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第十八話 ただいまとおかえり


月が満ちて、欠け始めた朝、ミレーヌが木札を差し替えた。


「はい、ジンさん。今日からFランクです。おめでとうございます」


「……早くないですか」


「早いです。でも規定どおりです。Gの依頼を十五件、全部完了、全部苦情なし、指名が三件。昇格させない理由の欄に、書くことがないんですよ」


新しい木札の焼き印は、Fの一文字。受けられる依頼が少し広がる、それだけの札だ。それでも、板きれの数字が一つ増えるのと同じ手応えが、確かにあった。


「それでですね、ジンさん。十日ほど、村へ戻られるんですよね」


「はい。月に一度は、と決めているので」


「でしたら——」ミレーヌは帳面を繰った。「リンデ村の方角、途中のホルン集落まで、薬種屋さんの荷を届ける依頼が出ています。担ぎ荷ひとつ、Fで受けられます。どうせ歩く道なら、と思いまして」


どうせ歩く道が、銭になる。


「受けます」


「そう言うと思いました」


ミレーヌは初めて、事務の顔の下から、少しだけ素の笑いを覗かせた。


出立の前に、市場で買い物をした。塩をひと袋——村の蓄えに。母には縫い針を三本。リゼには、薬種屋で上等の晒し布をひと巻き。父には、迷って、結局何も買わなかった。父に何かを買うのは、難しい。


最後に、市場の菓子屋の前で、足が止まった。


飴掛けの木の実。焼き菓子。砂糖のかかった揚げ菓子。村には、どれ一つない。


ジンは少し考えて、焼き菓子を、包んでもらった。


帰り道の三日は、行きより短く感じた。荷を届け、廃村を過ぎ、街道を折れて、森を右に見る道に入る。三日目の夕方、坂を上り切ると——朝靄の代わりに夕焼けの底で、村が、あった。


柵。鳴子の縄。竈の煙。大菩提樹。


ひと月ぶんの街の音が、体からすうっと抜けていった。



柵の切れ目をくぐる前に、見つかった。


「あーっ! おにいちゃんだ!」


夕方の稽古帰りらしいリゼが、棒きれを放り出して駆けてきた。ぶつかる勢いのまま抱きつかれ、ジンは半歩だけ下がって受け止めた。ひと月で、少し、重くなった気がした。


「おかえり! おかえりなさい! 怪我は!? してない!? 手、見せて!」


「していない」


「見せて!」


往来のど真ん中で手のひらを検分され、素振りの豆を見つけたリゼが、眉を吊り上げた。


「これ! 治すから、じっとして——」


「豆は、治さなくていい」


「なんで!?」


「これは、怪我じゃない。仕事の分だ」


リゼは頬を膨らませ、それでも豆の上から、意味もなく布を巻いた。三日触っちゃだめ、と言いかけて、素振りができなくなると気づいたのか、「……一晩だけだめ」に負けてくれた。


家の戸口には、竈の煙の匂いと、母がいた。


「ただいま、戻りました」


言った瞬間、母は、ふわりと笑った。あの朝と同じ、全部知っているような顔で。


「おかえりなさい。手を洗って、座りなさいな」


それだけだった。それだけの言葉を言わせるために、ひと月と、三日の道を歩いてきたのだと思った。


夕飯は、いつもの麦の粥に、今夜は川魚がついた。


膳を囲むと、リゼの街の質問が止まらなくなった。壁は本当に石なのか。人は千人いるのか。菓子屋というものは本当にあるのか。ジンが一つ答えるたび、リゼは「千人!」「お菓子だけのお店!」といちいちひっくり返り、母が笑い、父の箸が少しゆっくりになった。父も、聞いている。


「おにいちゃん、次はリゼも行く」


「まだ早い」


「なんで!?」


「グレンツには、手当てのいる子供が多すぎる。リゼの布が、ひと巻きじゃ足りない」


リゼは「それは、こまる」と真剣に悩み始め、話はうやむやになった。


父は黙って食い、ジンの土産の塩の袋を一瞥して、「……いい塩だ」とだけ言った。父への土産は、これでよかったらしい。



翌日から、村での十日が始まった。


村は、ちゃんと回っていた。見回りの当番表は埋まり、鳴子は先週も狐を一匹捕まえ、稽古は婆さまが皆勤だという。


夕方の稽古を、ジンは初日、輪の外から眺めた。号令を掛けているのは、エマだった。「腰! 浮いてる! 転ぶときは棒を離す!」——教えた言葉が、教えた通りの順で、別の声から飛んでいく。若い衆が転がされ、子供が受け身を取り、婆さまが得意げに膝をつく。ジンが口を挟むところは、一つもなかった。


ジンのいないひと月を、村は、持ちこたえるどころか、当たり前に暮らしていた。


それが、何より嬉しかった。そして、ほんの少しだけ、寂しかった。嬉しさと寂しさが同じ場所から生えていることに、ジンは苦笑した。任せられる、と思って出たくせに、いざ任せられていると、こうだ。


一方で、ジンの帰りを待っていたものも、ちゃんとあった。


「ジンが帰ったら訊こう」の山だ。西の柵の杭が浮いてきたが打ち直しの時期はいつか。稽古の棒の払い方で、どうしても腰が浮く者がいる。川上の獣道に、見慣れない糞があった——十日の間、ジンは村を回り、一つずつ潰していった。糞は狸のもので、皆で少し笑った。


村長には、街の話をした。


「——魔物の間引き依頼が、辺境のあちこちで増え続けている。ここ二、三年、ずっとです。うちの森だけの話じゃありません」


村長は、囲炉裏の火を見ながら、長いことうなった。


「……で、どうする」


「蓄えを増やします。今日持ち帰った塩で、ひと冬ぶんの目処が立ちます。次は麦を。それと、避難の道順を、そろそろ皆で決めておきたい。逃げる稽古は、まだしていないので」


「……お前が街で稼いだ銭は、全部それに化けるのか」


「化かすために、稼ぎに出ています」


村長は呆れたような、拝むような顔で、ジンを見た。


「……変わった小僧だよ、まったく」


市場の親方と、同じことを言われた。



十日目の前の晩、大菩提樹の下で、エマを見つけた。


稽古の片づけをしているところだった。ジンは荷の中から、少し潰れた包みを出して、差し出した。


「なにこれ」


「菓子。街の」


エマの手が、止まった。


包みを開くと、砂糖の香りが、夜の空気に、ふわりと散った。焼き菓子が六つ。三日の道で角の欠けた、不格好な六つ。


「……あんた、覚えてたの。あたしが昔言った、あれ」


「行商人と結婚しなくても、食えるようにと思って」


「〜〜〜〜っ、そういうとこよ!」


エマは包みを胸に抱えたまま、怒ったような、笑い出す寸前のような、複雑な顔をしばらくしていた。それから結局、笑った。


「……ま、もらっとく。リゼちゃんと半分こする」


「六つある。半分にしやすい」


「そういうとこ!」


翌朝、夜明け。


ジンは荷を背負い、柵の切れ目に立った。見送りは、もう、出立の朝の当たり前になりつつあった。母の握り飯。父の顎。リゼの膨れっ面と、袖への一撫で。


「行ってくる」


言うと、返ってきた。


「いってらっしゃい」


エマの声と、リゼの声と、母の声が、少しずつずれて重なった。


坂の上で、ジンは今度は、振り返らなかった。振り返らなくても、分かっていたからだ。ひと月経てば、また「ただいま」と言える。言えば、「おかえり」が返ってくる。


前世の男は、最後の出立で「行ってくる」を言えたかどうかすら、思い出せない。言えたとして、返す声は二度と聞けなかった。挨拶とは、続くから挨拶なのだ。一度きりなら、それは別れという。


行ってくる、と、いってらっしゃい。ただいま、と、おかえり。


たった四つの挨拶が回り続けること——守りたいものの正体は、煎じ詰めれば、それだけなのだった。


だから、稼ぐ。だから、積む。来月も、来年も、十年先も回り続けるように。


朝の街道を、ジンは東へ歩き出した。荷の中の晒し布の残りが、歩くたび、軽い音を立てた。

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