第十五話 行ってくる
◇
それからの一年は、早かった。
秋、刈り入れの合間に、大菩提樹の下で稽古が始まった。言い出したのは、またも粉屋のおじさんだった。「柵の次は、俺らの体だろうよ」
ジンは、教えることを二つに分けた。
一つは、逃げるための技。転び方、逃げ方、棒での払い方、そして鳴子まで走る足の運び。倒すためではない。時を稼ぐためだ。時を稼げば、人が集まる。
もう一つは、集まった人間が何をするか。こちらは、鍬を握れる男たちに教えた。
「一人で前に出ないでください。三人で一匹。……それだけ守れば、勝てます」
正面に立つ者は、退かない。ただ相手の目を引きつけるだけでいい。横に回る者は、相手が正面を向いた、その半呼吸を待つ。後ろの一人は、逃げ道を塞ぐ。それだけの、単純な手順だった。
単純だからこそ、体に入れるのに時がかかった。誰かが先に飛び出す。正面が下がる。横が早すぎる。そのたびに、ジンは同じことを繰り返した。
「もう一度」
強くなってもらう必要は、なかった。一人で勝てるようになってもらう必要も、ない。三人が、決めた通りに動ければいい。それだけで、鍬を持った村の男は、森から出てきた一匹に勝てる。
冬、見回りが当番制になった。夜の道をジン一人が歩くのを見かねて、男たちが「順繰りにしようや」と言い出したのだ。ジンは道順と、見るべき場所を教えた。傾いだ杭の癖、風の日に鳴る木、犬の声の聞き分け。教えるたび、自分の目が村の目に写しとられていくのが分かった。
春、逃げるための稽古は、女子供にも広がった。婆さままで棒を握って、腰を抜かして大笑いになった。エマは筋がよく、逃げる技だけでは飽き足らず、若い衆の輪に混じって二人まとめて転がし、若い衆のほうが稽古に来なくなりかけた。
稽古のたび、ジンが繰り返す言葉は一つだった。
「勝たなくていいんです。転んで、立って、走れれば、それで勝ちです」
倒れないこと。逃げ切ること。鳴子まで届くこと。村人ひとりの十呼吸が、村全体の百呼吸になる。稼いだ時に、三人が集まる。集まった三人が、決めた通りに動く。
それ以上のことは、誰にも求めなかった。物足りなそうな顔をする若い衆もいたが、婆さまが転び方ひとつで得意げになるたび、稽古の輪は少しずつ太くなった。
夏が来て、ジンは十五になった。
素振りの数は、二年前から変わらない。百回で止め、あとは森で覚える——その形のまま、積み重なった板きれだけが、納屋の壁に立てかけるほどに増えていた。強化の糸は、もう体の一部だった。柵は村を囲み、鳴子は風の日にだけ鳴り、見回りの当番表は村長の家の壁に貼られ、稽古の掛け声は夕方の村の音になった。
二年前、燃える納屋の前で立ち尽くしていた村は、もうどこにもなかった。
◇
その夏の夜、見回りの当番を粉屋のおじさんに任せて、ジンは大菩提樹の下で、一人、考えていた。
足りないものが、三つある。
一つ、金だ。柵の杭も、鳴子の縄も、稽古の棒も、タダではない。皆の手弁当と、村のなけなしの蓄えで回してきたが、続かない。それに、いずれ武具がいる。ジンの直剣は刃こぼれを研ぎ減らして、もう薄い。備蓄の麦と塩も、まるで足りない。
二つ、情報だ。あの絵図の主は、誰なのか。二年経っても、答えの欠片も村には届かない。魔物が年々騒がしくなっているのは、なぜか。ダン爺さんの独り言の先を、確かめられる者がいない。外の世界で何が動いているのか、この村は何も知らないまま、ただ座っている。知らないことは、備えられない。
三つ、力だ。素振り三百回は、素振り三百回でしかない。ゴブリンの群れまでは段取りで勝てた。だが、あの絵図を描いた連中が本気で来たら。武勇伝に出てくるオーガだのワイバーンだのが森を下りてきたら。今の自分に足りないものを、正確に測れる場所がいる。
三つとも、村の中にはない。
三つとも、グレンツにはある。
冒険者ギルド。金になる依頼と、外の情報の集まる場所。徒歩三日の、街道都市。
村を出て強くなりたいのではない。村を守るために、村の外のものが要る。それだけの話だった。それだけの話に、二年かかった。二年前に同じことを考えても、出られなかった。留守の村が、守れなかったからだ。
ジンは、夕方の稽古の風景を思い出した。棒を払うエマ。転び方を教わる子供ら。当番表の前で言い合う男たち。鳴子が鳴ってから人が立つまでの、あの短さ。
二年前、この村を守れるのは、ジン一人だった。一人で守れる村は、そのジンが倒れれば、終わる村だった。今は違う。柵が受け、鳴子が報せ、逃げ足が時を稼ぎ、集まった三人が一匹を止め、当番の目が夜を回す。ジンがいない三日を、この村は、もう持ちこたえられる。
——今なら、任せられる。
初めて、そう思えた。この二年、村に教えてきたすべては、気づけば、この一言のためにあった。
◇
家族に話したのは、翌る日の夕飯のあとだった。
「グレンツへ行きます。冒険者の登録をして……月に一度は、必ず戻ります。金と、外の話を、村に入れたいんです」
父は、椀を置いて、しばらく黙っていた。それから一言だけ訊いた。
「……いつだ」
「三日後の、夜明けに」
「そうか」
それきりだった。母は「あらあら」と言い、それから当たり前のように、旅の支度の算段を始めた。着替えは何枚、雨具はどうする、と。反対の言葉は、二人とも、一つも口にしなかった。訊かず、止めず、支度だけをする。この家は、ずっとそうだった。
リゼだけが、膨れた。
「やだ」
真正面から、膨れた。三日間、口をきいてくれなかった。それでいて出立の前の晩、ジンの荷の一番上に、小さな包みがねじ込まれていた。布きれと、貝殻の軟膏。お手当て屋の、店の品だった。
「……怪我したら、ちゃんと自分で巻くこと! 帰ってきたら、リゼが巻き直すんだから!」
膨れっ面のまま早口にそれだけ言って、リゼは布団をかぶってしまった。
出立の朝は、まだ星の残る時刻だった。
土間には、母が立っていた。竈にはもう火が入っていて、母は経木の包みを、ジンの手に載せた。
温かかった。握り飯だった。
——不意に、遠い朝が重なった。
遠い昔、別の生の出立の朝。同じように握り飯を持たせてくれた、小さな手。次は祭りの頃に、と笑った声。深く頭を下げた、老いた背中。あの朝の男は、二度と、あの家に帰らなかった。
ジンは、包みを両手で受け取った。
「……行ってきます。必ず、戻ります」
必ず、に、力がこもった。母は何も知らないはずなのに、まるで全部知っているような顔で、ふわりと笑った。
「おかえりを、言わせてちょうだいね」
父は、戸口の外にいた。薪を割るでもなく、ただ立っていた。ジンが頭を下げると、父は一つだけ、顎を引いた。
「……道は、端を歩け」
それが、父の餞別だった。
◇
村外れの道に、朝靄が薄く流れていた。
背には、あの夜の直剣。荷の底には、あの絵図。腰には、村長が餞別だと押しつけてきた、いくらかの銭。
柵の切れ目を抜けたところで、待ち伏せがいた。
「おっそい。夜明けって言ったら、もっと早く出なさいよ」
エマだった。籠も桶も持たず、ただ待つためだけに、そこに立っていた。
「……見送りか」
「見張りよ。あんたが黙って荷物増やして、そのまま帰ってこない気がして」
「帰る。月に一度は」
「知ってる」
エマは腕を組んで、それから、ふいと視線を村のほうへ流した。
「村のことは、心配しないでいいから。見回りも、稽古も、ちゃんと回す。あたし、若い衆より強いし」
「知ってる」
「……よろしい」
短い沈黙のあと、エマは組んでいた腕をほどいて、いつもの声で、いつものように言った。
「ちゃんと帰ってきなさいよ」
「ああ」
「約束よ。あんた、約束だけは破らないもんね」
ジンは頷いて、歩き出した。
朝靄の道を、東へ。
道の途中、森のよく見える丘の下を通る。ジンは足を止めず、ただ丘の上へ、小さく頭を下げた。
爺さん、行ってくる。あんたの歩いた森は、もう、村のみんなで見ている。だから少しの間、外を見てくる。あんたの言った「騒がしい森」の正体も、いつか、確かめてくる。
丘は、朝靄の中で静かだった。
グレンツまで、徒歩で三日。振り返らないつもりだったが、坂の上で一度だけ、足が勝手に止まった。
振り返ると、朝靄の底に、村があった。
家々の屋根。囲む柵。細く立ちのぼり始めた、竈の煙。そのすべての真ん中に、大菩提樹が、朝日を受けて立っていた。二年前も、百年前も、きっと明日も、同じ場所に立っている木だった。
あの木陰に、守りたいものが、全部ある。
だから、行く。
「——行ってくる」
誰にともなく言って、ジンは坂の向こうへ、歩き出した。




