第二十六話 噂の形
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噂というものは、勝手に形を変えていく。
ドルグとの護衛依頼から、半月ほど。グレンツのギルドで、ジンの噂は、いつの間にか、二つに割れていた。
一つは、「地味な雑用係」説。
「ああ、ジンな。溝さらいだの薬草採りだの、誰もやりたがらねえ雑用ばっか、こつこつやってる真面目なガキだよ。Dまで上がったのも、数こなしただけだろ。腕は、まあ、大したことねえんじゃねえの。派手な討伐なんて、一つも聞かねえしな」
もう一つは、「化物」説。
「いや、あれはヤバいって。ドルグが言ってたぞ。組んでも、戦いが起きねえんだと。気づいたら魔物が全部片付いてて、依頼が終わってるって。あのおっさん、辺境往きを十年やってる男だぞ。その口から出たんだ。……そういうのが、一番怖いんだよ。得体が知れねえ」
同じ一人の男の話とは、とても思えない二つの噂が、酒場のあちこちの卓を、別々の顔をして渡っていく。
ジンは、どちらも、放っておいた。
雑用係、と侮る声には、うなずいておく。実際、雑用は、こつこつやっている。化物、と怖がる声にも、うなずいておく。得体が知れないほうが、都合がいいことも、ある。訂正する理由が、なかった。噂は風だ。風に、いちいち向き直っていたら、前に進めない。
それにと古い記憶が言う。前世の戦場でも、いちばん厄介だったのは、名の知れた猛将ではなかった。地味で、目立たず、気づけば要所を押さえている——そういう相手が、いちばん、崩しにくかった。侮られる将は、侮る敵を、油断ごと刈り取れる。目立つことは、強さではない。むしろ、隙だ。
だから、噂は、どう転がっても構わなかった。
だが、その風を、面白く思わない者が、一人いた。
◇
「——なんなの、あいつら!」
その日の稽古のあと、川原で、フィオナが膨れていた。
「聞いた? ジンのこと、『雑用係』だって。誰もやらない依頼を、命がけで片付けてるのに! この前の護衛だって、あんたがいなかったら、荷も人も、絶対、無事じゃ済まなかったのに!」
「そうかもな」
「そうかもな、じゃない! なんで言い返さないの! あんた、もっと、こう……自分がやったこと、ちゃんと言えばいいじゃん! ドルグさんに証言してもらえば——」
「言って、どうなる」
ジンは、川面を見たまま、静かに言った。
「雑用係だと思われてるほうが、動きやすい。大したことないと侮る相手は、警戒しない。……得体が知れないと怖がる相手は、近づいてこない。どっちも、俺には、都合がいい」
「……でも」
フィオナは、拳を握った。
「でも、悔しくないの? あんなに、みんなのために動いてるのに。誰も、ちゃんと、見てないんだよ。認めて、くれないんだよ」
ジンは、少し、間を置いた。
この娘は、怒っている。自分のことで、ではない。ジンのことで、怒っている。認められない誰かのために、こんなに本気で腹を立てられる人間を、ジンは、久しぶりに見た気がした。
「……フィオナ」
「なによ」
「お前は、見てるだろう」
「え」
「お前と、ドルグと、あの護衛の隊商の主。……ちゃんと見ててくれる奴が、何人かいる。それで、足りてる。全員に認められる必要は、ない。認めてほしい相手に、認めてもらえれば、それでいい」
口を、へ、の字に結んだまま、フィオナはしばらく黙った。
その一言は、思いのほか深く、胸に刺さったらしかった。認めてほしい相手を、自分で選んでいい——それは、ずっと「百年に一人の器」として、望んでもいない相手からの期待に押し潰されてきた娘には、なかった発想だった。全員に認められる必要なんて、最初から、なかったのだ。
「……あんたって、時々、変なこと言うよね。でも」
膨れっ面のまま、しばらく川面を睨んで、それから、ぼそっと言った。
「……あたしは、ちゃんと、見てるから。あんたのこと」
「知ってる」
「〜〜っ、そういうとこ!」
◇
とはいえ、噂は、実利にも関わる。
雑用係の噂は、ありがたい。近づいてくる面倒が減る。だが、化物の噂は、少しだけ、厄介だった。
Dランクに上がって、受けられる依頼が増えた。パーティを組んでの、少し大きな討伐依頼。そういう卓には、時々、ジンにも声がかかる。だが、化物の噂を聞いた連中は、二の足を踏んだ。「あのガキと組むと、自分の見せ場がねえ」「調子が狂う」——腕を認めているからこそ、組みたがらない。
一人で動く分は、困らない。ジンは元々、一人で積むつもりで村を出たが、辺境の大きな依頼の中には、一人では到底受けられないものもあった。護衛の頭数。討伐の人手。そういう時に、組める相手がいないのは、少し、不便だった。
「別に、いいよ。あたしがいるし」と、フィオナは胸を張った。
確かに、フィオナがいる。二人なら、たいていの依頼は、回る。だが、二人で回せる規模には、限りがある。
もっと大きなものを守るには、もっと大きな仕事がいる。もっと大きな仕事を受けるには——一人でも、二人でもない、別の何かが、いる。
ジンは、まだその形をはっきりと掴めていなかったが、村の柵を一人で直していた頃のことを、ふと思い出した。あれが「皆んなで直す」に変わった時、村は、強くなった。一人で守れる村は、その一人が倒れれば終わる村だ。ここでも、たぶん、同じだった。
一人で積むつもりで、村を出た。だが、村を強くしたのは、一人の力ではなく、寄ってたかった大勢の、小さな手だった。それを、いちばんよく知っているのは、自分のはずだった。
だが、それは、まだ先の話だった。今は、隣で胸を張ったままのフィオナの顔で、十分だった。
◇
その報せが来たのは、いつものように、地味な依頼を一つ終えて、ギルドの窓口に戻った時だった。
「あ、ジンさん。ちょうどよかった」
ミレーヌが、一枚の依頼書を、いつもと違う手つきで、そっと差し出した。上等な紙だった。隅に、蝋の封の跡がある。ギルドの雑多な張り紙とは、明らかに、格が違った。
「これ……ジンさんへの、名指しの依頼なんです。それも、直接、うちの支部長宛てに、話が来たもので」
「名指し?」
「はい。……辺境物流の、大口の護衛依頼です。発注元が、その」
ミレーヌは、依頼書の、発注人の欄を指した。几帳面な字で、名が記されていた。
シャルロッテ・ヴァレンシュ。
「……ヴァレンシュ伯爵家の、ご息女です。オストマルク辺境を、治めてらっしゃる。……ジンさん、貴族の、それも伯爵家から、名指しなんて。何か、心当たり、あります?」
ジンは、上等な紙の上の、その名を、しばらく見ていた。
心当たりは、なかった。だが、辺境、という言葉が、引っかかった。オストマルク辺境。リンデ村の、ある方角だ。
雑用係の噂と、化物の噂。その両方が、どういう形でか、伯爵家の令嬢の耳にまで、届いたということだ。そして令嬢は、その噂の男を、名指しした。
面白がってか。値踏みか。それとも——。
「……会ってみます」
ジンは、上等な依頼書を、静かに受け取った。
辺境物流の護衛。辺境の村々へ、何かを運ぶ仕事だ。それは、金になる。金は、村の蓄えになる。そして、伯爵家の令嬢という相手は——うまくいけば、村一つでは決して届かない、大きな横のつながりに、なるかもしれない。
金と、情報と、力。村を出る時に、欲しかったもの。その三つ目の「力」が、剣の腕だけを指すのではないことに、ジンは、この街で、少しずつ気づき始めていた。人と、人の繋がり。それも、村を守るための、力だった。
「フィオナ。……大きい仕事に、なるかもしれない。手を、貸してくれるか」
「〜〜っ、当たり前でしょ! 何を今さら!」
窓口のミレーヌが、二人のやり取りを見て、くすりと笑った。それから、依頼書の控えに、二つの名を、迷いのない筆致で、並べて書き入れた。




