9 薔薇の花
2030年10月31日アメリカ東部時間午前2時1分。
アメリカ・バージニア州ラングレーのCIA本部には、全世界の公開情報を24時間監視するオープンソース・エンタープライズが設置されている。
カーボンナノチューブという単語は、常にCIAの経済・技術諜報部門のウォッチリストに入っていた。この時、GitHubクローラーが投稿されたばかりの論文を拾い上げ、当直のデータアナリストの端末に黄色いアラートを表示した。
担当官は、最初はまたどこかの大学院生か、技術マニアの誇大妄想だろうと疑ってかかった。GitHubには毎日のように、既存技術を組み合わせただけの自称ブレイクスルーや、実現性の疑わしい論文が投稿される。
だが、著者名を見た担当官の手が止まった。
「Hitoshi Nakamoto……?」
さらに数分後、2008年10月31日に発表されたビットコイン論文との文章解析結果が流れてきた。
文体、単語の選択、数式の記述方法、イギリス英語の綴り。その一致率は91パーセント。
アラートの色が黄色から赤へ変わった。
CIAやNSAにとって、サトシ・ナカモトは20年以上にわたって正体を特定できなかった巨大な未解決案件の一つである。その人物、あるいはそれと極めて近い人物が、ビットコイン論文発表からちょうど22年後の同じ10月31日に、今度はカーボンナノチューブに関する新しい理論を発表した。
論文が本物なのかどうかはまだ分からない。著者が本当にサトシ・ナカモトと関係しているのかも分からない。
しかし、確認しないという選択肢はなかった。
CIA本部からロンドン支局へ緊急照会が飛び、ほぼ同時にMI6、MI5を通じて英国側へ協力要請が入った。
最初に確認されたのは投稿元だった。
ロンドン、ハイド・パーク。
公園内で提供されている公衆無線LAN『_TheRoyalParksFreeWiFi』。
ただし、そこから先がない。
接続に使われた端末の識別情報から投稿者個人へ直接到達することはできず、登録情報にも意味のあるものは残っていなかった。
英国側は直ちに投稿時刻前後のハイド・パーク周辺の監視映像を集め始めた。
問題は、午前6時前後のハイド・パークにいた人間が一人ではないことだった。
早朝のジョギングをする者、犬を散歩させる者、公園を横切る通勤者、自転車で通過する者。それらを一人ずつ抽出し、投稿地点との距離と時間から候補を絞らなければならない。
投稿に使われた場所そのものは監視カメラの視野から外れていた。
したがってCIAと英国側が探したのは、午前6時直前にその一帯へ入り、直後にそこから離れた人物だった。
映像解析システムが、一人の人物を候補として拾い上げた。雨合羽を着て自転車に乗った男だった。顔はよく見えない。
雨合羽が身体全体を覆っているため、体格からの照合も精度が上がらない。しかも徒歩ではなく自転車で移動しているので、通常の歩容認証も役に立たなかった。
ただ、その男は投稿時刻の少し前にハイド・パークへ入り、その後、自転車で公園を離れていた。それだけなら、早朝のロンドンでは珍しい光景ではない。
だが、その後の映像を追っていたアナリストが一つの動作に目を止めた。男は途中で自転車を止めると、それまで持っていた少しかさばる紙袋を街頭のゴミ箱へ入れ、そのまま走り去ったのである。
「止めろ」
映像が巻き戻された。もう一度再生する。やはり紙袋だった。
「このゴミ箱だ。中身を確保してくれ」
英国側から現場へ連絡が飛んだ。すでにごみの回収作業が始まっていたが、対象となった区画の廃棄物はまだ最終処理されていなかった。関係する袋が集められ、一つずつ調べられた。
その中から、黒いノートパソコンが発見された。レノボ製ThinkPad。
内部の記憶装置は抜き取られていた。論文のデータも、通信記録も、投稿者の身元へ直接つながる情報も残っていない。
しかし、CIAのアナリストにとっては十分だった。
「シリアルを調べろ」
そこから捜査は、未来ではなく過去へ向かって走り始めた。
ThinkPadの製造番号から販売経路が調べられ、前日の夕方、トッテナム・コート・ロードの中古電子機器店「CeX」で現金購入された端末であることが判明した。
英国側がCeXの防犯映像を確認すると、一人の東洋人男性が映っていた。
ハイド・パークから自転車で走り去った雨合羽の人物とは、外見から同一人物と断定できない。
むしろ別人である可能性が高かった。
だが、男が購入したThinkPadと、ハイド・パークの投稿直後に捨てられたThinkPadは同じものだった。
CIA内部で仮説が変わった。投稿者本人がPCを買ったのではない。誰かが買い、誰かに渡した。
ならば、PCを購入した男は何者なのか。CeXへ来るまでの男の足取りが調べられた。
店外のカメラ、周辺道路、タクシーの乗降記録。それらを遡るにつれて、男がその日の午後、ヒースロー空港からロンドン市内へ入ってきた可能性が高まっていった。
ヒースロー空港の10月30日の入国記録と到着便の旅客情報が照合された。そこで初めて、一つの名前が浮上した。
金敏俊。34歳。大韓民国旅券。
10月30日、大韓航空KE907便で仁川国際空港からロンドン・ヒースロー空港へ入国。
旅券は真正。顔認証結果も本人。偽造旅券でも、他人へのなりすましでもなかった。
CIA本部の分析官は、画面に表示された金敏俊の入国時の顔写真をしばらく見つめた。
……この男がヒトシ・ナカモトなのか?
だが、その疑問はすぐに別の疑問へ変わった。ハイド・パークから自転車で走り去った人物と、CeXでPCを購入した金敏俊は、どう見ても同一人物とは断定できない。
「こいつの現在位置を調べろ」
ここで初めて、捜査は金敏俊本人の現在地へ向かった。
しかし遅かった。金敏俊はもうイギリスにいなかった。
英国の出国記録と国際列車の旅客情報を調べると、金敏俊はその日の早朝、セント・パンクラス国際駅からユーロスターへ乗車していた。予約上の目的地はベルギーのブリュッセル。
「ベルギーへ連絡しろ」
CIAロンドン支局からブリュッセル側へ緊急照会が飛んだ。犯罪容疑者ではない。逮捕状もない。
CIAがベルギー側へ伝えられるのは、国家安全保障上重要な先端技術情報の公開に関係している可能性があり、所在確認を急いでいる人物だという程度だった。
それでも、米国側が異常なほど急いでいることだけはベルギー側にも伝わった。
だが、ブリュッセル南駅に金敏俊は現れなかった。列車に乗ったことは確認できる。しかし終点まで来ていない。
そこでようやく、途中停車駅が調べられた。フランス北部、リール・ヨーロッパ駅。照会先がベルギーからフランスへ広がった。
フランス側が駅構内の映像を確認すると、韓国旅券を持つ金敏俊と特徴の一致する人物が、確かにリールで列車を降りていた。
だが分かったのはそこまでだった。男は駅を出た。その後、市街地の中で映像の連続性が途切れた。
CIAがロンドンでCeXの防犯映像を調べ、ヒースローの入国記録へ遡り、ようやく金敏俊という名前へ到達したころには、本人はとうにリールを離れていた。
英国、ベルギー、そしてフランス。
捜査対象は国境を越えるたびに増え、確認しなければならない映像と記録も膨れ上がっていった。
それでもCIAにとって、金敏俊は突然、極めて重要な人物になっていた。ヒトシ・ナカモト本人ではないかもしれない。むしろ、その可能性は低い。
しかし、投稿に使用されたPCを購入したことだけは事実である。そしてPCを別の人物へ渡した直後、本人は英国を離れた。
ならば、この男の先に誰かがいる。CIAの関心は、著者不明の論文から、一人の韓国人へと移っていった。
同日、CIAソウル支局へ緊急照会が送られた。金敏俊とは何者なのか。家族は? 勤務先は? 研究機関との接点は? カーボンナノチューブとの関係は? そして、誰からロンドン行きを指示されたのか?
韓国国内での調査が静かに始まった。
一方、中国では、この時点で国家安全部がCIAと同じ追跡を開始していたわけではない。
Hitoshi Nakamotoという名前と論文そのものは、中国国内の政府系技術監視システムにも捕捉されていた。
しかし、論文に記されている用途はあくまで「現在の送電線より大容量で軽量化されたテザーを製造できる可能性」であり、その真の意味を国家安全保障上の最重要案件として認識する者は、まだ北京にはいなかった。
その評価が一変するのは、科学技術部の一人の技術者が論文を読み、それが送電線の改良だけでなく、はるかに巨大な用途へ転用できる可能性に気づいてからである。
10月31日ロンドン時間午前8時00分、東京時間午後5時。
ロンドン市内の蜘蛛班の連絡拠点に、短い暗号通信が入った。
「An insect flew up from the rose.」(薔薇の花から虫が飛び立った)
『薔薇の花』はハイド・パーク、『虫』はヒトシ・ナカモト論文、『飛び立った』はGitHubへの投稿を意味する隠語である。
通信を送ったのは、2時間前にハイド・パークで論文を投稿した蜘蛛班の工作員だった。
投稿に使用したThinkPadから記憶装置を抜き取り、本体は予定された場所へ残した。工作員自身もすでに追跡を避けて蜘蛛班の管理下へ戻っている。
さらに別系統から、金敏俊がセント・パンクラス国際駅で予定どおりユーロスターへ乗車し、英国を離れたことも確認されていた。
予約上の目的地はブリュッセル。実際の目的地はフランス北部のリールである。そこから先は、すでにフランス国内で待機している別班へ引き継がれることになっていた。
ロンドン側から二つの確認を受けた蜘蛛班は、東京へ作戦第一段階の成功を報告した。メールは瞬時に、コードネーム「蜘蛛作戦」を担当する蜘蛛班の特別作戦室へ届いた。
蜘蛛班の特別作戦室は、千代田区九段南の新九段合同庁舎の一般人が絶対に入れない地下防空シェルター内に設置されている。蜘蛛班の構成メンバーは決まっていない。必要に応じて全局から精鋭が集められることになっている。
蜘蛛班を率いる黒崎哲夫班長は、届いた報告を一読した。ヒトシ・ナカモト論文は予定された時刻に公開され、投稿に使ったPCも予定どおり残された。
そして、PCを前日に購入した金敏俊本人は、すでに英国を離れている。
これで鈴虫工作の最初の仕掛けは終わった。
これから米国の情報機関が投稿元を突き止め、監視映像を洗い、捨てられたPCを発見し、CeXの販売記録から金敏俊へたどり着く。
黒崎は即座に上司である国家情報大臣の小野寺久美のスマホへ連絡を入れた。
「薔薇の花から虫が飛び立った」
これは「鈴虫工作」の出だしが成功したことを意味している。論文そのものだけなら、まだ送電線改良に関する技術論文にすぎない。
だがHitoshi Nakamotoという名前が、まずアメリカを動かす。そして論文の意味を理解する者が現れれば、中国もいずれ動き出す。
総理官邸で官房長官と経済安保のブリーフィングをしていた小野寺は、スーツ内側のバイブレーションを感じ、スマホを取り出し一瞬見たが、表情は全く変わらない。
打ち合わせ後、小野寺はすぐに専用エレベーターを使って5階の総理執務室に向かう。エレベーターには、最上位のセキュリティ権限(生体認証やICカードなど)を持つ人物しか搭乗できない制限がかけられている。
総理執務室の隣に総理秘書官室があり、両室は壁とドアによって完全に仕切られている。総理のプライバシーや外交上の極秘電話(首脳会談など)の音声を遮断するため、このドアや壁には高度な防音・遮音加工が施されている。
小野寺は総理秘書官室を通って、総理執務室のドアをノックし「どうぞ」という返事を待ってドアを開けた。
片岡総理は、机の上の書類にペンで何かを書き込んでいたが、小野寺が部屋に入ってくると書類を閉じた。
執務机の前まで歩いてきた小野寺は、片岡総理の顔を見ながら、
「薔薇の花から虫が飛び立ちました」
と、小声で告げた。
「そう。いよいよ始まったってわけね……」




