第二十五話 厄介なガキ
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ヴィオラが、その帳面に気づいたのは、まったくの偶然だった。
グレンツ支部長ヴィオラは、月末の依頼精算を、いつも自分の目で通す。若い職員に任せておけばいい仕事だが、四十年、辺境の生き死にを見てきた勘は、帳面の数字の並びから、ときどき、妙なものを嗅ぎ当てる。その日、嗅ぎ当てたのは、一人の新入りの、達成の列だった。
「……ミレーヌ。このジンってのは、何者だい」
「あ、ジンさんですか。辺境のリンデ村から来た、真面目な子です。溝さらいから始めて、今はもうEで……」
「登録から、二月とちょっと、だね」
「はい」
「その二月で、依頼数——三十一件。達成、三十一件。未達、ゼロ。違約、ゼロ。苦情、ゼロ」
ヴィオラは、老眼の目を細めて、羽根ペンの尻で、その列を叩いた。
「あたしゃね、ミレーヌ。四十年この稼業を見てるが、達成率十割ってのを、二種類しか知らないんだ。一つは、簡単な依頼しか受けない臆病者。もう一つは……」
言葉を切って、依頼の中身の欄を、上から下へなぞる。
溝さらい。薬草採り。犬探し。塀の修繕。そこまでは、臆病者の列だ。だが、その下。南の谷の狼型、群れの排除。街道の間引き。誰も受けない、色の褪せた辺境の札が、ぽつぽつと、交ざっている。臆病者は、こんな札を取らない。命が惜しい者ほど、割に合わない辺境往きを避ける。四十年見てきた、この稼業の理屈だ。
なのに、この小僧の列はあべこべだった。楽な仕事も、命がけの札も、同じ涼しい顔で受けて、同じ「達成」の判が捺してある。その二つに大した違いなど無い、とでも言いたげに。
「……もう一つは、なんですか」と、ミレーヌが訊いた。
ヴィオラは、帳面を閉じた。
「先を見据えてる奴だよ。……そういうのは、たいてい、厄介だ」
◇
その頃、当の厄介者は、Dランク昇格の依頼を受けていた。
E依頼をきっちり積んで、規定を満たした。昇格のための指定依頼は、街道から半日入った、古い鉱山跡の調査だった。廃坑に魔物が棲みついていないか、崩落の危険はないか、見て回って報告する——戦うより、読む仕事だ。ジンには、向いていた。
「うわ、暗っ。……ねえジン、これ、ほんとに中まで入るの?」
坑道の入り口で、フィオナが顔をしかめた。夏の日差しが、坑口の三歩先で、ぷつりと途切れている。中は、完全な闇だった。松明は、持ってきていた。だがジンは、あえて火を点けなかった。
「入る。……お前の、出番だ」
「え」
「明かりだ。蝋燭一本ぶんでいい。」
フィオナは、あ、という顔をした。それから、少し緊張した面持ちで、杖を置き、指先に意識を集めた。
坑道の闇に、ぽっ、と火が灯る。
火は、膨れなかった。爆ぜなかった。フィオナの手のひらの上で、寄り添うように、静かに燃えている。半月前は蝋燭一本で精一杯だった娘が、今、火を、同時に、こぼさず保っていた。
その明かりが、坑道の湿った壁を、ぼうっと照らし出す。
「……やば。あたし、松明の代わりしてる。ちゃんと、役に立ってる」
「立ってる」
フィオナは、火を掲げたまま、少し、鼻を高くした。その火が誇らしげに揺れるのを、ジンは横目で見て、悪くない、と思った。
◇
坑道は、奥で二手に分かれていた。
右は崩落していた。左から、かすかに、饐えた臭いが流れてくる。ジンは足を止め、フィオナの火を少しだけ後ろへ下げさせた。
「いる。奥に。……三つ、いや、四つ」
「ゴブリン?」
「たぶん。ここに巣くってる。だが——待て」
ジンは、床の砂を指でつまんだ。ゴブリンの足跡に混じって、もっと大きな、蹄のある足跡が、奥へ続いている。
「何か、大きいのが、奥にいる。ゴブリンは、そいつのお零れを狙う小者だ。……今日は、崩落の確認だけの依頼だった。分不相応な相手には、手を出さない」
「え、帰るの? せっかくここまで」
「帰る。……崩落の危険あり、大型の魔物の棲息を確認、進入は危険、と報告する。それで、依頼は果たせる。無理に奥へ行って、二人で戻れなくなるのが、いちばん、依頼を果たさないことだ」
フィオナは、口を尖らせかけて、やめた。
坑道の暗がりの奥、饐えた臭いの向こうに、確かに、ぞっとするような気配があった。フィオナの魔力が——池のような、あの魔力が、その気配を前に、少しだけ、怯えたように波打っている。ジンの見立ては、正しかった。
強くなった、と浮かれた足で奥へ踏み込む。それで消えた冒険者を、記憶の中の男は、いくらでも知っていた。強さとは、踏み込める力のことではない。踏み込まぬと決められる目のことだ。今日のところは、それでいい。
「……そうする。うん。無理は、しない」
引き返し際、坑道の入り口が近づくと、闇の中に、ゴブリンの目が二つ、追ってきた。巣を確かめに来た侵入者を、追い払うつもりらしい。
「フィオナ。火を、入り口の手前で、一度だけ大きく」
「え、でも、こぼしたら」
「こぼさなくていい。一瞬だけ、ぱっと明るく。脅すだけだ」
フィオナは、息を吸い、火を——ぐっ、と、明るくした。爆発ではない。制御された、閃光だった。坑道の闇が一瞬白く弾け、ゴブリンの目が眩んで、ひるむ。その隙に、二人は坑口の外へ抜けた。
夏の光の下で、フィオナは、自分の手のひらを、信じられないように見ていた。
「……あたし、今、魔法で、ちゃんと、役に立った。誰も、焦がさずに」
「ああ。……いい、火だった」
フィオナは、ぐしゃっと顔を歪めて、それから、川原の時と同じ、素の声で笑った。
◇
ギルドに戻り、報告を上げた。
「鉱山跡、崩落の危険あり。奥に大型の魔物の棲息を確認。ゴブリンの巣も。……単独での掃討は、推奨しません。」
受付のミレーヌが報告を書き取り、それを奥へ通した。しばらくして、木札が、Dに替わった。
「Dランク昇格です。おめでとうございます、ジンさん」
「ありがとうございます」
Dの札を荷にしまい、ギルドを出ようとした、その時だった。
奥の階段の上、支部長室の扉のところに、杖を突いた老女が立って、こちらを見下ろしていた。ヴィオラだった。ジンとは、初めて目が合った。
品定めするでも、値踏みするでもない、妙に静かな目だった。ジンは、辺境で獣を見る時と同じ、その目の質を、一瞬で読み取った。——これは、こちらの底を、すでにおおよそ見ている目だ。
ジンは、軽く頭を下げた。ヴィオラは、片手を上げるでもなく、ただ、ふん、と鼻を鳴らして、部屋へ引っ込んだ。
「……今の、支部長さん?」と、フィオナ。
「ああ」
「なんか、あんたのこと、じっと見てたね」
「そうだな」
ジンは、それ以上は考えなかった。深追いは、しない。相手が動くまでは、こちらも動かない。それが、物見の作法だった。
支部長室で、ヴィオラは窓辺の椅子に沈み込み、閉じたばかりの帳面を、もう一度、開いた。
達成、三十二件。未達、ゼロ。そして今日の報告——「分不相応な相手には、手を出さない」。奥に大型がいると読み、引き返し、依頼だけを、きっちり果たして帰ってきた。
あたしが命をいくつ捨てかけて、ようやく覚えたことだ。それを、あのガキは十五で、当たり前の顔でやってのける。
「……厄介なガキだ」
ヴィオラは、誰もいない部屋で、そう呟いた。呆れとも、期待ともつかない声だった。窓の外、辺境へ続く街道の上を、夏の雲が、東から西へ、ゆっくりと流れていった。




