膝の高さに、二筋。爪の跡は浅く、歩幅は狭い。
ゴブリンだ。二匹。街道からは、まだ離れている。
匂いは、夜通し流れ続ける。明け方、荷を積んでいる最中に来られたら、囲む形を作る前に、誰かが一人で当たることになる。一人で当たれば、人は死ぬ。
荷を守るというのは、そういうことだ。
風上へ回り込み、窪地の縁に膝をついた。
待った。
膝が冷えて、感覚が薄れ、また戻った。指を握って、開いた。息は細く吐いた。
声を上げさせない。上げさせれば、片割れが散る。散らせば、明日も街道に残る。
音は、思ったより早く来た。
一匹目が、窪地の縁を越えた。
ジンは、立ち上がらなかった。下から、半歩。喉に入れて、引く。声にはならなかった。倒れる音のほうが、よほど大きかった。
二匹目が、遅れて縁に立った。ジンは動かない。相手が踏み出す。その足が地に着く前に、返した。
二つ。息は、まだ一つも乱れていない。
そこで、三匹目が、右手の茂みから出た。
振り抜いた刃を止めず、そのまま円を描いて、下から。爪が届くより、ずっと手前で終わっていた。
三匹が、順に、草の上に落ちた。
音は、遠くの馬にも届いていない。火のそばの二人は、まだ賭け事の話をしている。
終わってから、ジンは、剣を提げたまま、あたりを見た。それ以上は、出てこなかった。
跡が二筋しかなかったのは、三匹目が、前のものの踏んだところを踏んでいたからだ。次からは、筋を数えるのではなく、深さを見る。それだけのことだった。
土を掘った。石が多く、根が硬かった。三匹を埋め終わるまでに、待った時間より長くかかった。
土を戻し、踏み固める。刃を布で拭い、二度拭って、それでもまだ拭った。
刃の入りが、去年より鈍い。研ぎでは、もう追いつかなくなってきている。
——三匹。
隊商の火が、遠くに三つ、見えた。同じ位置で、同じ数だけ燃えている。誰も起きていない。荷は六台とも、置いた形のままだった。
火の輪へ戻ると、見張りの一人が顔を上げた。
「……どこ行ってた」
「散歩だ」
「こんな夜中にか」
「眠れなくて」
男は鼻で笑った。「変わった奴だな。……ま、遠くまで行くなよ。この辺、出るらしいからな」
「はい。気をつけます」
毛布に潜り込んだ。空が白むまでに、二刻ほどは眠れるはずだった。
◇
二日目。ジンは、荷台の上で二度、舟を漕いだ。
「……ジンくん、いつ寝てんの」
「馬車の上で」
「答えになってないんだけど」
フィオナは、それ以上は訊かなかった。訊いても答えが返ってこないことを、この娘は、もう知っている。
それから、道の脇の獣道を見て、隊列の速度を上げさせた。
「このあたり、狼が寝床にしています。昼寝の刻限なので、静かに、速く抜けます」
「殺らねえのか」と、雇われ護衛が訊いた。
「起こさなければ、殺らずに済みます」
何も、起きなかった。
三日目の夕方、一つ目の村に着いた。荷は、六台とも、一つも欠けていなかった。
◇
村は、貧しかった。
柵は、ジンが二年前に見たリンデ村よりも、ひどい。杭は傾ぎ、隙間だらけで、鳴子どころか犬もいない。出迎えた村人たちは、荷馬車を見て、涙ぐんで喜んだ。塩と、薬と、種籾。これで冬が越せる、と。
シャルロッテは、荷を降ろしながら、村長と手短に話をつけていた。次の便の時期。税の減免。人手の融通。話し方は淡々として、慈善の匂いは、どこにもなかった。
その間に、ジンは、村を一周していた。
戻ると、シャルロッテが、腕を組んで待っていた。
「……どこへ行っていたの」
「柵を、見てきました」
「頼んでないわ」
「はい」
ジンは、村長を呼んで、一枚の紙を渡した。道々の休憩で書きつけた、この村の地図だった。柵の弱い三か所に、印がついている。
「この三つが、いちばん先に破られます。杭を打ち直すのは、来春でもいい。でも、今夜からできることが、二つあります。一つ、この隙間に、茨を積むこと。二つ、板と空き瓶で鳴子を作って、柵の内側に張り渡すこと。……子供でも作れます。音が鳴れば、村の全員が起きます」
村長は、地図を握りしめ、何度も頭を下げた。
シャルロッテは、その様子を、黙って見ていた。
◇
その夜、村外れの焚き火のそばで、シャルロッテは言った。
「……あなた、報酬は増えないわよ」
「はい」
「柵の話は、依頼の外。あなたが今日やったことは、一銭にもならない。それは、分かってやってる?」
「分かってます」
「なぜ」
ジンは、火を見たまま、しばらく考えた。
「……荷を届けても、この村が春までに欠けたら、次の荷を運ぶ意味が、なくなります。次も、その次も、俺かもしれない。だったら、今夜のうちに鳴子を作ってもらったほうが、次の仕事が楽です」
「……勘定の話に、するのね」
「勘定の話です。……たぶん、あなたと、同じ種類の」
シャルロッテは、火の向こうで、少しだけ黙った。
「私はね、ジン。慈善は、しないの」と、彼女は言った。「領民が飢えれば、税が減る。村が消えれば、領が痩せる。だから、守る。綺麗な理由じゃない。でも、綺麗な理由で動く人間は、途中でやめるのよ。心が折れたら、それまでだから。……勘定で動く人間は、やめない。割に合う限り、ずっと続けられる」
「……はい」
「あなたの言う"次の仕事が楽になる"も、同じね。……あなた、続ける気なんだ。一回きりの、いい話じゃなく」
「はい。続けます」
シャルロッテは、ふ、と息を吐いて、それから、火に枝を一本くべた。
「割に合う、って言葉が、あんなに温かい意味になるとは、思わなかったわ」
焚き火の向こうで、村の灯りが、ぽつぽつと消えていく。今夜、あの村では、子供たちが板と空き瓶で鳴子を作ったはずだった。明日から、その縄が村を囲む。何も起きなければ、鳴子は一度も鳴らず、来年の今頃には、誰もそれを珍しがらなくなっているだろう。
それで、いい。当たり前になったものだけが、続く。
「……ジン。あなた、その、柵と鳴子の話。どこで覚えたの」
「うちの村で。二年前に」
「二年前」
シャルロッテは、少し、目を細めた。それ以上は、訊かなかった。誰にでも、訊かれたくない一年がある。この娘は、そういう線を、きちんと見る人間だった。
◇
シャルロッテが天幕へ引き上げてから、ジンは焚き火に土をかけて、村の外側へ歩き出した。
昼のうちに印をつけた三か所を、順に見た。一つ目には、もう茨が積んであった。二つ目には、まだ何もなかった。三つ目の隙間の前に腰を下ろして、空が白むまで、そこにいた。
何も、来なかった。
来なかったことは、朝になっても、誰にも分からない。
◇
残る二つの村へも、荷は、一つも欠けずに届いた。
道中、隊商は一度も襲われなかった。雇われ護衛の三人は、この道行きで、一度も剣を抜いていない。
「妙に、静かな道だったな」と、そのうちの一人が言った。「辺境往きってのは、もっと出るもんだと思ってたぜ」
「運が、よかったんです」
「だろうな。……お前、夜はちゃんと寝てんのか。顔色が悪いぞ」
「寝てます」
三つ目の村を出る朝、シャルロッテは、帳面を閉じて、ジンに向き直った。
「報酬は、約束どおり。……それと、追加で、一つ提案があるの」
「なんでしょう」
「この仕事、続けてほしい。定期の便として。三月に一度、うちの領の村々へ。……あなたが受けるなら、私はギルドに、名指しで通す。報酬も、うちが持つ」
大きな話だった。定期の護衛。それは、安定した金であり、辺境の村々を巡る足であり、領の情報が入る道でもある。村を出る時に欲しかった三つが、一度に、手に入る話だった。
「……受けます。一つ、条件をつけても?」
「言ってみて」
「荷を運ぶついでに、村の防備を見て回らせてください。柵と、鳴子と、逃げ方だけ。報酬は、要りません」
シャルロッテは、しばらく、ジンを見た。
それから、初めて、声を出して笑った。
「本当に、変な男ね、あなた」
「よく言われます」
「いいわ。むしろ、こちらから頼みたいくらい。……ただし、"報酬は要らない"は却下。ちゃんと払うわ。タダで働かせると、続かないもの。続かないものは、勘定に合わない」
差し出された手を、ジンは、握り返した。
貴族の令嬢と、辺境の冒険者。立場は、まるで違った。だが、その二人が握っているのは、同じ一つの勘定だった。守りたいものを、守り続けるための、勘定だ。
◇
帰路の街道で、フィオナが、ずっとにやにやしていた。
「なによ、あの握手。かっこよかったじゃん、二人とも」
「……仕事の話だ」
「分かってるって。……でもさ、ジン。この仕事、続けたら、あんた、辺境じゅうの村を回ることになるよ。柵と鳴子を、あちこちの村に配って歩くんだ」
ジンは、少し、考えた。
そういうことになる。リンデ村の柵と鳴子が、三つの村に増え、いずれ、もっと増える。守れる場所が、増えていく。
だが、同時に、別のことも考えていた。
なぜ、シャルロッテは「三月に一度」と言ったのか。なぜ、定期便を、今、急いで作ろうとしたのか。あの令嬢は、算盤を弾く。急ぐ理由がなければ、急がない。
——欠ける村が、増えると、思っている。
その確信の根が、どこにあるのか。ジンは、いずれそれを、訊かねばならないと思った。
東の空に、灰色の雲が、低く垂れ込めていた。




