10 イアン・マーカス
2030年10月31日アメリカ中部時間午前1時。
すでに就寝中のイアン・マーカスは、枕元に置いたスマホの「ブブブ、ブブブ……」というバイブレーションに気がついた。目をつむったままスマホに話しかける。
「どうした? 何か起こったのか?」
イアンは、スマホに搭載している自社製のAI「Grip」に話しかけているのだ。「Grip」にはイアン専用のチャット機能が備わっている。
「新技術アラートに登録されているワード、カーボンナノチューブをテーマとした論文が「GitHub」に投稿されました」
金属的な声ではなく「Grip」によって人が普通に話す音声に変換されている。声はイアンが大好きな Good Morning America(ABC)のチーフ気象予報士であるGinger Zeeを模していた。
「タイトルは?」
「カーボンナノチューブの欠点を克服したカーボンスパイダーシルクの発見と応用について(理論編)、とあります」
「誰が書いたんだ?」
「Hitoshi Nakamotoとあります」
「ヒトシ・ナカモト?」
イアンの眠気がふっとんだ。
すぐに起き上がった彼は怒鳴るようにスマホに言った。
「ヒトシ・ナカモトとは、あのビットコインのやつか?」
「違います。ビットコインの論文の著者はサトシ・ナカモトです」
「なんだ、違う人物か……そいつの所属は? 名前からして日本人なのだろう? 日本の研究者なのか?」
「メールアドレスだけが記載されてます。「Hitoshi-Nakamoto@proton.me」です」
……プロトンメール? スイスのエンドツーエンド暗号化メールサービスだ。身分の秘匿をするやつがよく使う……
イアンの鋭い勘が、何かを嗅ぎ当てた。
……もしかしたら、こいつは……
「その論文の内容は?……むずかしいことはいい……画期的な内容なのか? 実現可能性は?」
「これまでにない理論です。アブストラクトには、現在の送電線より大容量で軽量化されたテザーを製造できる、と書かれています。実現可能性は……80パーセント以上……」
返事を聞いて、イアンはシルクのパジャマを脱ぎ捨てた。
「ガルフストリームを手配しろ。これからすぐにホーソーンに向かう」
「了解」
スマートX社は、EV、宇宙産業、スマホ、ロボット、SNSなどを傘下に持ち、世界に極めて大きい影響を与え続けている。
CEOのイアン・マーカスは、名実ともに世界一の大富豪であるが、立ち居振る舞いはまったく金持ちらしくない。
Tシャツとジーンズ姿でどこにでも顔を出し、そこらへんの学生たちと気軽に議論し、安物のハンバーガーにかぶりついてコーラで流し込む。
だが、そうした軽さの裏側にある彼の信念は、若い時から変わっていない。
不可能を可能にすることが自分のレーゾンデートルである、と固く信じているのだ。
今、突如として彼の前に「不可能事」を「可能事」にする鍵が渡された。
こういう時のイアンは恐れることを知らない猛牛となる。
自社のロケット基地があるテキサス州のメキシコ国境サウス湾に面した自宅を出たイアンは、自家用車として使用している自社のEV(電気自動車)のSUV最上級モデル「Type G」に近づくと自動的にウィングドアが開き、運転席に乗り込んだ。
「システムスタート」
ダッシュボードに声をかけると、かすかな動力が伝わってくる。
「ブラウンズビル・サウス・パドリー・アイランド国際空港へ行け」
ここにイアンのプライベートジェットのガルフストリーム G650ERが駐機している。
オートクルージングモードに入ったSUV「Type G」は静かに発進し、すぐにボカチカブールバード(テキサス州道4号線)を一路西に向かう。空港までの所要時間は約30分。
イアンは、スマホに向かって言った。
「ロサンゼルスのマテリアルズ・ラボ(材料工学研究セクション)のサイラス・ケインを呼び出せ」
「了解」
Gripの声の後に、電話のコール音が5回したのち、相手が出た。
「もしもし、ボス?」
「ああ、俺だ。ケイン。これから3時間後にミーティングを始める。ラボのメンバーを招集しておけ。俺は今そっちに向かっている。ホーソーン市営空港に到着する前に連絡するから迎えをよこしてくれ」
「今から3時間後? 午前2時ってことっすか? ボス、マジっすか?」
イアンが住んでいるテキサス州ボカチカはアメリカ中部時間で、午前1時はロスアンゼルスでは太平洋時間となり、前日10月30日の夜23時である。
「ああ、頼んだぞ。それじゃ、後でな」
イアンは、言いたいことだけ言って、さっさと電話を切った。
……こいつは面白いことになりそうだ……
イアンは、夜の闇を高速で疾走するSUV「Type G」のフロントガラスを睨んでいる。
カーボンテザーについて、イアンにはある程度の専門知識があった。
イアンが宇宙事業を開始したのは2002年のことで、宇宙輸送コストの削減のための再利用可能なロケットの設計・組み立てから、火星への進出をも視野に入れたものだった。
当時、宇宙エレベーターという方法は論外だった。宇宙エレベーターに使用するテザーに実用化のめどがまるで立たなかったからだ。
テザーを使って宇宙エレベーターを作るという構想は、1959年にロシアの科学者ユーリ・アルツターノフによって考案された。その後、アーサー・クラークのSF小説「楽園の泉」によって、現在の宇宙エレベーターの概念が広く普及する。だがこの段階では、宇宙エレベーターは単なる架空の物語にすぎなかった。
地上から宇宙までのテザーは10万キロの長さとなり、100ギガパスカル以上の強度が必要となる。スチールの100倍だ。そんな物質は地球上どこを探しても存在していなかった。
ところが1991年に転機が訪れる。日本の島飯澄夫博士が偶然に新素材を発見したのだ。これがカーボンナノチューブである。鋼の20倍の強度を持ち、かつ、アルミニウムの半分の重量というものだった。この発見によって、宇宙エレベーターのテザーに応用できる可能性が一気に高まった。
しかし物事はそう簡単にはいかない。カーボンナノチューブが持つ本来の強度を保ったまま、それを長く伸ばしていく技術を可能にできないのである。どのように工夫しても品質の劣化が避けられないのだ。
2012年に日本のゼネコンが、宇宙エレベーターの建設構想を発表した。
計画では静止軌道の3万6千キロメートルの高さから、ごく細いカーボンナノチューブテザーを地上に向かっておろし、幅狭のテザーとする。
これをガイドとしてクライマーを510回上下させて糸を太くしていき、最終的には100トンの物資を運搬可能にするという計画である。
しかしあくまで全体構想としての計画であり、相変わらずカーボンナノチューブテザー作成の技術的問題に踏み込んだわけではなかった。未解決のまま時間は過ぎていく。
……そしてようやく今、念願のブレイクスルーが起こったのかもしれない……。
とイアンは思った。
本日発表されたヒトシ・ナカモト論文には、
「カーボンナノチューブの弱点を克服した新素材のカーボンスパイダーシルクを発見したことと、ビットコインのブロックチェーン理論によって厳密な品質管理を可能にし、飛躍的に強度を向上させる組成方法によって、現在の送電線より大容量で軽量化されたテザーを製造できる可能性に言及している」
自社AI「Grip」で評価すると、80パーセント以上の確率で実現可能だというのだ。
送電線改良に関する事業の将来性はもちろん大いに有望だが、イアンにはやはりこのことが気になって仕方ない。
……カーボンナノチューブの弱点を克服した新素材のカーボンスパイダーシルクは、宇宙エレベーターのテザーにも使用できるのではないのか……?
ふと気づくと、広い敷地と滑走路の誘導灯が視界に入ってきた。ブラウンズビル・サウス・パドリー・アイランド国際空港である。
空港のゲート近くまで来たイアンは、SUVのオートクルージングモードを解除して自分で運転し始めた。
一般旅客ターミナル(BRO)ではなく、「ハント・パンナム」が運営する固定基地オペレーター(FBO)と呼ばれるターミナルに向かい、専用駐車場に乗り入れる。
車を降りてFBOに入っていく。
内部は高級ホテルのような豪華な内装で、受付カウンターに近づくと係員がイアンに向かって笑顔で迎えた。お得意様なのだ。
所定の手続きは、政府発行のIDを見せるだけである。
「準備は整っております。どうぞエプロンへお越しください」
イアンは笑顔でうなずき、足早に歩いていく。
建物を出ると駐機しているガルフストリーム G650ERの甲高いエンジン音が聞こえてきた。
機体前方左側のメインエントリードアが下方に開き、そのままエアステアとなって地面へ伸びていた。イアンはそれを足早に登り、すぐ左側の操縦席にいるパイロットとコ・パイロットと握手をする。
「突然のフライトで済まないな」
「別に今始まったことじゃないでしょ」
と顔見知りのパイロットが笑顔で答える。
イアンは、笑顔でその肩をぽんぽんと軽くたたき、客室のエグゼクティブシートにどっしりと座った。
今日は長いフライトではないため、キャビンアテンダントは乗機していない。
操縦席の方から管制塔とのやり取りの声が聞こえてきて、飛行機がゆっくりとタキシングする。
イアンが誘導灯の列を見つめていると、
「出発します」
というアナウンスが聞こえた。
機体後部のロールス・ロイス社製 BR725 A1-12型エンジンがうなりを上げて滑走を開始し、あっという間に離陸する。
ぐんぐん高度を上げるガルフストリームの窓外を眺めつつ、イアンは物思いにふけっていた。




