第二十話 川原の先客
◇
その夜、川原に、先客がいた。
夜更けの薄闇の中、ジンはいつもの素振り場へ下りる坂の途中で、足を止めた。川原の下手、岩の多い一角に、灯りがひとつ。人影がひとつ。
あの、酒場の娘だった。
すすけた外套。焦げた裾。「爆ぜる姫」と笑われていた、あの若い女の冒険者が、誰もいない夜更けの川原で、一人、杖を構えていた。
ジンは坂の上の茂みに腰を下ろし、距離を置いて、見た。声は掛けなかった。誰もいない場所と時刻を選んで、人はそこにいる。選んだ理由ごと、そっとしておくのが礼儀だった。
娘は、詠唱を始めた。
——瞬間、ジンの糸が、震えた。
体に薄く張った強化の糸が、川風に煽られたように、ざわりと揺れたのだ。離れたこの距離で、だ。娘の体の内で、魔力が起き上がる気配がする。起き上がる、という生易しいものではなかった。溜め池の堰が、切れる前の音だった。
火の玉が、杖の先に生まれた。
握り拳ほどの、狙いすました小ささだった。娘は慎重に、慎重に、それを育てて——三拍目で、火の玉がぐらりと膨れた。拳が、頭ほどに。頭が、樽ほどに。娘が慌てて杖を振り、火は川面へ投げられて、水柱と湯気を上げて爆ぜた。
轟音が、谷間に転がっていった。
娘は、しばらく杖を下げて立っていた。それから、誰もいないはずの川原で、妙に明るい独り言を言った。
「……はい、本日一発目。いい爆発でーす」
そしてまた、杖を構え直した。
構え直す前に、娘は必ず、同じ手順を踏んだ。川原を見回して、人がいないことを確かめる。風の向きを、濡らした指で確かめる。火の飛びそうな側から、乾いた流木をどける。——爆発は雑なのに、爆発のための支度だけは、几帳面なほど丁寧だった。人を傷つけないための手順だけを、この娘は独りで、積んできたのだ。
ジンは茂みの中で、少しだけ、目の力を緩めた。
一発目、と言った。つまり、二発目も、三発目もやるのだ。誰もいない川原で、一人で、笑いながら。
ジンは茂みの中で、見続けた。二発目。四拍もった。三発目。二拍で膨れた。四発目——。
四発目の気配は、これまでと、違った。
◇
糸が、震えではなく、警鐘を打った。
膨れ方が、内向きだった。火の玉が外へ育つのではなく、娘の杖の中へ、腕の中へ、逆流するように渦を巻いている。娘自身も気づいたのだろう、杖を離そうとして——離れない。魔力の流れが、杖と手を繋いだまま、固まっている。
考えるより先に、ジンは坂を蹴っていた。
強化の糸を、この二年で初めて、太く、全開に撚った。川原の石を三歩で渡り、棒立ちの娘の襟と腰帯を掴んで、一番近い大岩の陰へ、引き倒すように転がり込む。
背中で、世界が白くなった。
音より先に熱が来て、音より遅れて石の礫が岩を叩いた。湯気と土煙が川原を流れ、耳鳴りの底から、川の音がゆっくり戻ってくる。
「〜〜〜っ、たた……」
腕の中で、娘が身じろぎした。怪我は——ない。外套の焦げが一つ増えただけだ。娘は目を白黒させてジンを見上げ、状況を三拍かけて飲み込み、それから、あの明るさで言った。
「あ、あはは……見られちゃった。えっと、その、今のはですね、芸です。芸。夜の川原を温める仕事っていうか——」
「四発目、注ぎが逆に返ってた」
「——へ?」
「一発目から三発目は、外へ膨れて爆ぜてた。あれは捨て場がある分、まだいい。四発目は内へ返ってた。杖が離れなかっただろう。あのまま抱えていたら、腕を持っていかれてた」
娘の口が、開いたまま、止まった。
「芸です」の続きも、「ごめんなさい」も、「どうせあたしは」も、全部途中で消えて、ただ、まじまじとジンを見た。
「……見えてたの? 注ぎが、返ってたの」
「見えてはいない。……分かった、だけだ」
◇
湯気の晴れた川原で、二人は岩に腰掛けていた。
「フィオナ。……あたしの名前。一応、Eランク。一応、魔法使い」
「ジン。同じく、Eランク」
「知ってる。噂の溝さらいの人でしょ。南の谷の狼の。……あーあ、よりによって有名人に見られちゃったかー」
フィオナは膝を抱えて、けらけらと笑った。笑いながら、身の上を、まるで天気の話のように喋った。
王都の魔法学院に、十二で入った。魔力量だけなら教師より多いと言われた。でも制御が、どうしてもできなかった。詠唱を短くしても、杖を替えても、火が、育ちすぎる。二年で「危険」の札を貼られて、追い出された。冒険者になったけれど、パーティは三度組んで、三度「悪いけど」と言われた。最後のは、前衛の眉を焦がした。
「だからね、一人でやってるの。誰もいないとこで、朝だけ。当てて倒す魔法は無理でも、せめて、狙った場所で爆ぜさせられたら、それで食べていけるかなーって。……ま、ご覧の通り、狙った場所どころか、あわや自分ごとだったんだけど! あはは、ほんと、欠陥品はつらいよ——」
「量を見せてくれ」
「……え?」
「さっきの一発目。あの拳ほどの火。あれに注いでいた量で、もう一度。爆ぜる前に散らしていい」
フィオナは戸惑いながら、杖を構え、小さな火を灯した。三拍目の手前で、自分から川へ散らす。水面が、じゅっ、と広く鳴いた。
ジンは、その広さを見ていた。
拳ほどの火の「余り」だけで、川面のひと帯が湯気を上げた。あれで、余りだ。本体ではなく、こぼれた分だけで、だ。
ジンの全魔力を注いでも、あの湯気の一割も出ない。
「……すごい量だ」
思ったままが、口から出た。
「素晴らしい」
フィオナの笑いが、止まった。
「……いま、なんて言った?」
「素晴らしい、と言った」
「…………」
フィオナは、膝を抱え直して、川のほうを向いてしまった。横顔の耳が、少し赤かった。
嘘でも世辞でもなかった。人並み以下の魔力を、二年かけて糸に撚ってきた身にとって、目の前の湯気は、見たこともない量の水だった。この水量で、細く注ぐことを覚えたら、どこまで届くのか。考えるだけで、百回で止めた朝と同じ場所が、胸の中で疼いた。
「……変なの。危ないとか、下がってとか、もったいないお化けとか、色々言われたけど。素晴らしいは、初めて」
◇
「なあ。あんたのそれは、壊れてるんじゃない」
ジンは、川面の湯気の名残を見ながら、見立てを口にした。
「器がでかくて、注ぎ口が、器に合ってないだけだ。並の器の注ぎ方を、でかい器でやるから、溢れる。学院で習ったのは、並の器の注ぎ方だろう」
「……そう、だけど。でも、それしか、注ぎ方って」
「ある。少なくとも、一つは知ってる。細く、長く、常に——器の底から糸を引くみたいに注ぐやり方だ。俺は器が小さすぎて、そうするしかなかった。あんたは器がでかすぎて、そうするしかない。……理屈は、たぶん、同じだ」
フィオナは、ぽかんとしていた。
「俺は毎晩、ここで素振りをする。百回。あんたが隣で爆ぜると、正直、困る」
「う……ごめんなさい……」
「だから、直すなら、手伝う」
「————は?」
「注ぎ方の稽古だ。派手なことは何もない。糸を引いて、切れて、また引く。それを毎日やるだけの、退屈な稽古だ。一日じゃ変わらない。十日でも、たぶん変わらない。それでもよければ」
フィオナは、まじまじとジンを見た。冗談の気配を探す目で、隅から隅まで見た。見つからなかったらしく、今度は、疑いの目になった。
「……なんで? あたしに稽古つけたって、一銭にもならないよ。危ないだけだよ。みんな、そう言って離れてった」
「もったいないからだ」
ジンは、立ち上がって、剣を取った。素振りの時間だった。
「それだけだ。……来るなら、夜に」
翌晩、川原に、足音が二つあった。




