第十六話 街道都市グレンツ
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道は、三日分の長さをしていた。
初日は、勝手を知った道だった。森を左に見て、街道へ合流するまでの半日。そこから先は、ジンの知らない世界が一歩ずつ始まった。
街道は、思ったより賑やかで、思ったより寂しかった。荷馬車の列とすれ違うかと思えば、半日誰にも会わない。行商人は皆、連れを組んで歩いていた。一人歩きの旅人を、すれ違いざまに値踏みする目があった。ジンも同じように値踏みされ、十五の小僧と見て取ると、目は興味を失って離れていった。
夜は、街道脇の窪地で野営した。
火を熾し、川の水を革袋に汲む。指先の着火と、浄水の生活魔法。村では竈と井戸があるから、誰も本気で使わない魔法だ。だが野営では、これが飯と腹下しの分かれ目になる。乾いた薪のない晩に濡れ枝へ火を入れる着火。得体の知れない水を飲める水に変える浄水。——旅では、派手な魔法より、この地味な二つが命を守る。
覚えておくことにした。磨く値打ちのある道具は、たいてい、誰も磨いていない道具だ。
二日目の昼、廃村を通った。
柵は倒れ、屋根は落ち、井戸は埋もれて、畑だったはずの土地を夏草が呑んでいた。街道を行く人々は、目もくれずに通り過ぎていく。よくある景色だ、という速さで。
「五年前だとよ」と、休憩で一緒になった行商の爺さんが教えてくれた。「魔物にやられてな。生き残りは、街へ散った。……辺境じゃあ、珍しくもねえ話さ」
珍しくもない。
ジンは、倒れた柵の前でしばらく立っていた。この村にも、鳴子はなかったのだろう。見回りも、稽古も、なかったのだろう。あったのは、うちの村と同じ、いつも通りの毎日だけで——それは、守らなければ、こういう形で終わる。
夏草の廃村を背に、ジンは足を速めた。
◇
三日目の夕方、丘を越えると、グレンツが見えた。
石の壁が、町をぐるりと囲んでいた。壁の内に屋根が数え切れないほどひしめき、その間から塔が突き出し、門へ続く街道には、荷馬車と人の列ができている。
リンデ村が、丸ごと十も二十も入りそうだった。
門をくぐると、音が押し寄せてきた。呼び込みの声。荷車の車輪。金物屋の槌。値切る声、笑う声、怒鳴る声。人、人、人。すれ違う人の数が、たぶん半日で、村の全員より多い。
ジンは人波に揉まれながら、胸の奥が二つに割れているのを感じていた。
十五の目は、素直に圧倒されていた。石壁の高さに、店先に並ぶ剣の数に、湯気を上げる屋台の串肉に。
古い記憶の目は、別のものを見ていた。壁の石積みは古いが、修繕は行き届いている。門番は四人、槍の持ち方に緩みがない。大通りは荷車が二台すれ違える幅で、火事の際の延焼止めも兼ねている——町を、守りやすさで眺めてしまう。人混みの中でそれをやっている自分に気づいて、ジンは小さく息を吐いた。
癖は、どこへ行っても、ついてくる。
宿は、門の近くの安宿に決めた。相部屋の藁の寝台で、一晩、銅貨三枚。窓のない部屋で耳を澄ましても、聞こえるのは知らない誰かのいびきと、知らない街の夜の音ばかりだった。風の音も、梁のきしみも、リゼの寝息もない。見回るべき柵もない。
ないのに、体は夜半に二度、目を覚ました。確かめる場所のない耳が、行き場をなくして、闇の中で開いていた。
村を出て三日で、ジンは一つ知った。あの見回りは、村のためだけの仕事ではなかったのだ。
冒険者ギルドは、大通りの突き当たりにあった。石造りの二階建てで、剣と秤を組んだ看板が下がっている。扉の前で、ジンは一度だけ、荷の紐を締め直した。
金、情報、力。ここが、その入り口だ。
◇
ギルドの中は、酒場と役所を混ぜたような場所だった。
昼酒を飲む荒くれの卓。壁一面の張り紙。武器を背負ったまま行き交う男女。奥に並ぶ受付の窓口。空気に、酒と革と、わずかな血の匂いが混ざっている。
新入りを見る目が、いくつか、ちらりと飛んできて、十五の小僧と見て取ると、興味を失って戻っていった。街道と、同じ目だった。
「ご用件をどうぞ」
受付の窓口で迎えたのは、若い女の職員だった。胸元の名札に、ミレーヌ、とある。丁寧な、しかしどこか、同じ言葉を今日百回言った者の声だった。
「冒険者の登録を、お願いします」
「登録ですね。かしこまりました。……初めてのご登録ですか? では、こちらの帳面にお名前と、出身と、歳を」
ジン。リンデ村。十五。
書き終えた帳面を覗いて、ミレーヌの羽根ペンが、一瞬だけ止まった。
「リンデ村……オストマルクの、辺境の方ですね。三日かけていらしたんですか。それはそれは」
社交の言葉の底に、微かな驚きが敷いてあった。辺境から登録に来る者は、珍しいらしい。
「得意なことの欄には、何と?」
「……見回り、と」
「…………見回り」
ミレーヌは羽根ペンを持ったまま、二度、瞬きをした。剣、と書く者と、魔法、と書く者を百人ずつ見てきた顔だった。それでも職員の礼儀は崩さず、「見回り」と、そのまま几帳面な字で書き入れた。
「登録料を頂いて……はい。では、これがあなたの認め札です」
木の札だった。焼き印で、ギルドの紋と、G、の一文字。
「Gランクから始まります。依頼をこなして信用を積めば、ランクが上がります。ランクが上がれば、受けられる依頼が増えます。——それから、これは決まりごとではなくお願いですが」
ミレーヌは、少しだけ声の調子を落とした。
「受けた依頼は、できる範囲のものにしてください。達成できなかった依頼は、記録に残ります。違約金も出ます。……皆さん最初は張り切って、身の丈より大きい依頼を受けて、記録を汚すんです。ギルド全体で見ても、依頼の三割は、達成されずに終わるんですよ」
三割。
ジンは、木札を受け取りながら、その数字を胸に留めた。受けた仕事の三割が、果たされない世界。ここでは、約束は、破られる勘定で回っている。
「……受けた依頼は、果たします」
「はい、その意気です」
ミレーヌは、百回目の相槌の顔で、にこりと笑った。
◇
張り紙の壁は、仕事の海だった。
Gランクの区画には、地味な紙が並んでいた。市場の溝さらい。薬草採り。荷運び。犬探し。塀の修繕。剣も魔法も要らない、街の雑用の吹き溜まりだ。
その隣、ランクの高い区画の端に、日に焼けて色の褪せた張り紙が、何枚も重なっている一角があった。
「辺境方面、隊商護衛、急募」。「オストマルク領、街道の魔物間引き」。「辺境の村への薬剤輸送、護衛求む」——報酬の数字は、周りの依頼より明らかに高い。高いまま、紙だけが古くなっている。
「やめときな、坊主」
隣で張り紙を眺めていた冒険者が、ジンの視線に気づいて、笑った。
「辺境往きはな、割に合わねえんだ。道は長え、魔物は出る、実入りの割に命がいくつあっても足りねえ。……近頃はことに、あっちの森が物騒だって話でな。まともな奴は受けねえよ」
そう言って、男は街中の楽な依頼を剥がして、行ってしまった。
ジンは、色褪せた張り紙の前に、一人残った。
割に合わない、と誰もが受けない依頼の束。その「辺境」に、村がある。エマがいて、リゼがいて、父と母がいる。皆が受けない道の先を、この街は、報酬の数字だけ吊り上げて、放ってある。
——いずれ、ここの紙は、全部俺が剥がす。
だが、今日ではない。Gランクの木札に、辺境の護衛は受けられない。身の丈より大きい依頼は受けない。受けた依頼は、必ず果たす。積むのだ。素振りと同じ、一回ずつ。
ジンはGランクの区画に戻り、一番誰も取らなそうな一枚を、剥がした。
市場の溝さらい。報酬、銅貨十五枚。
冒険者ジンの、最初の仕事だった。




