第十一話 芽を摘む
◇
巣を探すのに、三日かけた。
急がなかった。急ぐ理由が、まだなかったからだ。ゴブリンの群れが山羊を襲うのは、腹が減り切ってからだ。それまでの間、時はこちらの味方だった。
夜の物見を、川筋の上流まで延ばした。風下から、痕跡だけを読んで歩く。足跡。糞。齧られた木の芽。物見の作法どおり、姿を探さず、暮らしの跡を探す。暮らしの跡は嘘をつかない。
三日目の夜、風の中に、獣だまりの臭いを拾った。
川が崖にぶつかって曲がる、その内側の岩場だった。倒木と岩の隙間に、穴が黒く口を開けている。ジンは崖の上の茂みに腹這いになり、夜通し、ただ見た。
数は、八。
思ったより多い。そして思ったとおり、痩せている。あの三匹と同じ、追われてきた群れだ。仔はいない。年寄りもいない。はぐれた雄ばかりの、流れ者の群れだった。
序列も見えた。穴の奥の一番いい寝床は、体の大きい一匹のものだ。餌が入れば、まずそいつが食う。残りが順に群がり、一番小さいのは、いつも最後の骨をしゃぶっている。飢えた群れの結びつきは、餌の一つで壊れるほど薄い。それも、覚えておくことにした。
夜通し、腹這いのまま動かずにいるのは、百回の素振りとは別の種類の鍛錬だった。足がしびれ、岩の冷たさが腹に染み、羽虫が顔に止まる。それでも動かない。物見は、動いたら負けだ。見ることは、耐えることと同じ名前の仕事だった。
夜通し見ていると、群れの一日が分かってくる。
夜明け前、二匹か三匹の組が二手に分かれて、餌を探しに出る。残りは穴で寝ている。餌探しの組が使う道は、決まっていた。川沿いの獣道が一本。崖側は岩で塞がり、反対は雪解けで太った流れ。獣道は、大きな倒木のところで、人ひとり分の幅まで狭まる。
八匹を、一度に相手はできない。今の体では、三匹で手一杯なのは先日思い知った。
だが、一度に相手をする必要が、どこにある。
向こうは毎朝、二匹三匹に分かれて、決まった道を、決まった刻限に通る。こちらはそれを、三日も前から知っている。
——これは、斬り合いの話ではない。段取りの話だ。
◇
支度に、二日かけた。
父の納屋から、猪罠の縄と、使い古しの鉈を借りた。倒木の隘路の手前、獣道の膝の高さに、輪にした縄を仕掛ける。猪用のくくり罠だ。踏めば足を締め上げ、撥ねた枝が体勢を崩す。村の男なら誰でも知っている、ただの猟の道具だった。
隘路の先には、切り出した杭を並べて打ち、道幅をさらに絞った。逃げ道は、わざと一つだけ残す。崖と反対の、川へ落ちる側に。雪解けの流れは速く、深い。泳ぎの得意な獣ではないことは、魚を獲れずにいたあの三匹が教えてくれた。
囲い、絞り、落とす。城構えの理屈と、何も変わらなかった。違うのは、城ではなく獣道で、石垣ではなく倒木と杭だ、というだけのことだ。
仕上げに、罠の先の開けた場所へ、餌を置いた。畑の屑芋と、猟師が獣寄せに使う魚の腸。飢えた群れの足は、これで確実に、この道へ向く。序列の頭が真っ先に食いに来て、残りが後に続く。群れの結びつきの薄さまで、道具に使わせてもらう。
仕掛けを始めるのは、風の強い朝と決めた。川音と風の音が、こちらの気配を呑んでくれる。急がない。段取りの仕事は、日和を選べるのが強みだ。
支度を終えて、ジンは自分の作った隘路を、敵の側から歩いてみた。
狭い。暗い。足元に縄。左は崖、右は水。奥に餌の匂い。——嫌な道だった。自分なら、通らない。だが飢えていれば、通る。飢えは、獣からも人からも、まず用心を奪っていく。あの絵図の連中が、この村の「弱いところ」に印をつけたように、ジンは今、この群れの弱いところに印をつけていた。
やっていることは、同じだった。
その同じことを、守るためにやる。それだけの違いだ。それだけの違いが、すべてだった。
◇
初日の夜明け、罠に二匹かかった。
先頭が縄に足を取られて撥ね上げられ、続く一匹が棒立ちになる。茂みから出たジンの槍が、それで届いた。二匹。剣は、抜きもしなかった。
二日目、餌探しの組が道を変えた。仲間が帰らない道を、獣は嫌う。だが変えた先は、川べりのぬかるみだった。足の速さは、ぬかるみでは死ぬ。待ち構えていたジンの前で、二匹は走ることもできなかった。
三日目、罠が空を切った。
学んだのだ。三匹目の組は縄の輪を飛び越え、勢いのまま、まとめて跳びかかってきた。二匹同時——読みの外だった。一匹目は槍で受けたが、槍が骨に食い込んで抜けない。二匹目の棍棒が、肩をかすめた。熱い。槍を捨て、腰の直剣を初めて抜いて、振り向きざまの一閃で終わらせた。
肩で息をしながら、ジンは自分の甘さを数えた。獣も、学ぶ。三日も同じ場所で仕掛ければ、四日目はもっと悪くなる。
四日目はなかった。
その夜のうちに岩場の崖上へ戻り、朝を待った。穴に残っていたのは、二匹だけだった。八匹の群れは六匹欠けて、群れの形を失っていた。夜明け、残った二匹は穴を出ると、餌の道へは向かわず、川の上流へ——深い森のほうへ、振り返りもせずに駆けていった。
追わなかった。
あれはもう、目の役ですらない。群れを失った二匹が深い森で生き延びる目は、ほとんどない。そして万一生き延びて仲間に伝えるのが「あの川筋は死ぬ」という報せなら、それはむしろ、届いてほしい報せだった。
静まり返った岩場で、ジンは指を折った。
八匹の群れだった。罠で二匹。ぬかるみで二匹。隘路で二匹。逃げたのが二匹。まともに剣を合わせたのは、しくじった三日目の、あの一匹だけだ。
——戦いの九割は、戦いになる前に、終わっている。
指を折り終えて、その言葉が、すとんと腑に落ちた。
前世の城攻めも、思えばそうだった。落ちる城は、攻めかかる前に落ちていた。兵糧を断たれ、水の手を切られ、内から崩れて、最後のひと押しだけが「戦」と呼ばれた。逆もまた同じだ。守り切った城は、戦う前に守り終えていた。
剣の腕が届かないなら、届くところで勝負を終わらせればいい。段取りに、才能は要らない。要るのは、足と、目と、日数だけだ。
それなら、と潰れた豆だらけの手のひらを見て、ジンは思った。
——それなら、俺にもできる。
◇
「片付いた、って……お前、あの巣をか? 一人でか?」
報告を聞いた村長は、囲炉裏の火箸を持ったまま、しばらく動かなかった。
「罠と、地形を借りました。斬り合いは、ほとんどしていません」
「ほとんど、って、お前……」
村長は何かを言いかけ、例によって、やめた。代わりに、ジンの肩の当て布に目を留めて、それだけを訊いた。
「……深いのか」
「かすり傷です。母さんが、大げさに巻いただけで」
「そうか」
大事にはしなかった。村には「川上のゴブリンは片付いた。囲いの戸締りは続けてほしい」とだけ回してもらった。手柄話は要らない。村が知るべきなのは、脅威の在り処と、今やるべきことだけだ。
数日後の夕方だった。
畑から戻ると、大菩提樹の下に、村の男が四、五人、ジンを待っていた。気まずそうに立っている先頭は、罠の縄を貸してくれた猟師と、去年の夜に肩を斬られた、あの粉屋のおじさんだった。
「よう、ジン。……ちっと、いいか」
「はい」
男たちは顔を見合わせ、それから粉屋のおじさんが、動くようになった肩を回しながら、切り出した。
「柵をよ。……直してえんだ、俺ら」
ジンは、瞬きをした。
「山羊の囲いまでゴブリンが来てたって聞いてよ。それによ、去年のあれから、どうにも夜がな……。傾いだまんまの柵を見るたび、落ち着かねえのよ。だがよ、どこから手え付けていいか分からねえ。お前、いつも見て回ってんだろ」
だから、教えてくれ。
そう言って、村の男たちは、十四の少年の顔を見た。




