第二十三話 ジンの与り知らぬこと
◇
鳥の声で、夜が明けた。二人は火の始末をして、廃屋を発った。
昨夜の一件を、ドルグは何も知らない。ジンも、話すつもりはなかった。
三日目の昼前、最初の集落に着いた。
境沿いの三つの集落は、思ったより小さかった。柵は低く、家の数も少ない。冬支度の荷を降ろすと、老いた村長らしい男が、何度も頭を下げた。
「これで冬が越せる」
大げさな物言いではなかった。塩と油の樽を見る村人たちの目が、それを証明していた。
子供の一人が、樽の隙間から覗く塩の袋を見て、歓声を上げた。母親らしい女が、その頭を軽く小突いて、それでも自分の顔もほころんでいた。
リンデ村と、変わらない。柵の高さも、道の細さも違うが、冬支度に一喜一憂する顔は、どこも同じだった。
二つ目の集落では、子供たちが荷を運ぶのを手伝いたがった。ドルグが適当に軽い荷を選んで持たせ、大げさに褒めるのを、ジンは黙って見ていた。こういう場での愛想の良さは、ジンには真似のできないものだった。年寄りたちは、ドルグの顔を見るなり名前を呼んだ。この道を、何年も歩いてきた男なのだと分かった。
三つ目の集落まで回り終える頃には、日が傾いていた。
「よし、今日はここで泊まる。あとは帰るだけだ」
ドルグが、境沿いで唯一の宿——というより、旅商人が使う板張りの離れ——を指さした。主人は無愛想だったが、飯だけは温かかった。
◇
夕飯の席で、ドルグが地図を広げた。帰り道の確認だった。
「この分岐、地図だと真っ直ぐに見えるが、実際は迂回だ。……昔、行軍でこの手の地図に何度も泣かされた」
「行軍」
「……仕事柄、色々見てきたってだけの話だ」
ドルグは地図を畳んで、それ以上は喋らなかった。ジンも、それ以上は訊かなかった。
代わりに、宿の主人が出した汁を啜った。塩気の強い、辺境らしい味だった。
「不味いだろ」
「……悪くない」
「変わった舌してるな、あんた」
ドルグは笑って、自分の椀にも同じ汁をよそった。
飯を終え、割り当てられた部屋で横になる。板の壁一枚を挟んで、ドルグのいびきが聞こえてきた。
◇
夜半、ジンは音を立てずに起き上がった。
外の空気を確かめる。境沿いの夜は、村の夜とは匂いが違う。獣の気配が濃い。木の柵は低く、隙間だらけだった。この宿の主人は、柵を直す気がないらしい。
宿の裏手を一回り。それだけのつもりだった。
裏庭に出ると、低い唸り声がした。
痩せた狼が一匹、宿の鶏小屋に鼻先を突っ込んでいる。飼い主が朝に困る程度の話だが、放っておけば、この宿はもっと困ることになる。
得物は、腰の直剣だけだった。いつもと、同じだ。
風下から回る。狼はまだ気づいていない。鶏の匂いに気を取られている今が、間合いだった。
一瞬で片をつけた。物音は、最小限に抑えた。悲鳴も、羽音も、最小限で済んだ。
血を土で拭い、裏庭の隅へ運んで埋める。手早く済ませ、部屋へ戻ろうとして、足を止めた。
窓に、明かりがあった。
◇
板窓の隙間から、じっとこちらを見ている。何をしていたのか、どこまで見えたのか、それは分からなかった。ジンは、何も言わなかった。言うべき言葉も、思いつかなかった。
窓の明かりは、動かなかった。ただ、じっとこちらを見ている。
ジンは、その場に立ち尽くした。逃げても、隠しても、意味がないことは分かった。
部屋に戻ると、ドルグは寝床の上で、胡座をかいたまま待っていた。
「……坊主」
「……」
「訊かねえよ」
それだけ言って、ドルグは横になり、壁のほうを向いた。
「寝るぞ。明日も歩く」
ジンも、自分の寝床に戻った。板一枚隔てた向こうから、もう、いびきは聞こえてこなかった。
◇
翌朝、二人は何事もなかったように出発した。
ドルグは、いつも通りに軽口を叩いた。宿の飯がまずかったこと、境沿いの道が思ったより荒れていたこと。ただ、時折、ジンの手元や足の運びを、値踏みするように見る癖が増えた。
「あんた、剣以外に何ができる」
唐突に、ドルグが訊いた。
「……何が訊きたい」
「いや。ただの世間話だ」
答えを待たずに、ドルグはまた別の話を始めた。それきり、その話題には戻らなかった。
街道が街道らしい広さに戻ると、荷を運ぶ商人や、他の冒険者ともすれ違うようになった。ドルグは誰かとすれ違うたびに、片手を上げて挨拶した。顔が広いらしい。
「またこういう仕事があったら、声かけてやるよ。あんたと組むと、退屈しなくていい」
何が退屈しないのか、ジンには分からなかった。ただ、それが誘いの言葉だということだけは分かった。
グレンツの城壁が見えてきたのは、四日目の昼だった。
ギルドの受付では、ミレーヌが二人の顔を見比べて、少しだけ意外そうな顔をした。喧嘩別れせずに戻ってきたのが、珍しいことのようだった。
報酬を受け取り、ドルグはさっさと酒場へ消えていった。
「またな、坊主」
振り返らずに、片手だけ上げて。
宿へ戻る道すがら、ジンは考えていた。何かを見られた。何かを、疑われている。それでも、ドルグは何一つ、問い詰めてはこなかった。
訊かない、という選択をする大人が、この街にも、また一人いた。エマやガルド、そしてこの傭兵。理由は違っても、同じ形の優しさが、いくつも積み重なっていく。
◇
ドルグは、しばらく眠れなかった。
坊主の身のこなしは、ただ者のそれじゃなかった。間合いの詰め方も、片付けたあとの後始末も、まるで、何十年もそれだけをやってきた男のようだった。
——俺も、昔はあちら側だった。
命令一つで村を「掃討」した夜のことを、ドルグは思い出さないようにしてきた。あの夜、殺る側にいた人間の動きが、こういう動きだった。無駄がなく、静かで、後悔の匂いがしない。
だが、あの坊主のそれは、違った。
殺しに慣れているのに、殺しを楽しんでいない。むしろ、誰にも見られたくなさそうにしていた。
——だとしたら、あれは何のためだ。誰に頼まれたわけでもなく、誰に見せるためでもなく、あんな真似を、毎晩やっているとでもいうのか。
答えは出なかった。ただ、二十年、傭兵稼業で人を見てきた勘が、一つだけ告げていた。この坊主から目を離すな、と。
何のためかは、それはジンの与り知らぬことだった。




