8 鈴虫工作
2030年10月30日水曜日。
韓国ソウル近郊の仁川国際空港は、秋の冷たい雨が降っている。
午前9時40分発、ロンドン・ヒースロー空港行き定期便、大韓航空KE907便が定刻どおり出発した。
エコノミークラスの中ほどの窓際に、30代半ばぐらいの東洋人の男が深くシートに身を沈めている。服装はフード付きスウェットの上に安物のナイロンジャケットを羽織り、ジーンズというラフな格好で、太縁の黒いメガネをかけていた。
胸ポケットには、大韓民国の旅券が収まっている。名義は金敏俊、34歳。
彼は、ずっとフードをかぶって寝ていることが多く、キャビンアテンダントのサービスには簡潔に応え、特に注目を引くようなことはしなかった。
KE907便は約14時間の飛行を終え、同日午後、ロンドン・ヒースロー空港へ到着した。
入国ゲートに向かう彼は、片手に持ったスマートフォンに目を落とし、うつむき加減に歩いている。この首の傾きと額に不揃いに散らした前髪の影が、天井のカメラと連動したロンドン市警の最新型AI顔認識システム「LFR(Live Facial Recognition)」の幾何学演算を狂わせていた。
「滞在目的は?」
「観光です。大英博物館に行きたい」
あまりうまくない英語で答えた。審査官は無造作にスタンプを押し旅券を返した。
空港を出て、流しのブラックキャブを現金で拾う。向かったのはトッテナム・コート・ロード七十番地。ロンドン最大の電脳街に佇む、中古電子機器の巨大チェーン店「CeX」。
夕方の仕事帰りの買い物客でごった返す店内にスマホを見つめたまま滑り込み、男はビジネス用PCの並ぶガラスケースを指差した。
「あの黒いノートPCを見せてくれ。マイクロソフトのオフィスが入っているやつを」
店員が取り出したのは、ロンドンのどこのオフィスにも転がっている、ごく普通のレノボ製ThinkPad T490だった。価格は230ポンド。企業からのリース下取り品で、内部には本物の英国法人のライセンスが残っている。
男はポケットから、事前に少しずつ下ろしておいた20ポンド紙幣11枚と、10ポンド紙幣1枚をカウンターに滑らせた。店員の記憶に残ったのは、「風邪気味で眠そうな、東洋人の若者」という印象だけだった。
その夜、男はサウスワーク地区の裏通りにある、現金払いの薄汚れた安宿にチェックインした。
狭い部屋には、一人の男が待っていた。部屋の隅には、二台の中古自転車が立てかけてある。
金敏俊は、CeXで購入したThinkPadを紙袋のまま男に渡した。
男はベッドに腰掛けてThinkPadを起動すると、持っていた暗号化済みのUSBメモリを挿し、ある論文をコピーした。
作業を終えると、男は衣類の入ったバッグと、ゆったりした雨合羽、それに自転車の一台を金敏俊に渡した。
「明日の朝、指示された時間に出ろ」
金敏俊はうなずいた。
それ以上の言葉はなかった。
翌日、10月31日木曜日。
10月末のロンドンの夜明け前は、吸い込むと肺が痛むほどの冷たい夜霧に包まれていた。
午前5時を過ぎたころ、先に安宿を出たのは、部屋で待っていた男の方だった。
身体の線を隠すようなゆったりした雨合羽を着込み、ThinkPadを収めた紙袋を持って自転車に乗る。
そして夜明け前のロンドン市内を走り、ハイド・パークへ向かった。
同じころ、安宿の部屋では金敏俊が黙って時計を見ていた。
人っ子一人いない広大な敷地の中、男は自転車を降り、サーペンタイン・レイクの北岸にある古びた木製のベンチに腰を下ろした。ここには監視カメラの死角があり、同時に公園の管理当局が提供している公衆無線LAN『_TheRoyalParksFreeWiFi』の電波が強く飛んでいる。
男はノートパソコンを開いた。
液晶画面のデジタル時計が、午前6時00分に静かに切り替わった。男は冷え切った指先で、エンターキーを静かに押し下げた。その瞬間、ある論文が世界に向けて発表された。
男は素早くPCの電源を落とすと、小型のドライバーであらかじめネジを緩めておいた底面カバーを開けた。中からガムほどの大きさのSSDカードを引き抜き、スマートフォンのケースの裏へと隠す。データは消えた。ThinkPadの本体を閉じ紙袋に戻す。
そして自転車に乗った。
ほぼ同じ時刻、安宿では金敏俊も動き始めていた。
渡された服へ着替え、その上から雨合羽を着ると、もう一台の中古自転車で宿を出る。
向かう先はハイド・パークではない。
セント・パンクラス国際駅。
二台の自転車は、早朝のロンドンをまったく異なる方向へ走っていった。
ハイド・パークを離れた男は、霧の街を走りながら、途中で紙袋を抱えたまま自転車を降り、ごく自然な動作でそれを街頭のゴミ箱へ入れた。
そのまま男はロンドン市内を離れ、途中で自転車を放棄して姿を消した。
金敏俊はセント・パンクラス国際駅へ到着すると、自転車を捨て、雨合羽を脱いで駅構内へ入った。
雨合羽の下から現れたのは、洗練されたダークグレーのビジネススーツに身を包み、度の強い金属フレームのメガネをかけ、やや膝に故障が有るような歩き方をする東洋人の男だった。その手には、上質な革製のブリーフケースが握られている。
フランスの審査官は、韓国旅券の表紙を一瞥し、スタンプを機械的に押した。
午前7時15分。
男はセント・パンクラス駅のプラットホームに立っていた。彼の手に握られているのは、ベルギー・ブリュッセル行きの国際高速列車ユーロスターのファーストクラスのチケットだった。
やがて発車ベルが鳴った。
ユーロスターは定刻になると静かにセント・パンクラスを離れ、英仏海峡へ向かった。
金敏俊の予約上の目的地はブリュッセルである。
しかし、彼が降りたのは途中のリールだった。駅を出た金敏俊は、あらかじめ指定されていた建物へ入った。
そこで待っていたのは、蜘蛛班の別の要員だった。金敏俊は再び服を替え、その人物の指示に従って建物を出た。そこから先は、ロンドンで使ったものとは別の自転車で移動した。
しばらくして、あらかじめ定められていた中継地点へ到着する。そこでは蜘蛛班のもう一人の要員が車両で待っていた。金敏俊と自転車を収容すると、車両は北へ向かった。
目的地はダンケルク。
北海に面した巨大な港湾では、毎日大量の貨物船、フェリー、タンカーが出入りしている。その中の一隻に、小野寺久美が菱井物産時代から築いてきた商社ネットワークを通じて、数か月前から密かに手配していた商船があった。
港では事情を知らされたごく少数の案内役が待っていた。金敏俊はその指示に従って船内へ入り、それきりフランスの地上から姿を消した。
船は予定された荷役を終えると、ほかの商船と何ら変わらない姿でダンケルク港を離れた。
そのころロンドンでは、まだ誰も金敏俊を追ってはいなかった。米英の情報機関がようやくハイド・パーク周辺の監視映像を洗い始め、雨合羽を着て自転車で走り去った一人の人物に目を付けるのは、このあとである。
そして、その人物が途中で捨てた紙袋の中から空のThinkPadを発見し、製造番号からCeXの販売記録へ、さらに前日の店内映像へと遡った時、初めて一人の韓国人男性が捜査線上に浮かび上がる。
金敏俊。34歳。
10月30日、大韓航空KE907便で仁川からヒースローへ入国。
そして10月31日の朝、ブリュッセル行きのユーロスターに乗って英国を出た男。その時にはもう、金敏俊はリールにも、ダンケルクにもいなかった。
北海を離れた一隻の商船の中で、日本へ向かっていた。
2030年10月31日ロンドンの午前6時の同時刻、アメリカ東部時間同月同日の午前2時。
世界中のソフトウェア開発者が利用する共有プラットフォームGitHubに、その論文がひっそりとアップされた。
英語で記されたタイトルは、
「カーボンナノチューブの欠点を克服したカーボンスパイダーシルクの発見と応用について(理論編)」
論文冒頭のアブストラクトにはこのようなことが書かれていた。
カーボンナノチューブの弱点を克服した新素材のカーボンスパイダーシルクを発見したことと、ビットコインのブロックチェーン理論によって厳密な品質管理を可能にし、飛躍的に強度を向上させる組成方法によって、現在の送電線より大容量で軽量化されたテザーを製造できる可能性に言及している。
論文は理論と実践の二つに分かれており、今回の発表は理論部分で、製造プロセスに関する実践部分は後日発表予定とのことだった。
……ビットコインのブロックチェーン理論を使っただと……?
論文のアブストラクトを読んだ後に、著者名を見たユーザーたちは一様に瞠目した。
「Hitoshi Nakamoto」
連絡先のメールアドレスはスイスのエンドツーエンド暗号化メールサービス、プロトンメールのアドレス「Hitoshi-Nakamoto@proton.me」となっている。
なぜ、ヒトシ・ナカモトという名が注目されたのか?
去る2008年10月31日、暗号論専門のメーリングリスト「The Cryptography Mailing List」に新しいデジタル通貨に関する論文がアップロードされた。
タイトルは「Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System」(ビットコイン:P2P電子通貨システム)
これこそがビットコインの基礎、後に数千億ドルの市場を生み出し、既存の国際金融秩序を揺るがすことになる暗号資産の原典である。その著者が、「Satoshi Nakamoto」
現在に至るまでサトシ・ナカモトの正体は不明であるが、仮想通貨理論を創出した画期的業績によって、その名は神格化されている。
もしかしたら、これはサトシの新しい論文ではないのか? 日付は、ビットコイン論文が発表されたまさにその日と同じ、10月31日。
なぜファーストネームの一文字だけが異なっているのかは誰にも分からない。だが、もしこれがサトシの再来であるならば、この論文の内容は退屈な悪戯でも、誇大妄想の類でもない。今回もまた、人類のテクノロジーの歴史を塗り替える本物のゲームチェンジャーである可能性が極めて高かった。
熱狂に駆られた一人のユーザーが、2008年のビットコイン論文と、今回のヒトシ論文の双方のテキストデータを高度言語解析AIへと流し込んだ。文体、語彙の選択、数式の記述癖、そして特有のイギリス英語のスペル規則。
「両者の著者が同一人物あるいは同一の連続性を持つ組織である確率は?」
「確率、91パーセント」
AIが弾き出した無機質な回答は、ネットワークを通じて瞬時に世界を駆け巡った。結果は何と91パーセントの確率で同一人物であると判定され、ユーザーたちはいろめきたった。
これはサトシの新しい論文だ!
ネットコミュニティは沸騰した。
サトシが帰ってきた!
世界が再び変貌する、と。




