第十九話 誰も取らない札
◇
グレンツに戻った翌朝、ジンは張り紙の壁の前に立った。
Fランクで受けられる区画は、Gより幾らか広い。荷運びに、店番に、簡単な採取。そして、壁の端——日に焼けて色の褪せていく、あの一角の裾にも、Fで受けられる札が、いくつか交ざっていた。
「南の谷、炭焼き場周辺、狼型の魔物の間引き。目撃数、五から七。報酬、銀貨二枚」
札は、端が黄ばみ始めていた。張り出されて、十日は経っている。銀貨二枚は、Fの間引きにしては破格だ。破格のまま、誰も剥がさない。
「それ、やめときなって言ったろ、坊主」
いつかの冒険者だった。ジンの視線の先を見て、苦笑いしている。
「南の谷は、道が悪い。日帰りできねえ。狼ってのはな、ゴブリンと違って賢いんだ。数もいる。Fの報酬で受ける仕事じゃねえよ。……まあ、だから残ってんだけどな」
「炭焼きの人たちは、どうしてるんですか」
「あん? ……そりゃ、困ってんだろうよ。炭が出なけりゃ、この街の竈も困る。だから報酬も吊り上がってる。誰も行かねえだけで」
誰も行かない。困っている人が、いるのに。
ジンは、札を剥がした。
「お、おい」
「行って、見てきます。手に負えなければ、戻ります」
窓口のミレーヌは、札を受け取ると、少しだけ困った顔をした。それでも、規定の範囲だった。「……日数に余裕を持ってくださいね。それと、無理はしないと、約束してください」
「約束します」
約束、と言った途端、ミレーヌが妙に安心した顔をしたのが、少しおかしかった。
◇
南の谷までは、歩いて一日だった。
炭焼き場は、谷の中腹にあった。炭窯が三つ、小屋が二つ。出てきた炭焼きの親方は、Fの木札を提げた十五の小僧を見て、あからさまに落胆した。
「……ギルドは、お前さん一人かい」
「はい。まず、話を聞かせてください。それから、襲われた場所を全部」
落胆はそのままに、親方は話してくれた。半月前から、狼が出る。夜、窯の火の番をしていると、闇の中に目が並ぶ。炭を運ぶ荷駄が襲われかけた。犬が一匹、やられた。数は、五、六——多い晩は七つの目が数えられた。
ジンは丸一日、谷を歩いた。
親方は「案内をつけようか」と言ったが、断った。人が増えれば匂いが増え、匂いが増えれば狼の帳面に書き込まれる。物見は、一人でやる仕事だ。代わりに、地面に炭で谷の絵図を描かせてもらい、襲われた場所を一つずつ書き込んだ。並べてみれば、狼の狩り場には、はっきりと形があった。
足跡。糞。犬のやられた場所。荷駄が襲われかけた道の地形。狼の寝屋は谷の上手の岩場で、水は決まった沢で飲み、炭焼き場へは風下から下りてくる。賢い、と言われるだけのことはあった。ゴブリンのように餌へ一直線には来ない。火を恐れ、人数を数え、弱い獲物だけを選んでいる。
そして、痩せていた。糞に、獣毛と骨ばかりが混ざっている。谷の鹿は狩り尽くされかけていた。この群れも、東から押し出されてきた口だ。谷の奥にまで、あの風は届いている。
賢い相手には、賢さを逆手に取る。
ジンは親方に頼んで、三日分の段取りを組んだ。一日目の夜、炭焼き場の火を増やし、人の声を絶やさず、荷駄の道に犬の毛と人の匂いのついた古着を吊るした。狼の「危ない」の帳面に、炭焼き場を太字で書き込んでやるのだ。
二日目、逆に、沢への道だけを静かに空けた。喉が渇けば、必ず通る道。その隘路に、猪罠と、杭と、風向きを選んだ待ち伏せ。
三日目の夜明け、渇いた群れが、沢へ下りてきた。
先頭の二匹が罠で足を取られ、群れが乱れた。乱れた群れは、賢さを失う。三匹目が牙を剥いて跳んだのを、半歩外して、後の先の一突き。残りは、頭を失った群れの常で、散り散りに谷の東へ逃げていった。
追わなかった。仕留めたのは三匹。逃げたのは三、四匹。だが渇きと飢えを抱えた群れに、「死ぬ谷」の記憶を背負わせた。狼は賢い。賢いから、二度は来ない。
◇
「三匹って、お前さん……いや、それより、あの吊るし物と火の焚き方は、なんなんだ」
引き上げの朝、炭焼きの親方は、討伐の証の毛皮より、ジンの残した仕掛けのほうに目を丸くしていた。
「続けてください。火は多めに、声は絶やさず、古着は月に一度掛け替えて。それだけで、狼はこの場所を『割に合わない』と覚え続けます。……戻ってきたら、またギルドへ札を」
「あ、ああ……。おい、名前は。小僧、名前」
「ジンです」
「ジン。覚えたぞ。……炭ぁ、持ってけ! 荷の入るだけ!」
炭を土産にギルドへ戻ると、窓口で毛皮と討伐部位を検分したミレーヌが、帳面と、ジンの顔を、二度見比べた。
「……狼型、三体討伐、群れの排除を確認、依頼主の満足度……『大満足、次も指名する』。あの、ジンさん。念のため訊きますけど、お一人で、ですよね?」
「はい」
「三日で」
「段取りに二日、仕留めは、朝のうちに」
ミレーヌは何かを言いかけ、飲み込み、羽根ペンを走らせ、それから居住まいを正した。
「——規定により、Eランクへの昇格です。おめでとうございます」
Fの札が、Eの札に替わった。登録から、二月足らずだった。
背中で、酒場の卓のざわめきが、ふいに調子を変えたのが分かった。「おい、あれだろ、例の」「溝さらいの小僧が、南の谷を」「一人でって、おい」——噂は、酒より速く回る。ジンは聞こえないふりで、新しい木札を荷にしまった。
目立ちたくは、ない。だが、困っている場所の札を剥がし続ければ、遅かれ早かれ、こうなる。目立たない工夫は、しよう。それでも、剥がすのは、やめない。
◇
その晩、酒場の隅で麦酒を一杯だけ頼み、いつものように耳を開いた。
落ち穂は、その夜も落ちていた。東の街道の話。国境の税の話。そして——。
「——おうおう、見ろよ。"爆ぜる姫さま"のお帰りだ」
「今日はどこを吹っ飛ばしてきたんだ? え?」
下卑た笑いが、扉のほうへ投げられた。
入ってきたのは、若い女の冒険者だった。ジンより一つ二つ上か。すすで汚れた外套の裾が、焦げている。今日焦げたのではない。何度も焦げて、何度も繕った跡の上に、新しい焦げが重なっている。
女は笑い声に言い返しもしなかった。かといって、俯きもしなかった。「はいはい、今日も飛ばしてきましたよーだ」と自分から茶化すように手を振って、妙に明るい足取りで隅の卓へ行き、一人で安い芋を頼んだ。
明るさの張り方が、少しだけ、不自然だった。棒での受けが痛い時ほど、痛くない顔で立つ稽古の若い衆と、同じ張り方だった。
「学院を追い出された口だとよ」「魔力だけは化物らしいぜ。制御がまるでなってねえの」「組んだ奴が黒焦げになりかけたって話だ」——笑い話の形をした説明が、勝手に耳に入ってくる。
ジンは、麦酒の面を見たまま、聞いていた。
席を立って笑い声を黙らせることも、隅の卓に声を掛けることも、しなかった。頼まれてもいない助けは、時に、嘲りより重く人を刺す。それくらいは、知っている。
ただ、聞いた話だけを、胸の帳面に書き留めた。
魔力だけは、化物。制御が、まるでなっていない。
——それは、笑う話なのか。
生まれつきの魔力が人並み以下で、糸のように細く張ることしか能のなかった身からすれば、あり余る水を持ちながら器に注げずにいる話は、笑い話ではなく、ただの、もったいない話だった。水が多すぎて注げないなら、注ぎ方が、まだ見つかっていないだけだ。
誰も歩かない道を歩いてきた足は、そういう見つかっていないものの匂いに、いくらか聡くなっていた。




