第二十一話 こぼさない稽古
◇
フィオナ・アシュフィールドは、期待というものを、とっくに捨てたつもりでいた。
期待するから、裏切られる。裏切られるから、傷つく。だったら最初から、へらへら笑って、自分から「はいはい欠陥品でーす」と言っておけばいい。先に言っておけば、誰かに言われても、痛くない。そういう鎧の着方を、十四で学院を追い出されてから、ずっと磨いてきた。
だから、翌晩の川原へ向かう自分の足が、妙に速いことに、フィオナは戸惑っていた。
期待、してるの? あたし。
坂を下りると、もう、いた。あの少年——ジン。夜更けの川原で、黙々と剣を振っている。百回、と言っていた。嘘だと思っていた。だが、その振りの静かさを見て、フィオナは、嘘ではないと悟った。あれは、何百回、何千回と積んだ人間の、体の芯から静かな振りだった。
昨日、この人はあたしを助けて、それから「面白い」と言った。一晩、その言葉が頭から離れなかった。危ないとも、可哀想とも、もったいないとも言わなかった。ただ、面白い、と。まるで、珍しい石でも拾ったみたいに。あたしはずっと、拾われては捨てられる側だったのに。
「来たか」
ジンは振りを止めずに言った。
「……来ちゃった。あのね、一応言っとくけど、あたし、たぶん直らないよ。学院の先生でも無理だったんだから。あんまり期待、」
「期待はしていない」
ばっさりだった。
「期待するのは、こっちの勝手だ。直るかどうかも、まだ分からない。ただ、やってみる値打ちはある。それだけだ」
フィオナは、口を閉じた。
期待はしていない、と言われて、なぜか、ほっとした。
期待されないのは、いつだって安全だった。でも、今のは違う。突き放されたんじゃない。ちゃんと見て、値踏みして、その上で、値打ちはある、と言われた。
……そういうの、初めてだ。
「杖を出せ。……いや、その前に」
ジンは剣を置いて、川べりの、水たまりを指した。
「あれに、指を一本、浸けてみろ」
「……は?」
◇
「魔力を、水だと思え」
指を水たまりに浸けたフィオナに、ジンは言った。
「お前の器は、でかい。並の人間が桶なら、お前は、たぶん池だ。これは、いいことだ」
「……よく、ないよ。溢れるもん」
「溢れるのは、器のせいじゃない。注ぎ方のせいだ。見てろ」
ジンは、フィオナの浸けた指の隣に、自分の指を浸けた。そして、何かをした。フィオナには、それが見えた——というより、感じた。ジンの指先から、ごく細い魔力の糸が、水の中へ、すう、と伸びていく。細い。細すぎて、あるかないか分からない。だが、途切れない。
「これが、俺の全部だ。俺の器は、たぶん、そこらの子供より小さい。だから、こうやって糸にして注ぐしか、なかった」
「……そんな細いので、なにができるの」
「一日じゅう、切らさずに体を強くしていられる。それだけだ。派手なことは、何もできない」
何もできない、と言うわりに、その糸から目が離せなかった。細くて、静かで、ずっと続いている。
あたしの知ってる魔法は、どれも「どーん」だった。大きく、強く、一瞬で。こんな糸みたいな魔法、学院の教科書のどこにも載っていなかった。
「お前は逆だ。器がでかすぎて、糸にできない。桶の注ぎ方を池でやるから、どっと出て、溢れる。だから——」
ジンは、フィオナの指を、じっと見た。
「まず、一番細い糸を、一本。一秒でいい。こぼさずに、水へ通せるか」
フィオナは、笑おうとした。そんなの簡単だよ、と。
やってみて、笑えなくなった。
◇
一本の、細い糸。たった一秒。
できなかった。
指先に魔力を集めようとすると、池の水が、どっと押し寄せる。せき止めようとすると、今度は完全に止まる。ちょろりと出す、が、できない。全開か、全閉か。蛇口が、その二つしか知らない。
「……ほら。無理でしょ。あたし、こういうの、ほんとに、」
「一回目でできたら、稽古は要らない」
ジンの声は、平らだった。呆れも、慰めも、なかった。
「俺の素振りも、一回目は、五十回で倒れた。太刀筋なんて、まるで描けなかった。今もまだ、記憶の——いや、手本には、遠く及ばない。二年、毎晩やって、やっと百回を、崩さずに振れるようになった。それだけの話だ」
「二年……」
「お前がどれだけかかるかは、知らない。三月かもしれないし、三年かもしれない。ただ、一つだけ言える」
ジンは、水たまりの水面を指した。
「昨日のお前は、一本も通せなかった。今日のお前は、一秒には届かないが、"ちょろり"を、二度、出せた。膨れる前に、自分で止めた。……見えてたか?」
フィオナは、瞬きをした。
言われて、思い返す。確かに。さっき、二度だけ。どっと出る前に、指先で、ほんの一瞬、水が糸の形をした。すぐ崩れたけれど。崩れたから、失敗だと思っていた。
「……出て、た?」
「出てた。二度。昨日はゼロだ。ゼロが二になった。それは、増えたということだ」
増えた。
その言葉が、鎧の内側の、柔らかいところに、ぽすん、と落ちた。
ずっと、減点だった。百点から、溢れるたびに引かれていく。学院でも、パーティでも。あたしはいつも、何かを引かれる側だった。
なのに、この少年は、ゼロから数えている。増えた分だけを、数えている。
「もう一回」と、フィオナは言った。声が、少し、掠れた。
「もう一回、やる」
「ああ」
◇
朝が白む頃には、川原に湯気は、一度も上がらなかった。
爆発が、ゼロ。それは、フィオナがこの川原に通い始めて以来——いや、魔法を覚えて以来、初めてのことだった。派手なことは、何一つ起きなかった。ただ、指先で、細い糸を、通しては崩し、通しては崩し。それを、日が昇るまで、繰り返した。
疲れ切って岩に座り込んだフィオナの隣で、ジンは剣を布で拭いていた。素振りは、とっくに百回を終えていた。フィオナが糸と格闘している間、この少年は、黙って自分の稽古を積んでいたのだ。誰にも見せず、誰にも褒められず。
「……ねえ、ジン」
「なんだ」
「あんた、なんであたしを見て、"素晴らしい"なんて言ったの。危ないだけの、はた迷惑な欠陥品なのに」
ジンは、剣を拭く手を止めずに、少し考えた。
「……こぼれるほど、持ってるからだ」
「?」
「持っていない者は、こぼせない。俺は、こぼしたくても、こぼす水がなかった。お前は、こぼしてる。それは、あるってことだ。あるものは、いつか、使える。使い方が、まだ見つかってないだけだ」
フィオナは、その横顔を、しばらく見ていた。
この少年のことは、まだ何も知らない。歳は下に見えるのに、ときどき、ずっと年上みたいな口をきく。剣も魔法も、どこで覚えたのか。なぜ辺境から出てきたのか。訊きたいことは山ほどあった。でも、訊けば、自分のことも訊かれる気がして、今日はやめておいた。
明るく笑ってごまかす台詞が、いくつも喉まで出かかって、全部、引っ込んだ。代わりに出てきたのは、鎧を着る前の、素の声だった。
「……変な人」
「よく言われる」
朝日が、川原に差してきた。
フィオナは、乾き始めた指先を、そっと見た。まだ、一秒の糸は通せない。爆発は、たぶん明日も出る。何も、解決していない。
それでも、生まれて初めて、自分の魔力を「多すぎる欠陥」ではなく、「たっぷりある何か」として、見てみたくなっていた。
「明日も、来ていい?」
「夜だ。遅れるな」
「はぁい」
その返事だけは、いつもの、へらへらした声だった。だが、心の中身は、少しだけ、違っていた。
◇
半月が過ぎていた。フィオナは、一日も休まなかった。遅刻は三度したが、休みはゼロだ。
その夜は、雨だった。
日暮れから本降りで、川原は稽古にならない。ジンは素振りだけ、宿の裏でどうにか済ませ、戻る途中、ギルドの軒下に、先客を見つけた。
フィオナだった。膝を抱えて座り、灰色の雨を、ぼんやり眺めている。稽古が流れたので、行き場をなくしたらしい。
「……よ。ジンも、雨宿り?」
「素振りは、済ませた」
「この雨の中で!? 化物か!」
「濡れた柄でも振れないと、雨の日に村を守れない」
「出た、村。あんた、二言目には村だね」
フィオナは笑って、隣の乾いた石を、ぽんと叩いた。座れ、ということらしい。この娘は、いつも、隣を空ける。ジンは腰を下ろした。軒を打つ雨の音が、二人の間の沈黙を、ちょうどよく埋めてくれた。
「……アシュフィールドってさ」
不意に、フィオナが言った。雨を見たまま。
「あたしの、家名。……知ってる? 王都の、そこそこ古い、魔法の家系なの。代々、宮廷魔法師を出してる、ご立派なおうち」
ジンは、黙って、続きを待った。物見と同じだ。相手が話し出した時は、待つ。急かせば、閉じる。
「その家の、久しぶりの、大当たりだったんだって。あたし。生まれた時の魔力量が、百年に一人の器だって、占い師が言ったとかで。……父様も母様も、そりゃあ、期待したよ。次期宮廷魔法師だー、家門の誉れだーって」
雨脚が、少し強まった。
「でも、蓋を開けたら、これでしょ」
フィオナは、指先に、ちいさな火を灯した。蝋燭一本ぶんの、こぼれない火。稽古の成果だ。それを、自嘲するように、見つめた。
「この火をね、初めて父様に見せた日のこと、まだ覚えてる。八つだったかな。あたし、得意満々で、火の玉、出したの。大きいの出せば、褒められると思って。……天井、焦がした。父様の書斎の、代々の魔導書が並んでる、あの部屋の天井を。母様は悲鳴を上げて、父様は、何も言わなかった。何も言わない父様の顔が、いちばん、こたえたなあ」
雨の軒下に、その日の天井の焦げが、見えるようだった。
「器はでかいのに、注げない。期待、でかかったぶん、落ちるのも、派手でね。……ま、いろいろあって、体よく、家を出されたわけ。冒険者になれば箔もつくでしょ、なんて綺麗な理由をつけて。要は、目の届かない辺境で、静かに失敗作をやっててくれ、ってこと」
明るい声だった。明るすぎる声だった。
◇
「笑っちゃうよね」と、フィオナは続けた。
「百年に一人の器、だってさ。器だけ。中身は空っぽ。期待されて、期待に応えられなくて、追い出されて。……あたし、生まれてから今日まで、ずーっと、誰かの期待の、引き算だったんだ」
雨の軒下で、フィオナは膝に顔を半分うずめた。
「だから、もう、期待、いらないの。誰かに何かを期待されるのが、いちばん、こわい。応えられなかった時のこと、考えると……。だからさ、先に言っちゃうんだ。あたし欠陥品でーす、期待しないでねーって。……情けないよね。分かってる」
ジンは、雨を見ていた。何も言わなかった。
軒を打つ音。土の匂い。灰色の空。フィオナの話は、遠い国の、別の家の話のはずだった。それを聞いているジンの横顔から、いつもの落ち着きが、少しだけ抜け落ちていた。
長い、沈黙だった。いつもの「間」より、明らかに長い。何かを、探しているような沈黙だった。
「……俺も、こぼした側だ」
ぽつりと、ジンが言った。
フィオナが、顔を上げた。
「あんたが? まさか。あんた、なんでもできるじゃん」
「昔の話だ。……ずっと昔、俺は、守りたいものを、何一つ守れなかったことがある。大事なものを、全部、一度に失った。俺のせいで」
雨の音だけが、しばらく続いた。
ジンは、それ以上は、話さなかった。前世のことも、名のことも、井戸の底のことも。だが、蓋を、ほんの一枚だけ、開けた。この娘が自分の底を見せたのに、こちらだけ蓋をしたまま、というのは、フェアではない気がした。
「……だから、二度と失わないために、毎晩、剣を振ってる。村に、柵を張ってる。それだけの男だ。なんでもできる、わけじゃない。こぼしたものを、二度とこぼさないように、必死なだけだ」
フィオナは、まじまじと、ジンを見た。
「……そっか」
それから、ふ、と、力の抜けた笑い方をした。今までの、明るすぎる笑いとは、違った。
「あたしたち、こぼれもの二人じゃん」
「そうだな」
「なぁんだ」
◇
雨が、少し、弱まってきた。
「あのさ、ジン」
フィオナは、膝を抱えたまま、上目遣いにジンを見た。
「あんた、あたしに、期待、してる?」
危ない問いだった。彼女が一番恐れている言葉だ。ジンは、少し考えて、正直に答えた。
「していない」
「……だよね」
「期待は、していない。ただ——見込みは、ある、と思ってる」
「……なにが、違うの」
「期待は、勝手にこっちが決めた、お前へのつけだ。応えられなきゃ、お前のせいになる。……見込みは、違う。今のお前が、昨日のお前より、一本多く糸を通せた。それは、事実だ。事実を積んだ先に、何があるか。それを、俺は、見てみたい。応えなくていい。ただ、見てみたい、というだけだ」
フィオナは、ぽかんと口を開けた。
期待、と、見込み。似た言葉のはずだった。だが、その二つの間には、彼女の人生を縛ってきた鎖と、その鎖の外側の、風通しのいい場所ほどの違いがあった。
「……ずるいよ、その言い方」
フィオナの声が、掠れた。
「そんな言われ方したら、あたし、期待に、応えたくなっちゃうじゃん……」
「応えなくていい。積むだけでいい。一日一本ずつ」
「〜〜〜っ」
フィオナは、抱えた膝に、顔を、ぐっと押し付けた。肩が、小さく震えていた。泣いているのを見られたくないらしい。ジンは、気づかないふりで、弱まっていく雨を、眺めていた。
しばらくして、フィオナは、洟をすする音のあとで、いつもの声を作った。
「……今の、あたしは忘れるから。あんたも忘れなさいよ」
「何を?」
「〜〜っ、そういうとこ! そういうとこだぞ、ジン!」
雨が、上がっていく。軒の向こうで、街の音が、少しずつ戻ってきた。
相棒、という言葉が、フィオナの頭の隅をよぎった。
パーティは、三回、追い出された。足手まといだから、危ないから、迷惑だから。理由はいつも、それだった。仲間というのは、いつか自分を勘定から外す側の生き物だと、どこかで決めてかかっていた。
なのに、隣に座るこの少年は、勘定の外から、するりと、隣に入り込んでいた。こぼれもの同士でも、いや、こぼれもの同士だからこそ、埋め合える欠けが、あるのかもしれなかった。
悪くない、とフィオナは思った。




