第十八話 ただいまとおかえり
◇
月が満ちて、欠け始めた朝、ミレーヌが木札を差し替えた。
「はい、ジンさん。今日からFランクです。おめでとうございます」
「……早くないですか」
「早いです。でも規定どおりです。Gの依頼を十五件、全部完了、全部苦情なし、指名が三件。昇格させない理由の欄に、書くことがないんですよ」
新しい木札の焼き印は、Fの一文字。受けられる依頼が少し広がる、それだけの札だ。それでも、板きれの数字が一つ増えるのと同じ手応えが、確かにあった。
「それでですね、ジンさん。十日ほど、村へ戻られるんですよね」
「はい。月に一度は、と決めているので」
「でしたら——」ミレーヌは帳面を繰った。「リンデ村の方角、途中のホルン集落まで、薬種屋さんの荷を届ける依頼が出ています。担ぎ荷ひとつ、Fで受けられます。どうせ歩く道なら、と思いまして」
どうせ歩く道が、銭になる。
「受けます」
「そう言うと思いました」
ミレーヌは初めて、事務の顔の下から、少しだけ素の笑いを覗かせた。
出立の前に、市場で買い物をした。塩をひと袋——村の蓄えに。母には縫い針を三本。リゼには、薬種屋で上等の晒し布をひと巻き。父には、迷って、結局何も買わなかった。父に何かを買うのは、難しい。
最後に、市場の菓子屋の前で、足が止まった。
飴掛けの木の実。焼き菓子。砂糖のかかった揚げ菓子。村には、どれ一つない。
ジンは少し考えて、焼き菓子を、包んでもらった。
帰り道の三日は、行きより短く感じた。荷を届け、廃村を過ぎ、街道を折れて、森を右に見る道に入る。三日目の夕方、坂を上り切ると——朝靄の代わりに夕焼けの底で、村が、あった。
柵。鳴子の縄。竈の煙。大菩提樹。
ひと月ぶんの街の音が、体からすうっと抜けていった。
◇
柵の切れ目をくぐる前に、見つかった。
「あーっ! おにいちゃんだ!」
夕方の稽古帰りらしいリゼが、棒きれを放り出して駆けてきた。ぶつかる勢いのまま抱きつかれ、ジンは半歩だけ下がって受け止めた。ひと月で、少し、重くなった気がした。
「おかえり! おかえりなさい! 怪我は!? してない!? 手、見せて!」
「していない」
「見せて!」
往来のど真ん中で手のひらを検分され、素振りの豆を見つけたリゼが、眉を吊り上げた。
「これ! 治すから、じっとして——」
「豆は、治さなくていい」
「なんで!?」
「これは、怪我じゃない。仕事の分だ」
リゼは頬を膨らませ、それでも豆の上から、意味もなく布を巻いた。三日触っちゃだめ、と言いかけて、素振りができなくなると気づいたのか、「……一晩だけだめ」に負けてくれた。
家の戸口には、竈の煙の匂いと、母がいた。
「ただいま、戻りました」
言った瞬間、母は、ふわりと笑った。あの朝と同じ、全部知っているような顔で。
「おかえりなさい。手を洗って、座りなさいな」
それだけだった。それだけの言葉を言わせるために、ひと月と、三日の道を歩いてきたのだと思った。
夕飯は、いつもの麦の粥に、今夜は川魚がついた。
膳を囲むと、リゼの街の質問が止まらなくなった。壁は本当に石なのか。人は千人いるのか。菓子屋というものは本当にあるのか。ジンが一つ答えるたび、リゼは「千人!」「お菓子だけのお店!」といちいちひっくり返り、母が笑い、父の箸が少しゆっくりになった。父も、聞いている。
「おにいちゃん、次はリゼも行く」
「まだ早い」
「なんで!?」
「グレンツには、手当てのいる子供が多すぎる。リゼの布が、ひと巻きじゃ足りない」
リゼは「それは、こまる」と真剣に悩み始め、話はうやむやになった。
父は黙って食い、ジンの土産の塩の袋を一瞥して、「……いい塩だ」とだけ言った。父への土産は、これでよかったらしい。
◇
翌日から、村での十日が始まった。
村は、ちゃんと回っていた。見回りの当番表は埋まり、鳴子は先週も狐を一匹捕まえ、稽古は婆さまが皆勤だという。
夕方の稽古を、ジンは初日、輪の外から眺めた。号令を掛けているのは、エマだった。「腰! 浮いてる! 転ぶときは棒を離す!」——教えた言葉が、教えた通りの順で、別の声から飛んでいく。若い衆が転がされ、子供が受け身を取り、婆さまが得意げに膝をつく。ジンが口を挟むところは、一つもなかった。
ジンのいないひと月を、村は、持ちこたえるどころか、当たり前に暮らしていた。
それが、何より嬉しかった。そして、ほんの少しだけ、寂しかった。嬉しさと寂しさが同じ場所から生えていることに、ジンは苦笑した。任せられる、と思って出たくせに、いざ任せられていると、こうだ。
一方で、ジンの帰りを待っていたものも、ちゃんとあった。
「ジンが帰ったら訊こう」の山だ。西の柵の杭が浮いてきたが打ち直しの時期はいつか。稽古の棒の払い方で、どうしても腰が浮く者がいる。川上の獣道に、見慣れない糞があった——十日の間、ジンは村を回り、一つずつ潰していった。糞は狸のもので、皆で少し笑った。
村長には、街の話をした。
「——魔物の間引き依頼が、辺境のあちこちで増え続けている。ここ二、三年、ずっとです。うちの森だけの話じゃありません」
村長は、囲炉裏の火を見ながら、長いことうなった。
「……で、どうする」
「蓄えを増やします。今日持ち帰った塩で、ひと冬ぶんの目処が立ちます。次は麦を。それと、避難の道順を、そろそろ皆で決めておきたい。逃げる稽古は、まだしていないので」
「……お前が街で稼いだ銭は、全部それに化けるのか」
「化かすために、稼ぎに出ています」
村長は呆れたような、拝むような顔で、ジンを見た。
「……変わった小僧だよ、まったく」
市場の親方と、同じことを言われた。
◇
十日目の前の晩、大菩提樹の下で、エマを見つけた。
稽古の片づけをしているところだった。ジンは荷の中から、少し潰れた包みを出して、差し出した。
「なにこれ」
「菓子。街の」
エマの手が、止まった。
包みを開くと、砂糖の香りが、夜の空気に、ふわりと散った。焼き菓子が六つ。三日の道で角の欠けた、不格好な六つ。
「……あんた、覚えてたの。あたしが昔言った、あれ」
「行商人と結婚しなくても、食えるようにと思って」
「〜〜〜〜っ、そういうとこよ!」
エマは包みを胸に抱えたまま、怒ったような、笑い出す寸前のような、複雑な顔をしばらくしていた。それから結局、笑った。
「……ま、もらっとく。リゼちゃんと半分こする」
「六つある。半分にしやすい」
「そういうとこ!」
翌朝、夜明け。
ジンは荷を背負い、柵の切れ目に立った。見送りは、もう、出立の朝の当たり前になりつつあった。母の握り飯。父の顎。リゼの膨れっ面と、袖への一撫で。
「行ってくる」
言うと、返ってきた。
「いってらっしゃい」
エマの声と、リゼの声と、母の声が、少しずつずれて重なった。
坂の上で、ジンは今度は、振り返らなかった。振り返らなくても、分かっていたからだ。ひと月経てば、また「ただいま」と言える。言えば、「おかえり」が返ってくる。
前世の男は、最後の出立で「行ってくる」を言えたかどうかすら、思い出せない。言えたとして、返す声は二度と聞けなかった。挨拶とは、続くから挨拶なのだ。一度きりなら、それは別れという。
行ってくる、と、いってらっしゃい。ただいま、と、おかえり。
たった四つの挨拶が回り続けること——守りたいものの正体は、煎じ詰めれば、それだけなのだった。
だから、稼ぐ。だから、積む。来月も、来年も、十年先も回り続けるように。
朝の街道を、ジンは東へ歩き出した。荷の中の晒し布の残りが、歩くたび、軽い音を立てた。




