妃殿下と子守侍女
◆ side:メアリス王女の子守侍女 ◆
私の名は、フィスナ・ディエドロディス。
幼い頃、まだ王太子妃殿下が侯爵家の姫だった頃より交友を持ち、現在では、恐れ多い事ながら誰よりも彼女を理解していると自負する、ディエドロディス侯爵家唯一の嫡子でございます。
妃殿下が王家へ輿入れなさるよりも少し早くに婿を取り、我が侯爵家の跡取りとなる息子を産み、エルドパンクレイズ国の慣例に則り乳母は置かずに自らの手で子育てに励み、たまに王城にて妃殿下とお茶を飲む……という、実に貴婦人らしい日常を送っておりました。
「いずれどちらかに娘が産まれたら、相手の息子に嫁がせましょうね」なんて冗談を言いながら、お互いにまだまだ小さな息子を胸に抱きながら話していたものですが…。…
その数年後。
妃殿下の許にお生まれになった姫君にお目通りをした私は、ずっと考えていたある思いを実行する決心をしたのです。…
「――妃殿下。この度は大変なお勤め、誠にお疲れ様でございました」
出産の報せを受け、私は旦那よりも一足先に息子を連れて妃殿下の許へと参じておりました。
「有り難うフィスナ。…なかなかに難産だったけれど、今は、こうして無事に生まれてくれて本当に良かったと思うよ」
最上級のベッドに横になりながら私たちへと笑みを向ける妃殿下には、隠しきれない疲労が窺える。
ユキアス殿下の時も時間が掛かっていたけれど、今回はその比ではない。
時間にして、丸々三日。
…どれほどの体力と精神力を要したかなど、想像するだけで疲弊に溜め息を禁じ得ない。
大変な仕事を終えた誇らしい友人を労うべく、私は息子の手を引きベッド横に用意された椅子に腰掛け、4歳になった彼を膝に乗せて。
少し日に焼けている彼女の綺麗な左手を取り、人差し指でゆっくりと、心からの気持ちを込めて撫でました。
「……本当に、お疲れさま。ルエル…」
「…ああ。有り難う」
私の言葉に、やっと人心地つけたとでも言うように、深く、静かな溜め息をついた妃殿下――ルエル。
彼女の夫である王太子殿下は、今は御子息のユキアス殿下を連れて王都より南西部にある農耕地・ラスウェルトに視察に行ってしまわれているから、帰ってくるまでにあと半日は掛かる。
来年開かれるユキアス殿下の初お目見えの準備のためとは言え、こんなにも大変なお産を一人で乗り切った妻に、彼には早く顔を見せて労りの言葉を掛けてほしいと思ってしまうのは仕方がないことでしょう。
私が来た事でほんの少しでも安心出来たのかうっすらと涙を浮かべた彼女に、私は笑顔を浮かべました。
「あら、まだ泣いてはダメですよ。目が見えなくなっても知りませんからね?」
「、ははっ。…すまない。フィスナの顔を見たら、少し、安心してしまった。…本当に、来てくれてありがとう。…サキュート殿も、有り難う。来てくれてとても嬉しいよ」
「…べつに。…でも、お……おつか…れ、さま?…でした、ひでんか」
ルエルの言葉に、息子――サキュートは彼女から視線を逸らしながら、来る時に教えた言葉をたどたどしく、ぶっきらぼうに答える。
誰に似たのか照れるとどうしても愛想のない言い方しか出来なくなってしまう我が息子に、彼女はいつだって、気を悪くした風もなく優しい笑みを向けてくれる。
私は、“よく出来ました”という意味を込めて息子の頭を撫でてから彼女を見て、それから彼女の右隣り…私たちとは反対側にある真っ白なお包みに目を向けました。
「いつもごめんなさいね、ルエル。…それで、そろそろ我が国の新しい宝物にお目通り願ってもよろしいかしら」
「気にしていないよ。 ああ、もちろんだ。顔を見てやってくれ」
名前は王太子殿下が帰ってきてから決めるのだと穏やかに笑みながら、ルエルは私からやんわりと取り戻した左手で、私たちから見易いように、ふんわりとした白いそれを優しく優しく除けていく。
そうして間もなく見えたお顔に、…私はその時、目を見開いて息を呑んだものです。
「…見えるかい?今度は、女の子だったんだ。…ふふっ。ユキアスと同じで、また目許は父親に似ていてね。わたしの要素は、今は見えないけれど瞳と髪の色…あとは口許くらいかな。いずれにせよ、元気に育ってほしいものだ」
伏せられた瞼を縁取る長い睫毛。
ふっくりと血色の良いまろやかな頬。
三角を作る桜色の唇に、申し訳程度に生えた淡いミルクティー色のふわふわとした薄く短い御髪…。
すやすやと静かな寝息をたてて眠るその子はまさに光輝く至宝のようで、私はひと目で心奪われてしまいました。
……だから。
「…もう、子守役は決めたのですか?」
唐突な私の質問に、妃殿下は生まれたばかりの姫君から視線を外し、不思議そうにこちらを向かれる。
「…いや?さすがにまだだよ。今回は選定に時間が掛かってしまってね。 最終的には、ユキアスの時のように抱き上げても嫌がられなかった者にしようとは思っているんだが…」
「……妃殿下、姫君を抱かせて頂いてもよろしいでしょうか」
「、…え?あ、ああ。もちろん、フィスナなら構わないよ。それなら、悪いけれどこちら側に回ってきてくれないか?どうにも身体が怠くて、そちらまで渡せそうにないんだ」
元よりそんな重労働を強いるつもりのない私は、返事もそこそこに息子を膝から下ろすとスクッと立ち上がり、そのままスタスタと彼女の足元を回って反対側にたどり着く。
断りを入れてから、ゆっくりと、ゆっくりと至宝の姫君を抱き上げました。
息子で慣れてはいてもやはり勝手は違う上に王家の血筋。どうしても緊張は伴いますがどうにかこの腕に納めた私は、嫌がるそぶりもなく すやすやと眠り続ける姫に…もう、この胸の高鳴りを秘めておく事など出来なくなったのです。
「……フィスナ?」
「…恐れながら妃殿下、お願いがございます」
「…どうした?……いいよ、言ってみて」
私の様子に驚きながらも鷹揚に頷かれる王太子妃。
私は許可を得た事への礼を返し、そして、自身の願いを口にしたのです。
“どうか私に、姫君の子守役を任せてほしい”と。…
私の身分は侯爵夫人。
王家の血筋を一時でも預かる身として申し分はない。
けれど、そういった役割は通常、子育てに一区切り着いた高位貴族の夫人が務めるものであり、まだまだ子育てに奮闘中の私では姫君のために満足に動けない可能性も大いにある。
……それでも。この役割は、どうしても他人に譲りたくはなくなってしまったのです。
私の言葉を受け、じっと私を見ていた妃殿下は。
前触れなくついっと視線を外すと、先程まで私と座っていた椅子に自力で座り直していた我が息子へと声をかけました。
「……サキュート殿。あなたの母上が、わたしの娘の世話をしたいと言っている。そうなれば、あなたの母上の時間は総てにおいてわたしの娘に優先され、あなたが母上と過ごす時間がほとんど無くなってしまう事だろう。…それでも、構わない?」
「……」
まだまだ小さな身体を深々と椅子に沈めるサキュートは、妃殿下の真摯な言葉をしっかりと聞き、そしてチラリと私を見てから、視線を自身の左斜め下に投げてから言葉を返した。
「……やだけど、でも、がまんするよ。…ユキよりおにいさんのオレが、できないなんて嫌だ」
「サキュート…っ」
ユキアス殿下とサキュートは、それこそお腹の中にいた頃からずっと一緒に育ってきたようなもの。
2年先に生まれたサキュートが、年上としての自覚を持つのは自然なことであったのかも知れない。
母として、息子の思わぬ成長ぶりに感激にうち震えていた私だけれど、くつくつと忍ばせた妃殿下の笑い声にハッと我に返る。
見れば、本当に楽しそうな笑みを浮かべた妃殿下が、慈しむ眼差しをサキュートに向けていた。
「、ふふっ。サキュート殿、痩せ我慢は感心しないよ。…けれど、ユキアスを思ってくれていたんだね。有り難う。 ……寂しくなったら、いつでも母上に会いに来るといい。その時はユキアスだけではなくて、この子とも、仲良くしてくれると嬉しいよ」
「…、……………いーよ」
「妃殿下、では…っ」
「…わたしの独断になってしまうけれど、まぁ許してくださるだろう。念のために身辺調査が入るけれど…まさか、引っ掛かるような事をしてはいないよね?」
「もちろんでございますっ!どこをどう調べられても構いません!…ああ、有り難うルエル!」
心の底からの感謝を、けれど腕の中にある大切な大切な友人の娘に配慮して声を落として告げました。
そしてそっと姫君を妃殿下の腕の中へと戻した私は、空気を荒立てないように、けれど急いで息子の許へと戻ると、座るままの彼を思い切り抱きしめました。
「ありがとう、サキュート!母は誰よりも、貴方を愛しているわ!」
「…、………ん。しってる」
私に抱きしめられながら、やっぱりぶっきらぼうに返す息子が愛しくてたまらなくて、抱きしめる腕についつい力を込めてしまった。
「苦しい」と、少しふて腐れながら抗議されて身体を離したけれど、笑顔をやめることは出来ないのは仕方がないのよ。
…これから、この子には寂しい思いを沢山させてしまうことでしょう。
悲しい思いも、沢山させてしまうかも知れない。
それでも私は、どうしても姫君の子守役になりたかったのです。
それはもちろん、姫君の愛らしさに心奪われた事も大いにありますが……けれどやはり、サキュートを蔑ろにしてまで願い出たのは、私のわがままを叶えるため。
約20年前。私が9歳、ルエルが7歳の時に、最悪エルドパンクレイズ国が滅亡していたかも知れない“あの事件”をきっかけに、王侯貴族の…特に王族の出産・教育に関わる事柄のほとんどが厳しく取り締まられました。
王位継承権の高い王子の妃の出産には、医師や助産師を除いた ごく近しい親族しか、隣室であっても立ち会うことは許されない。
以前はそこまでではなかったようだけれど、…そのために、私は今回も隣室に控えるどころか陣痛中の付き添いすらも出来なかった。
子守役に関してもそう。
以前は王妃や王太子妃としての公務を優先させるために乳母を置くことは普通の事だった。
それは、貴族も同じこと。
むしろ乳母を置くことはひとつのステータスでもあり、自分の手で子育てをすることの方が珍しいくらいだったのに。…
公務をこなしながら、子育てもするだなんて本当に大変なこと。
…ルエルが大変な時に、私はいつも、何もしてあげられていないのよ。
ユキアス殿下の時は、私もサキュートから手を離せなかったから立候補すら出来なかった。
……だから、今回こそ。
大したことは、出来ないけれど。
「…では、改めて。大変だろうけれど、これからよろしく頼むよ、フィスナ」
「ええ、妃殿下。姫君のことは、どうぞお任せください」
可愛い可愛いこの姫君の。
大切な大切なこの友人の。
ほんのわずかでも、力になりたいから。…
向けられた裏表のない笑顔に、私もまた、同じ笑顔を返すのでした。
このようなところまで閲覧くださり、誠にありがとうございました♪!
少しでも楽しんで頂けましたなら幸いです。^^*