第十四話 よく効く手
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夏の盛りの村は、朝から賑やかだった。
麦の刈り入れが近づき、その前にと、男たちは納屋の修理だの荷車の手入れだのに精を出す。子供らは川で真っ黒になって遊び、女たちは畑と台所を行き来する。忙しさまで、いつも通りの形をした季節だった。
そして近頃のリンデ村には、小さな名物が一つ、増えていた。
「はい、じっとしててね。……できた!」
大菩提樹の木陰で、リゼが村の子供の膝小僧に、布を巻き終えたところだった。転んで擦りむいた洟垂れ小僧は、巻きたての布を勲章みたいに眺めて、また川へ駆けていく。
リゼの「お手当て屋」だった。
始まりは、薬草に詳しい婆さまの手伝いだ。去年の襲撃のあと、怪我人の世話をする婆さまの後ろを、リゼがちょろちょろついて回った。婆さまは面白がって、薬草の名前だの、軟膏の練り方だの、布の巻き方だのを教えた。リゼは覚えた。子供の遊び覚えと侮れないほど、よく覚えた。
今では、村の子供の擦り傷は、だいたいリゼのところへ来る。婆さまの見よう見まねで軟膏を塗り、布を巻き、「三日触っちゃだめ」と一人前の顔で言う。婆さまは「あたしゃもう、子供の客を全部取られたよ」と笑っている。
道具まで、ひと揃い持っている。母のお古の布袋を肩から提げ、中には巻いた布きれと、貝殻に詰めた軟膏と、薬草の干したのが、几帳面に仕分けてある。中身を並べて数えるのが、夜の日課らしい。兄が板きれに丸を書くのと、妹が布袋の中身を数えるのと、母は両方を、同じ顔で眺めている。
その夕方、ジンも客になった。
柵の杭を削っていて、鉈の刃が滑った。左の手のひらに、浅くない一筋。血を見たリゼの目の色が、変わった。
「おにいちゃん、お手当てするからじっとして!」
「……大した傷じゃない」
「じっとして!」
有無を言わさなかった。井戸の水で洗われ、婆さま仕込みの軟膏を塗られ、布をきっちり巻かれた。リゼの手つきは、遊びではなかった。巻き終わりの結び目を二度確かめ、それから兄の顔を見上げて、にっと笑った。
「はい、できた。三日、触っちゃだめだからね」
「……承知した」
◇
その傷が、二日で塞がった。
夜の素振りの前に布を解いて、ジンは自分の手のひらを、しばらく見つめた。
浅くない傷だった。鉈の刃で、手のひらの肉を一筋。あの深さなら、塞がるのに五日。剣を握って痛まなくなるまで、七日。それがジンの見立てだった。適当な見立てではない。何十年ぶんの、切り傷と塞がりの記憶が下敷きにある、物差しのような見立てだ。
その物差しが、三日、狂った。
傷は薄い赤い線になって、押しても、もう痛まなかった。
気のせいか、とその時は思った。若い体は治りが早い。夏は傷の塞がりがいい。婆さまの軟膏がよく効いた。理屈は、いくらでもついた。物差しが狂う理由を数えるほうが、物差しのほうを疑うより、ずっと楽だった。
だからジンは、いったんそれを忘れることにした。忘れることにしていた。
数日後、井戸端で、猟師が笑っていた。
「いやあ、リゼちゃんは大したもんだ。こないだ罠の手入れでざっくりやっちまってよ、リゼちゃんに巻いてもらったら、二日でぴたっと塞がった。婆さまの薬より効くんじゃねえか?」
「分かる分かる」と粉屋のおじさんが乗った。「うちの倅の膝もよ、リゼちゃんに巻いてもらうと治りが早いんだよなあ。看板娘の御利益ってやつよ」
「御利益なら銭を取りな、銭を」と婆さまが混ぜ返し、井戸端は笑いに包まれた。
誰も、本気にはしていなかった。かわいい看板娘の、かわいい評判。そういう笑い話として、御利益は村に転がっていた。
ジンだけが、笑いの輪の中で、手のひらの薄い線を、親指でなぞっていた。
◇
その晩、夕飯のあとで、ジンはそれとなくリゼの手当てを眺めた。
膳の片づけを終えたリゼが、昼間に足をぶつけたという母の向こう脛に、軟膏を塗ってやっている。手つきは、婆さまの写しだ。塗って、なでて、布を当てる。何も、変わったことはしていない。
ただ——塗り終えたあと、リゼは必ず、患部に小さな手のひらを、ぽん、と重ねるのだ。
「いたいの、なおれ」
呪いのような、遊びのような一言と一緒に。村の子供なら誰でも親にやってもらう、あのおまじないだ。それだけのことだ。それだけのことのはずだった。
だが、手のひらが重なるその一瞬、ジンの張りっぱなしの強化の糸が、微かに、揺れた。
水面に落ちた葉の波紋ほどの、微かな揺れ。リゼの手のひらから、何かがほんの少しだけ、流れた——ような。目を凝らした時にはもう、リゼは「できた!」と胸を張っていて、母は「ありがとう、上手ねえ」と目を細めていた。
魔力、なのか。
確かめる術は、なかった。ジンの知る魔法は身体強化と生活魔法の端くれだけで、癒しの魔法など、武勇伝と教会の御伽噺でしか聞いたことがない。それに、あの揺れが本当にあったのかどうかすら、もう自信がない。
一つだけ、確かなことがある。物差しが三日狂った。猟師の傷も、二日で塞がった。偶然は、二度重なっている。
——三度目を、待つことにした。
騒がない。訊かない。試させもしない。確証のない話で騒げば、大人たちは面白がるか、怖がるかのどちらかで、どちらにしても、木陰のお手当て屋の景色は変わってしまう。あの「いたいの、なおれ」は、遊びの顔をしているうちが、一番いい。
布を巻くリゼの、真剣な横顔を見る。
——ふ、と。
遠い面影が、その横顔に重なった。囲炉裏端で、兄の手の豆に、同じように顔を寄せていた、小さな——。
一つ瞬きをして、ジンはそれを、胸の奥へ戻した。
面影は、面影だ。重ねれば、目の前の妹に失礼になる。あの子はあの子として生きて、終わった。リゼはリゼとして、今、ここで軟膏の蓋を閉めている。それを間違えないことだけは、二つの生を抱えた人間の、行儀のようなものだった。
目の前にいるのは、リゼだ。それで、いい。
◇
寝る前の夜回りは、いつも通りに終わった。
柵は立ち、鳴子は静かで、家々の灯りは順に消えていく。西の空に月が細く、風は乾いて、火の匂いも獣の匂いもなかった。
何も、なかった。
寝床に入ると、隣でリゼがもう眠っていた。手当て屋は今日も繁盛で、疲れたらしい。軟膏の匂いのする小さな手が、癖のように、兄の袖の近くに投げ出されている。
暗がりに目を開けたまま、ジンは今日一日を、いつものように数えた。
畑に出た。柵を回った。リゼは三人に布を巻いた。エマに麦湯を飲まされた。夕飯は全員で食った。夜、大菩提樹で素振りをした。糸は切れなかった。夜回りをした。何も、起きなかった。
何も起きなかった。
その一言が、胸の中で、温かい重さを持つようになったのは、いつからだろう。あの夜より前は、一日は数えるものではなかった。ただ流れて、明日と取り替えるだけのものだった。今は違う。何も起きなかった一日は、流れてきたのではない。柵と、鳴子と、夜回りと、素振りと——数え切れない小さな手が、寄ってたかって、守り切った一日だ。
リゼの寝息が、規則正しく続いている。
この寝息も、今日という一日の、守られた音の一つだった。
リゼの布袋が、枕元に、きちんと口を結んで置いてある。三度目が来るのか、来ないのか。来たとして、それが何なのか。分からないことは、分からないまま、そこに置いておく。木陰のお手当て屋の夏は、まだ当分、このままでいい。
ジンは目を閉じた。
明日も、何も起きなければいい。そのために、今夜も大菩提樹へ向かう。それだけのことを、それだけのこととして、続けていく。




