第十話 里に出るもの
◇
季節が、一つ変わった。
十四になった。祝いはしなかった。
冬に入ると、森の色が減った。葉が落ちて遠くまで見えるようになった代わりに、足元の落ち葉が鳴るようになった。歩き方を変えるまでに、何日かかかった。
三日で二匹。四日目は何も出ない。五日目も出ない。六日目に一匹。雨の夜は罠だけ見て引き返し、風の強い夜は匂いが読めないので早く切り上げた。
そういう夜が、いくつも積み重なった。
罠は、増えたり減ったりした。仕掛けた場所が悪ければ外し、通り道が変われば移す。獲れた夜より、直した夜のほうがずっと多い。袖に飛んだものは井戸で落とす。落ちきらない日もあったが、誰も気づかなかった。
夜の形も、決まってしまった。
家の者が寝静まる。大菩提樹の下で百回振る。村を一回りして、柵の切れ目を抜ける。空が薄くなる前に戻って、板きれに丸を書いて、短く眠る。
決めた覚えはないが気づいたら、そうなっていた。
冬は、村が早く静かになる。灯の消えるのが早く、その分、出るのも早くなった。柵の外は、冬のほうが歩きやすい。虫がいない。蛇も出ない。ただ、足跡だけが残る。
数えるのは、やめている。板きれは納屋の隅に積んであって、ときどき母が掃除の邪魔にして、それでも捨てないでくれていた。
昼は、相変わらずだ。
母が三度呼ぶのも、リゼに笑われるのも、畑で鍬を持ったまま止まっているのも、変わらない。父は割り振りを軽いほうに寄せたまま、何も言わない。
昨日と同じで、明日も同じ。
その繰り返しで、冬が来た。
◇
初雪の夜、森が読めることに気づいた。
獣道の上に、雪が薄く積もっている。そこに、跡が残っていた。
指の、小さいもの。ゴブリンだ。西から東へ。縁がもう崩れているから、宵の口のものだろう。その上に、別の跡が重なっている。こちらは縁が立っていて、新しい。
夏の森では、これは読めなかった。土は跡を残さず、落ち葉はすぐに元へ戻る。だが雪は、通ったものを、通った順に、そのまま置いていく。
紙のようだ、と思った。
記憶の中の男も、雪を待った。降ったあとの地面は、誰がどこを通ったか、何人で通ったか、荷を引いていたかまで、勝手に喋る。読める者にとっては、雪は一番親切な季節だった。
足跡を追った。
跡は獣道を外れ、藪の裏へ回り、細い沢を渡って、また戻ってきていた。同じ場所を二度通っている。何かを探して、うろついた跡だ。腹が減っている。餌が減ったか、餌場を取られたか、どちらかだろう。
そこで、消えた。沢の水に入ったのだろう。
ジンは沢の手前で足を止め、いつもの窪みへ引き返した。
待った。
冷えは、いつも同じ順で来る。指。足首。腰。背中。順番を覚えてしまうくらいには、この窪みに通っていた。
雪の上は、明るい。月がなくても地面が薄く光る。そのぶん、こちらの影も出た。窪みを一つ奥へ移して、また座り直した。
村の灯が消えた。犬も鳴かない。雪は、もう降っていなかった。
来なかった。
半刻待って、それから、もう半刻待った。
跡はあれだけあるのに、獲物は一匹も出てこない。冬とは、そういうものらしい。腹の減ったものほど、日のあるうちに動く。夜に出られるのは、まだ余裕のあるものだ。
覚えておくことにした。
空の端が薄くなるまで待って、それから帰った。手には、何もない。槍の穂先にも、何も付かなかった。
家に戻り、板きれを引き寄せて、炭を取った。
丸を一つ書いた。
何も起きなかった夜は、何もなかった夜ではない。あの跡が沢を渡って戻ってきたことを、いま知っているのは、自分だけだ。
そういうことに、しておいた。
◇
体のことは、自分ではよく分からなかった。
分かるのは、周りの物のほうだった。
母が、軟膏を置かなくなった。手のひらの布も、いつからか枕元に現れない。豆は、潰れなくなっていた。指の付け根が固くなって、握ると木のような音がしそうな気がする。
上着は、右の肩だけが先に擦り切れた。槍を担ぐ側だ。母は継ぎを当て、それから反対の肩にも同じ布を当てた。片方だけだと目立つから、と言って。
槍の柄は、同じ場所だけが黒く光っている。握る位置が、いつの間にか一箇所に決まったらしい。
ある晩、灯を点けずに水を飲みに立ったら、リゼが起きていた。
「おにいちゃん、くらいのに、みえるの?」
「……慣れだ」
リゼは眠そうな顔で、うん、と言って布団へ戻っていった。明日には忘れているだろう。
自分でも、そう思っていた。毎晩やっていれば、慣れる。慣れれば、見える。それだけのことだ。
村の見方も、変わらなかった。
よく寝てる子。ぼんやりしてる子。畑では真面目だが、どこか抜けている。水路の泥上げでは誰より長く働くのに、話しかけると二度に一度は聞いていない。そういう子だ、ということになっていた。
年寄りは軽口を叩き、女たちは笑い、子供たちは気にも留めない。
エマだけは、何も言わなかった。
◇
跡が変わったのは、雪が緩み始めた頃だった。
獣道の泥に、四つ足の跡があった。
幅が広い。爪が深く刺さっている。ゴブリンの跡の上を、踏み潰すように通っていた。歩幅から、背丈を測る。自分の腰より、高い。
狼だ。
この森にいることは知っていた。だが、獣道の、村に寄った側で見たのは初めてだった。
ジンは、追わなかった。
槍は届く。だが四つ足は、こちらが届くより先に間合いを詰めてくる。踏み込みの半歩が足りない体では、外した時に二度目がない。そして森に半端な傷を残せば、それは村へ降りてくる。
引き返す道で、罠の縄を太いものに替えた。それが、その夜にできることの全部だった。
三日後、遠目に見た。
沢の向こうを、灰色のものが二頭、並んで歩いていた。風下ではなかったが、向こうは足を止めなかった。ジンも動かなかった。
二頭とも、痩せていた。毛が抜け、腰の辺りの骨が浮いている。追われて出てきたものの体だ、と思った。
通り過ぎるのを、見送った。
——それでいい、とは思わなかった。今夜はそれしかできない、と思っただけだ。
柵が破られたのは、その冬で三度目だった。
昼、井戸端で、村の男が二人、話していた。
「近頃、獣が下りてくるな。西の柵、また壊されてたぞ」
「山の実りが悪いんだろ。冬明けはいつもだ」
「……そういや、死んだ爺さんも、近頃森が騒がしいって、よく言ってたな」
「言ってたな」
「……柵、直すか」
「そのうちな」
それきり、話は天気に移った。
ジンは水を汲んでいた。桶に水が満ちるまで、手を止めなかった。
◇
その夜、大菩提樹の下で振りながら、考えていた。
狼が里へ降りてくる。ゴブリンが里へ出てくる。どちらも、森の中にいれば済むものだ。
出てくるからには、理由がある。
追われている。
では、何に。
森の奥から順に、押し出されている。押し出す側は、押される側より強い。当たり前のことだ。
そして当たり前のことを、村の誰も口にしない。誰も、森の奥を見ていないからだ。
弱いものが里に出てくる時、森の奥では、より強いものが増えている。
——たぶん、そういうことだ。
だが、どれだけ増えているのかは分からない。いつからなのかも、どこまで来ているのかも分からない。今の自分に見えるのは、獣道の跡と、通り過ぎていく背中だけだ。
分かるところまでで、止めた。
先を埋めたくなる。埋めてしまえば、楽になる。だが埋めた分だけ、目が曇る。
分からない部分を埋めて考えるのは、物見の仕事ではない。見たものを、見たままに持ち帰る。それだけだ。
手を止めて、森のほうを見た。
冬のあいだに拾い集めた跡を、頭の中の絵図に置き直してみる。日付と、方角と、深さ。書き留めたものは、一枚もない。全部、頭の中にある。
ばらばらに散っているのだと、思っていた。
違った。北の沢の上の辺りで、いくつもの筋が、一箇所へ寄っている。
——巣か。




