第十三話 昔のあなたも
◇
夜回りの最後の角を曲がると、大菩提樹の下に、人影があった。
一瞬だけ体が構え、すぐに解けた。月明かりの下、太い根の上に膝を抱えて座っているのは、エマだった。
「……こんな時間に、どうした」
「あんたを待ってたのよ。あんたの夜回り、時間まで決まってるんだもの。待ち伏せのしがいがないったら」
エマは膝を抱えたまま、隣の根を、ぽんぽんと叩いた。座れ、ということらしい。
ジンは少し迷って、言われた場所に腰を下ろした。頭の上で、夏の初めの葉が、夜風に揺れている。昼間はあれほど賑やかな木陰も、夜は、葉ずれの音と月明かりだけの、静かな場所だった。
この根の上で、二人とも育った。かくれんぼの鬼から隠れ、雨宿りをし、叱られて泣いているのをお互い一度ずつ見た。村の誰の思い出の中にも、この木はある。だから村の話は、大事な話ほど、この木の下でされる。エマがこの場所を選んだことの意味を、ジンは、座ってから理解した。
「明日も早いんだろう。風邪をひく」
「ひかないわよ。もう夏よ」
「……そうか」
会話が、途切れた。
エマは、なかなか話し出さなかった。膝を抱え、爪先で土をつつき、何度か息を吸っては、やめた。いつもの、言いたいことを言いたい順に言うエマらしくなかった。ジンは急かさず、待った。物見は、待つ仕事だ。
やがてエマは、前を向いたまま、妙に軽い声で言った。
「あのさ。変なこと訊くけど、笑わないでよね」
「笑わない」
「そう。じゃあ訊くけど」
エマは一つ、息を吸った。
「——あなた、変わった。……いったい、誰?」
◇
夜風が、葉を鳴らして通り過ぎた。
あなた、と呼ばれたのは、初めてだった。物心ついた時からずっと、エマはジンを呼び捨てにしてきた。その距離が、今、問いの形をして開いている。
「去年のあの夜からよ」
エマは、前を向いたまま続けた。
「怪我の手当ての順番も、火の消し方も、見張りの立て方も、なんで知ってるの。剣なんて、祭りの棒振りしかしたことなかったでしょ。歩き方も変わった。笑い方も変わった。……ううん、笑わなくなった。前のあんたはね、あたしが転ぶと、心配するより先に噴き出すような奴だったのよ」
「……それは、悪い奴だな」
「でしょ。最低よね。——でも、あたしの友達は、そいつだったの」
軽い声が、最後だけ、少し掠れた。
「あの夜から、ずっと考えてた。今のあんたは、村を守ってくれて、誰にでも頭を下げて、立派で……立派すぎて。まるで知らない人みたいで。あたしの知ってるジンは、どこ行っちゃったんだろうって。……お葬式もないまま、友達がいなくなってた気がして、ずっと、怖かった」
ジンは、月明かりの落ちる自分の手を見た。
ごまかす言葉なら、いくらでもあった。旅の人に聞いた。夢中で覚えた。大人になっただけだ。——柵の杭の由来と同じに、するりと言える嘘が、いくつも並んだ。
並べて、全部、捨てた。
実力を隠す嘘は、つく。つかなければ、村に置いてもらえない。だが、この問いは違う。友達の葬式の話をしている人間に、つく嘘は、一つもない。
「……あの夜、思い出したんだ」
ジンは、ゆっくりと話した。
「ずっと昔の……別の生の記憶だ。遠い国で、剣を振って生きて、守りたいものを何も守れずに死んだ男の記憶。あの夜、火を見た時に、全部、流れ込んできた。手当ても、見張りも、剣も——あれは全部、その男が覚えたことだ」
エマは、笑わなかった。茶化しもしなかった。膝を抱えたまま、じっと聞いていた。
「じゃあ……やっぱり、前のジンは」
「消えてない」
それだけは、はっきりと言った。
「消えてない。混ざったんだ。昔の俺も、ちゃんとここにいる」
「……証拠は」
「六つの夏。お前は水路に落ちた」
エマの肩が、ぴくりと動いた。
「引き上げたのは俺で、なぜか俺のほうが、お前の父さんとうちの母さんの両方に叱られた。お前は濡れたまま笑ってた。……九つの秋。リゼが生まれた日、お前は俺より先に泣いた。妹ができたのはあんたなのに、なんであたしが泣いてるのって、自分で怒ってた」
「…………」
「そういうものを覚えているのは、あの男じゃない。俺だ。十三年ここで生きた、ジンだ。あの男の記憶がどれだけ流れ込んでも、水路の夏は消えなかった。……混ざった、というのは、そういうことだ」
エマは、長いこと黙っていた。
それから、洟を一つすすって、憎まれ口の声を作った。
「……九つの秋のは、忘れなさいよ」
「善処する」
◇
葉ずれの音の下で、エマはしばらく、爪先で土をつついていた。
やがて、思い出したように顔を上げた。
「ねえ。じゃあ、思い出した"あなた"の名前は?」
何気ない問いのはずだった。混ざったもう半分に、名を訊いただけの。
だが、ジンは答えられなかった。
喉の奥で、何かが戸を閉めた。あの名は、故郷と家族と一緒に焼け落ちた夜の底に置いてきた。守れなかった者が、守れなかった夜のまま名乗っていい名では——。
「……捨てた」
声が、自分でも分かるほど、低くなった。
「……名乗る資格の無い名だ」
言ってから、しまった、と思った。軽く流すべきだった。忘れた、とでも言えばよかった。だが出てしまった声は、傷の形をそのまましていた。
エマは、その声を、じっと見るように聞いていた。
深くは、訊いてこなかった。資格って何、とも、何があったの、とも言わなかった。ただ膝の上で頬杖をついて、月明かりの下のジンの顔を、まっすぐに見た。
「ふうん。……ま、いいわ」
そして、なんでもないことのように、言った。
「なら、ジンでいいよ。あんたはジン。それだけ」
あんた、に戻っていた。
「昔のジンも、今のジンも、名前のないその人も、全部まとめて、ジン。あたしはそう呼ぶから、あんたはそれに返事すればいいの。簡単でしょ」
夜風が、頭の上で葉を鳴らした。
ジンは、何かを言おうとして、言葉が見つからず、結局、一番簡単な返事をした。
「……ああ」
「よろしい」
エマは満足げにうなずいて、立ち上がり、尻の土を払った。
「あー、すっきりした。一年ぶんの宿題が終わったわ。……あ、それとジン。今度からなんか変わったら、ちゃんと言いなさいよね。待ち伏せの手間がかかるんだから」
「そう度々は、変わらない」
「どうだか」
じゃあね、と手を振って、エマは月明かりの道を帰っていった。その足取りが、来た時よりずっと軽いことに、ジンは気づいていた。
◇
家に戻り、寝床に入った。
隣では、リゼがいつものように寝息を立てている。ジンは天井の梁を見上げた。耳は、今夜も風の音を拾っている。だが、体は起きようとしなかった。夜回りは済んでいる。柵と鳴子は村を囲っている。そして——。
あんたはジン。それだけ。
胸の中で、その声を、もう一度だけ聞いた。
去年の夜、床の中で答えの出なかった問いを、ふと思い出した。俺は、何者として生きればいい——侍としてか、ジンとしてか。一年かけても自分では出せなかった答えを、幼馴染は、大菩提樹の下で、ものの一と言で出してしまった。
全部まとめて、ジン。
そうか、と思う。分けようとするから、答えが出なかったのだ。水路の夏を覚えている俺と、戦場の雨を覚えている俺は、最初から、同じ胸の中で同じ息をしている。分けられないものは、分けなくていい。呼ばれた名に、返事をすればいい。
名は、まだ名乗れない。資格の話は、何も終わっていない。眠りの浅い理由も、消えてはいない。それでも、名のない自分ごと、ここにいていいと言われた。二つの生の継ぎ目を、まっすぐ見て、まとめて呼んでくれる声が、この村にある。
目を閉じる。
葉ずれの音が、耳の奥に残っていた。
その夜、ジンは初めて、少しだけ深く眠った。




