表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/18

第十話 里に出るもの


季節が、一つ変わった。


十四になった。祝いはしなかった。


冬に入ると、森の色が減った。葉が落ちて遠くまで見えるようになった代わりに、足元の落ち葉が鳴るようになった。歩き方を変えるまでに、何日かかかった。


三日で二匹。四日目は何も出ない。五日目も出ない。六日目に一匹。雨の夜は罠だけ見て引き返し、風の強い夜は匂いが読めないので早く切り上げた。


そういう夜が、いくつも積み重なった。


罠は、増えたり減ったりした。仕掛けた場所が悪ければ外し、通り道が変われば移す。獲れた夜より、直した夜のほうがずっと多い。袖に飛んだものは井戸で落とす。落ちきらない日もあったが、誰も気づかなかった。


夜の形も、決まってしまった。


家の者が寝静まる。大菩提樹の下で百回振る。村を一回りして、柵の切れ目を抜ける。空が薄くなる前に戻って、板きれに丸を書いて、短く眠る。


決めた覚えはないが気づいたら、そうなっていた。


冬は、村が早く静かになる。灯の消えるのが早く、その分、出るのも早くなった。柵の外は、冬のほうが歩きやすい。虫がいない。蛇も出ない。ただ、足跡だけが残る。


数えるのは、やめている。板きれは納屋の隅に積んであって、ときどき母が掃除の邪魔にして、それでも捨てないでくれていた。


昼は、相変わらずだ。


母が三度呼ぶのも、リゼに笑われるのも、畑で鍬を持ったまま止まっているのも、変わらない。父は割り振りを軽いほうに寄せたまま、何も言わない。


昨日と同じで、明日も同じ。


その繰り返しで、冬が来た。



初雪の夜、森が読めることに気づいた。


獣道の上に、雪が薄く積もっている。そこに、跡が残っていた。


指の、小さいもの。ゴブリンだ。西から東へ。縁がもう崩れているから、宵の口のものだろう。その上に、別の跡が重なっている。こちらは縁が立っていて、新しい。


夏の森では、これは読めなかった。土は跡を残さず、落ち葉はすぐに元へ戻る。だが雪は、通ったものを、通った順に、そのまま置いていく。


紙のようだ、と思った。


記憶の中の男も、雪を待った。降ったあとの地面は、誰がどこを通ったか、何人で通ったか、荷を引いていたかまで、勝手に喋る。読める者にとっては、雪は一番親切な季節だった。


足跡を追った。


跡は獣道を外れ、藪の裏へ回り、細い沢を渡って、また戻ってきていた。同じ場所を二度通っている。何かを探して、うろついた跡だ。腹が減っている。餌が減ったか、餌場を取られたか、どちらかだろう。


そこで、消えた。沢の水に入ったのだろう。


ジンは沢の手前で足を止め、いつもの窪みへ引き返した。


待った。


冷えは、いつも同じ順で来る。指。足首。腰。背中。順番を覚えてしまうくらいには、この窪みに通っていた。


雪の上は、明るい。月がなくても地面が薄く光る。そのぶん、こちらの影も出た。窪みを一つ奥へ移して、また座り直した。


村の灯が消えた。犬も鳴かない。雪は、もう降っていなかった。


来なかった。


半刻待って、それから、もう半刻待った。


跡はあれだけあるのに、獲物は一匹も出てこない。冬とは、そういうものらしい。腹の減ったものほど、日のあるうちに動く。夜に出られるのは、まだ余裕のあるものだ。


覚えておくことにした。


空の端が薄くなるまで待って、それから帰った。手には、何もない。槍の穂先にも、何も付かなかった。


家に戻り、板きれを引き寄せて、炭を取った。


丸を一つ書いた。


何も起きなかった夜は、何もなかった夜ではない。あの跡が沢を渡って戻ってきたことを、いま知っているのは、自分だけだ。


そういうことに、しておいた。



体のことは、自分ではよく分からなかった。


分かるのは、周りの物のほうだった。


母が、軟膏を置かなくなった。手のひらの布も、いつからか枕元に現れない。豆は、潰れなくなっていた。指の付け根が固くなって、握ると木のような音がしそうな気がする。


上着は、右の肩だけが先に擦り切れた。槍を担ぐ側だ。母は継ぎを当て、それから反対の肩にも同じ布を当てた。片方だけだと目立つから、と言って。


槍の柄は、同じ場所だけが黒く光っている。握る位置が、いつの間にか一箇所に決まったらしい。


ある晩、灯を点けずに水を飲みに立ったら、リゼが起きていた。


「おにいちゃん、くらいのに、みえるの?」


「……慣れだ」


リゼは眠そうな顔で、うん、と言って布団へ戻っていった。明日には忘れているだろう。


自分でも、そう思っていた。毎晩やっていれば、慣れる。慣れれば、見える。それだけのことだ。


村の見方も、変わらなかった。


よく寝てる子。ぼんやりしてる子。畑では真面目だが、どこか抜けている。水路の泥上げでは誰より長く働くのに、話しかけると二度に一度は聞いていない。そういう子だ、ということになっていた。


年寄りは軽口を叩き、女たちは笑い、子供たちは気にも留めない。


エマだけは、何も言わなかった。



跡が変わったのは、雪が緩み始めた頃だった。


獣道の泥に、四つ足の跡があった。


幅が広い。爪が深く刺さっている。ゴブリンの跡の上を、踏み潰すように通っていた。歩幅から、背丈を測る。自分の腰より、高い。


狼だ。


この森にいることは知っていた。だが、獣道の、村に寄った側で見たのは初めてだった。


ジンは、追わなかった。


槍は届く。だが四つ足は、こちらが届くより先に間合いを詰めてくる。踏み込みの半歩が足りない体では、外した時に二度目がない。そして森に半端な傷を残せば、それは村へ降りてくる。


引き返す道で、罠の縄を太いものに替えた。それが、その夜にできることの全部だった。


三日後、遠目に見た。


沢の向こうを、灰色のものが二頭、並んで歩いていた。風下ではなかったが、向こうは足を止めなかった。ジンも動かなかった。


二頭とも、痩せていた。毛が抜け、腰の辺りの骨が浮いている。追われて出てきたものの体だ、と思った。


通り過ぎるのを、見送った。


——それでいい、とは思わなかった。今夜はそれしかできない、と思っただけだ。


柵が破られたのは、その冬で三度目だった。


昼、井戸端で、村の男が二人、話していた。


「近頃、獣が下りてくるな。西の柵、また壊されてたぞ」


「山の実りが悪いんだろ。冬明けはいつもだ」


「……そういや、死んだ爺さんも、近頃森が騒がしいって、よく言ってたな」


「言ってたな」


「……柵、直すか」


「そのうちな」


それきり、話は天気に移った。


ジンは水を汲んでいた。桶に水が満ちるまで、手を止めなかった。



その夜、大菩提樹の下で振りながら、考えていた。


狼が里へ降りてくる。ゴブリンが里へ出てくる。どちらも、森の中にいれば済むものだ。


出てくるからには、理由がある。


追われている。


では、何に。


森の奥から順に、押し出されている。押し出す側は、押される側より強い。当たり前のことだ。


そして当たり前のことを、村の誰も口にしない。誰も、森の奥を見ていないからだ。


弱いものが里に出てくる時、森の奥では、より強いものが増えている。


——たぶん、そういうことだ。


だが、どれだけ増えているのかは分からない。いつからなのかも、どこまで来ているのかも分からない。今の自分に見えるのは、獣道の跡と、通り過ぎていく背中だけだ。


分かるところまでで、止めた。


先を埋めたくなる。埋めてしまえば、楽になる。だが埋めた分だけ、目が曇る。


分からない部分を埋めて考えるのは、物見の仕事ではない。見たものを、見たままに持ち帰る。それだけだ。


手を止めて、森のほうを見た。


冬のあいだに拾い集めた跡を、頭の中の絵図に置き直してみる。日付と、方角と、深さ。書き留めたものは、一枚もない。全部、頭の中にある。


ばらばらに散っているのだと、思っていた。


違った。北の沢の上の辺りで、いくつもの筋が、一箇所へ寄っている。


——巣か。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ