第二十二話 辺境往きの嫌われ札
◇
ギルドの掲示板の隅に、その依頼は何日も貼られたままだった。
「ホルンより先、境沿いの三つの集落へ、冬支度の物資を運ぶ者求む」
報酬は悪くない。だが日数がかかる。片道三日、往復六日。その間、他の依頼は受けられない。稼ぎ盛りの冒険者にとっては、日銭を稼ぐ他の依頼のほうがよほど実入りがいい。境沿いは魔物も出る。割に合わない、と誰もが顔を背ける仕事だった。
ジンにとっては、痛くも痒くもなかった。日数がかかるなら、かかるだけの話だ。
貼られてから十日、誰も取っていない。
貼り紙は日に焼けて、端が反っていた。誰も触っていない証だった。
ジンは、その札を外して受付へ持っていった。
「境沿いまで……お一人で、ですか」
ミレーヌが、少し眉を寄せた。心配というより、確認だった。ジンの帳面を見れば、無茶をする質でないことは分かる。それでも、境に近い道は魔物が出る。一人はどうか、という顔だった。
「今のところは」
短く答えて、荷の受け取り場所を聞いた。
ミレーヌは帳面に印を捺しながら、もう一度だけ、ジンの顔を見た。
「六日、村へは戻れませんが」
「問題ない」
月一で帰る約束は、まだ半月ある。今回だけは順序が前後する。それだけのことだった。
◇
酒場の隅で、その男を見たのは、出発の前日だった。
「あーあ。境往きなんぞ、誰が好き好んで行くかっての」
大声で愚痴っている。四十がらみ、日に焼けた顔に、無精髭。腰の剣は使い込まれていて、安酒場の酔客のそれとは違う手入れのされ方をしていた。
「オレは御免だね。金より命だ。……いや、金がなきゃ命も繋げねえんだが」
一人でぶつくさ言いながら、杯を空けている。ギルドの職員が、困った顔で見ていた。
翌朝、ジンが荷を受け取りに来ると、その男が受付の前にいた。
「あんたか。境まで行くってのは」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
男は、値踏みするようにジンを見た。上から下まで。それから、にやりと笑った。
「オレも行く」
「……なぜ」
「荷の護衛料、二人で分けたって、一人分より実入りがいい。ついでにあんたが囮になりゃ、オレは楽できる」
損得だけを並べる言い方だった。だが、ミレーヌは止めなかった。ヴィオラも、受付の奥からちらりと見ただけで、何も言わなかった。二人とも、この男を知っているようだった。
「あの人は、腕は確かです。口は悪いですけど」
ミレーヌが、帳面から目を上げずに言った。それが、保証のつもりらしかった。
「ドルグだ。よろしくな、坊主」
差し出された手は、剣だこだらけだった。
◇
出発は、朝一番だった。
荷馬車はない。二人で分けて背負う。ドルグの荷は軽そうに見えて、実際に持たせてもらうと、驚くほど詰まっていた。塩、油、鉄釘、冬支度に要るものが、隙間なく詰め込まれている。
「境沿いの村は、冬になると雪で閉じる。今のうちに運んでおかねえと、春まで塩も油もねえまま過ごすことになる」
軽口の合間に、そういうことは、きちんと知っていた。
「軽く見えるように積むのがコツだ。荷主に文句言われねえようにな」
歩きながら、ドルグはよく喋った。ホルンより先の道の危険な箇所、境沿いの村の気質、どこの宿が飯がまずいか。ジンはほとんど相槌だけを打った。
「あんた、無口だな」
「……そうか」
「そうかって。……まあいい。無口な相棒のほうが、金の話がしやすくていい」
昼、街道を外れた木陰で、干し肉を齧った。ドルグは酒袋を傾け、ジンには水しか勧めなかった。
「見た目より、頭は回るらしいな」
「……何のことだ」
「昨日から、荷物の詰め方を盗み見てる。あんた、今度自分で荷を組む時、同じ詰め方をするつもりだろ」
図星だった。答えずにいると、ドルグは声を上げて笑った。
「毒でも入ってると思ってんのか、これ」
「体が、慣れていない」
「……変わった坊主だな」
ドルグは、それ以上訊かなかった。
◇
夜が明け、二人は火の始末をして、また歩き出した。
「昨日の見張り、寝てたろ、あんた」
「起きていた」
「嘘つけ。鼾かいてたぞ」
かいていない、とは言い切れなかった。ここ数日の疲れが、体のどこかに溜まっていた。ドルグはそれ以上からかわず、ただ、にやついていた。
二日目、道はいよいよ細くなった。両側から森が迫ってくる。
「ここから先は、正規軍も滅多に来ねえ。辺境の防波堤ってのは、聞こえはいいが、要は捨て駒ってことだ」
ドルグの声から、軽さが少し抜けた。
「軍にいたことが?」
「……昔の話だ」
それきり、口を閉ざした。それきりで済んだのは、ジンがそれ以上訊かなかったからだった。
土の匂いが変わった。乾いた土から、腐葉と湿りの混じった匂いへ。木々の背が高くなり、道の両脇から日が差さなくなってきた。境が近い、という合図だった。
夕方、崩れかけた廃屋を見つけ、そこで一泊することにした。屋根の半分は落ちていたが、風はしのげる。
火を熾しながら、ドルグがぽつりと言った。
「あんたみたいなのが、たまにいる。歳のわりに、間合いの取り方が古い」
「……そうか」
「教わったのか。誰かに」
答えなかった。ドルグも、それ以上は重ねなかった。
「腕は、大したこたぁねえよ。毎日歩いてるだけさ」
訊いてもいないのに、ドルグが言った。
「二十年、この稼業だ。強え奴もたくさん見てきたし、死んでいくのもたくさん見てきた。生き残るのに要るのは、才能なんぞじゃねえ。今日と同じことを、明日もやる。それだけだ」
言ってから、ドルグは自分の言葉に照れたように、酒袋へ手を伸ばした。空だった。舌打ちして、水袋に切り替えた。
干し肉を分け合い、火の番を交代で受け持つことにした。先番はドルグだった。
「寝とけ。境沿いの夜は、体力がものを言う」
「……悪いな」
「悪いと思うなら、次の宿で酒くらい奢れ」
軽口だったが、断る理由もなかった。ジンは横になり、目を閉じた。火を見つめるドルグの目が、いつの間にか、少しだけ、違う色をしていた。
◇
夜が更けて、ドルグの寝息が深くなった。
ジンは音を立てず、廃屋の外へ出た。
風向きを確かめる。獣道の匂いはない。柵も鳴子もない土地では、耳と鼻だけが頼りだった。廃屋の周りを一回り。それだけのつもりだった。
木立の奥で、小さな気配が動いた。
数は少ない。弱い。じきに離れていく方角だった。
追わなかった。今夜の仕事は、荷を運ぶことだ。廃屋の周りに、獣避けの印だけをいくつか残して、中へ戻った。
火は、燃え尽きる寸前まで小さくなっていた。ドルグは、腕を組んだまま眠っている。起こす必要はない。薪を二本足して、ジンは火の傍に横になった。
目を閉じる。
耳は、まだ働いていた。




