第十七話 溝さらいの流儀
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市場の溝は、思っていたより、ひどかった。
野菜屑と泥と魚の骨が何年ぶんも折り重なって、腐った水が淀んでいる。雨が降るたび溢れて、市場の連中が困り果てて、それでも誰もやりたがらず、銅貨十五枚でギルドに回ってきた仕事だった。
ジンは袖をまくり、端から始めた。
溝さらいなら、知っている。物心ついた頃から、村の水路当番をやってきた。泥を上げ、屑を分け、流れを確かめ、また泥を上げる。水は、流れの尻から順に浚うと二度手間にならない。腰は、入れすぎると一刻ともたない。強化の糸を薄く張った体は、昼を過ぎても動きが鈍らなかった。
夕方には、溝の水は音を立てて流れていた。
そこで終わり——のはずだった。依頼書に書いてあるのは「市場北側の溝の清掃」で、それは終わった。
だが、浚いながら、ジンは見てしまっていた。
溝が詰まる理由を、だ。魚屋の裏の升に格子がなく、屑が流れ込み放題になっている。溝の途中の一か所だけ、石畳が沈んで、水が溜まる勾配になっている。ここを放っておけば、この溝はひと月で元に戻る。
見てしまったものは、仕方がなかった。
ジンは市場の空き箱から板きれをもらい、鉈で格子に組んで、魚屋の裏の升にはめた。沈んだ石畳は剥がして、下に砂利を足して、勾配を直した。ついでに、様子を見に来た魚屋のかみさんに、一言だけ添えた。
「屑は、升に入れる前に籠で一度受けると、詰まりません」
日が暮れる頃、市場の親方が検分に来て、流れる溝と、真新しい格子と、直った石畳を順に眺め、それから泥だらけの十五の小僧を眺めた。
「……おい。頼んだのは、掃除だけだぞ」
「掃除は、しました。これは、掃除を長持ちさせる分です」
「銭は出ねえぞ、そんなもんに」
「頂いた分の仕事に、含めてあります」
親方は、太い眉を寄せて、しばらくジンを見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……変わった小僧だ」
◇
それからの日々は、地味な依頼を、地味に積む日々になった。
薬草採り。指定の三種を、指定の倍の量、根を傷めない摘み方で納めた。摘みながら群生の場所を頭の絵図に書き足していったから、二度目の依頼は半日で終わった。
犬探し。逃げた飼い犬の足跡を、市場の泥と乾いた土の上で三筋たどって、半日で見つけた。雪の上の鹿より、よほど易しかった。ついでに、犬が抜け出した塀の隙間を、飼い主に教えて帰った。
塀の修繕。崩れかけた石を積み直す依頼で、頼まれていない控えの杭を裏に打った。次に崩れる時は、杭が先に教えてくれる。
どの依頼にも、書かれていない余りがついた。報酬は、一枚も増えなかった。それでいい、とジンは思っていた。溝も、塀も、犬の飼い主も、一度きりの相手ではない。この街で仕事を続けるなら、全部、また会う相手だ。
村で覚えたことと、何も変わらなかった。柵は直すより、傾く前に見ておくほうが安い。信用は、稼ぐものではなく、日々の仕事の余りに、勝手に溜まっていくものだ。
暮らしの形も、決まってきた。
夜、城壁の外の川原で素振り百回。城壁の中に、剣を振れる場所はなかったが、川原には誰もいない。月明かりの下で剣を振っていると、村の大菩提樹の下と、たいして変わらない気がした。板きれの丸の代わりに、宿の壁の漆喰に、爪で小さな印をつけた。
振ったあとは、寝る前に宿の周りを一回りした。守る柵はない。それでも、回ると、眠れた。回らないと、眠れなかった。理屈は要らなかった。これは、そういうものなのだ。
銭は、少しずつ貯まった。少しずつ、が正直なところだった。溝さらいと薬草採りの銅貨から、宿代と飯代を引くと、手元に残るのは日に数枚。武具にも備蓄にも、まるで届かない。焦りが顔を出すたび、ジンは板きれの数字を思い出した。五十一回目の朝、あの一回は、笑ってしまうほど小さかった。それでも、あの一回から、すべてが始まった。銭も、同じはずだ。
月が半分欠けた。満ちて、また欠け始めたら、一度村へ帰る。指折り数えるつもりはなかったのに、気づけば、宿の天井を見ながら数えていた。
◇
「ジンさん。ええと……こちらで七件目、ですね。完了確認、っと」
ギルドの窓口で、ミレーヌが帳面をめくった。
「溝さらい、完了。薬草納品、完了、規定量超過。犬の捜索、完了、即日。塀の修繕、完了……あの、ジンさん」
「はい」
「依頼主さんから、苦情が、一件もないんですよ」
「……それは、良くないことですか」
「良いことです。良いことなんですけど」
ミレーヌは羽根ペンの先で、こめかみの横を掻いた。
「Gランクの依頼って、その、依頼主さんも冒険者側も、お互い雑になりがちで。仕上がりが違うとか、態度が悪いとか、細かい苦情が普通は付き物なんです。七件続けてゼロは……ちょっと、珍しいなって」
「そうですか」
「そうですよ。……はい、報酬です。お確かめください」
窓口を離れようとしたところで、市場の親方と、ばったり行き合った。親方はジンを見つけると、大股で寄ってきた。
「おう、小僧。探したぞ。今度は市場の南側の溝と、ついでに倉の雨樋をやってほしいんだがよ、ギルドを通すと手数料を取られるだろ。直接、倍の銭で——」
「ありがたい話です。ですが、ギルドを通してください」
「あん? 損だぞ、お前」
「俺は、ギルドの帳面に仕事を積みに来ています。銭は、その次です」
親方は目を丸くし、それから、呆れたように笑って、受付へ歩いていった。「南側の溝の依頼だ。指名は……ええと、あの変な小僧に」——指名、という言葉に、ミレーヌの羽根ペンが、また一瞬止まったのが見えた。
Gランクの、登録ひと月足らずの新入りに、指名。帳面のどこに書けばいいのか迷うようなできる事なのだろう。ミレーヌは結局、備考の欄に小さく何かを書き込んで、それから何事もなかったように、次の客を呼んだ。
帳面に、何と書かれたのかは、分からない。分からないが、悪いことは書かれていない気がした。
◇
夜、ジンは初めて、ギルドの酒場の隅に座った。
安い麦酒を一杯だけ頼み、ほとんど口をつけず、耳だけを開いた。酒場は、情報の落ち穂拾いの場所だ。銭を払って聞けば警戒される話も、酒の声の大きさなら、勝手に落ちてくる。
落ちてきたのは、思ったより、重い話だった。
「——だからよ、東の街道の間引き依頼、また増えてんだろ。割に合わねえっての」
「南の谷のほうもだとよ。炭焼きの連中が、狼どころじゃねえもんを見たって」
「今年は多いなあ、そういう話」
「今年は、じゃねえよ。ここ二、三年、ずっと増えてら。古株に聞いてみな。昔は辺境の間引きなんて、年に数えるほどだったとよ」
「……大魔境の機嫌でも悪いのかね」
「知らねえよ。機嫌の悪さで飯が食えるかっての」
笑い声で話は流れ、卓は次の噂に移っていった。国境の税がどうの、ヴェルガの兵の動きがどうのと、遠い話が続いた。
ジンは、冷めた麦酒の面を見ていた。
騒がしいのは、リンデの森だけでは、なかった。
東の街道。南の谷。ここ二、三年、ずっと。ダン爺さんの独り言は、一つの村の話ではなく、辺境全部に、同じ向きで吹いている風の話だったのだ。
風の出どころは、東。人が大魔境と呼ぶ、深い森の奥。
「……爺さん。思ったより、大きい話かもしれない」
冷めた一杯を置いて、ジンは酒場を出た。
夜のグレンツの空に、星が出ていた。あの星の下の三日先に、村がある。柵と鳴子と、稽古の掛け声の村が。
積むのだ。金も、情報も、力も。この風の正体が分かる高さまで、一段ずつ。




