11 陳宇航
中国の国家公務員たちは極めて優秀である。
彼らは幼少のころから両親に尻を叩かれ、寝る間も惜しんで勉学に励み、現代の科挙と言われる高考において、1000万人を優に超える受験者の上位0.01パーセントに入らなければ、清華大学や北京大学などのトップ校には入学できない。
さらに修士号や博士号を取得し、国考と呼ばれる国家公務員試験に優秀な成績で合格して初めて、この職を手中にすることができるのだ。
そんな秀才の一人に中国科学技術部(MOST)所属の若い技官、陳宇航がいた。
中国では国家公務員といえど、海外のインターネットにアクセスできる権限は極端に制限されているが、陳には許可されている。
彼の職務は西半球の科学サーバーをサーチして宇宙開発、量子通信、半導体、AIなどに関係する新しく画期的な論文を拾い出し、レポートを作成して上司に報告することであった。
これらの分野で毎日発表される何百何千という論文にすべて目を通すのはもちろん不可能で、そのため重要単語を含んだ論文を自動で抽出するAIに頼っている。
中国の政府機関で使用されるAIは、かつて一世を風靡した「DeepSeek」の後継「大鯨」である。
2030年10月31日北京時間午後2時。
陳が韓国サムコン電子がアップした1ナノメートル半導体の研究論文を熟読していた時、ふいに目の前のディスプレイの右下にウィンドウが開いてアラートが表示された。
注意:「カーボンナノチューブ」についての論文が掲載されました!
どうやら、要注意項目の一つが「大鯨」に引っかかったらしい。
読んでいた論文を閉じ、アラートに表示されたリンクをたどって、その論文を画面に出す。テーマは「カーボンナノチューブの欠点を克服したカーボンスパイダーシルクの発見と応用について(理論編)」
……ふーん……
だがテーマの下に記された著者名を見て、はっとした。
……Hitoshi Nakamoto……?
どこかで聞いたことがある名前だと思った時、彼の頭の中ですぐにビットコイン理論の著者名と同じであることに気が付いた。
……いや違う。ヒトシではない。たしかサトシだったはず……
アブストラクトを読み、論文全体にざっと目を通してみたがよくわからない。
清華大学集成電路学院の微納電子系(マイクロ・ナノ電子学系)で博士号を取得している彼には、カーボンナノチューブは専門外である。
だが専門外だからと言って放っておくことはできない。
幼いころから秀才の名をほしいままにしてきた彼は、カーボンナノチューブに関する基礎的知識を大鯨から仕入れ、高強度で超軽量の夢の素材といわれつつも、せいぜい50センチ程度しか伸ばせない限界を突破できていないことを理解した。しかし論文に登場するカーボンスパイダーシルクはこの弱点を克服できるという。
……こいつはヤバい技術じゃないのか……?
イアン・マーカスがプライベートジェットでロサンゼルスに向かって飛行している時、中国科学技術部(MOST)技官の陳宇航も全く同じことに気がついていた。
……こいつはもしかしたら宇宙エレベーターのテザーに使えるんじゃないのか……?
優秀な頭脳を持つ彼は、調べていくうちに重大なことに気が付く。
宇宙エレベーターが単なるロケットによる経費を大幅に削減できるなんていうケチな話ではなく、静止軌道上に広く展開した太陽光パネルから得られる電力を送信し、地上グリッド(世界の電力網)に接続することによって、莫大な利益を生み出すことを悟ったのである。
……もしも中国がこの技術を独占することができたなら……
宇宙太陽光発電の電力を地上グリッドへ常時供給できた場合、そのビジネスがもたらす年間売上は、世界規模で約200兆円という天文学的な数字になる……。
ちなみに2025年の中国の国家予算はだいたい600兆円。つまり予算の三分の一くらいの売上を得られるという途方もないことになるのだ。
陳は、このとんでもない物語に興奮し、のめりこんだ。具体的な宇宙エレベーターの計画の骨子は日本のゼネコンのプランをヒントに想定するとこういう感じになる。
まず宇宙テザーの端を設置するアースポートの位置を決める必要があるが、これは絶対に赤道上でなくてはならない。南北にずれるとテザーが直立できずに歪んでしまうからだ。中国に赤道は通っていないので、アースポートは海外に求める必要がある。
その場合、海上には絶対に設置できないと彼は直感した。
この超重要な施設が建設されればかならずテロの対象になることは容易に想像できる。海上では敵の攻撃を阻止できない。だから陸上に作って自国の軍隊で防御しなければならないのだ。
仮に、陸上のアースポートを親中政権のインドネシアに決めるとする。
地図を見てみるとアースポートはカリマンタン島あたりが理想的である。海に面しているので海上輸送に便利であるし、運搬物資の量を増やすのであれば、近くの港を大規模に改修すればよい。
次に、静止軌道上で発電した電気を地上へ送信し、これを受信する基地を作る必要があるが、これは中国国内でよい。東莞市や広州市が工場地帯であることから、これを中国国内の既存の広域グリッド(南方電網)に接続する。以上で地上のコンストラクション(建物)は完了である。
一方、国内の工場で幅狭のテザーを10万キロメートルの長さで製造するとともに、宇宙で展開できるマシンも建造する。完成したら、海南省の文昌衛星発射センターに運搬し、超大型の次世代キャリアロケット長征9号に搭載して打ち上げる。
宇宙空間上で、テザーを内蔵した展開マシンを切り離し、インドネシアのカリマンタン上空の静止軌道上に移動させる。
その位置から、上下方向に同時に幅狭のテザーを伸ばしていく。上方にも展開が必要なのは、地球の重力と静止軌道から外側に発生する遠心力とを釣り合わせなければ、テザーのバランスが崩れて地球へ落下してしまうからだ。
幅狭のテザーの端部が地上に届いたらアースポートに固定し、メンテ用クライマーを510回往復させて頑丈なテザーに仕上げる。
さらに、物資運搬用クライマー(荷重積載100トン)を開発し、テザーの作成が終了した後、太陽光パネルを大量に持ち上げ、静止軌道上に組み立てていく。同時にレーザーの射出装置も設置し、これらの設備が整い次第、順次稼働を開始する。
費用はどうか? ざっと計算すると、だいたい25兆円ぐらいあれば建設できることが分かった。改めて陳は驚いた。
……順調に稼働すれば、なんと数か月で減価償却できてしまうことになる……
今、中国では数千兆円にも上る不動産バブルの負債が重くのしかかっている。外資が逃げ出し、輸出も関税でままならず、国内経済の低迷は著しい。現状ではとてもこれほどの負債を返済するなど、まったくの不可能事である。
だが、この宇宙エレベーターによる売電事業によって、莫大な利益を得られるようになれば、おどろくほどの短期間に完済できてしまう。
……すごい……
本当だろうか? 自分の推論は間違っていないだろうか? 改めて自分の解釈とそれから組み立てた計画をもう一度検討し直してみた。
……大丈夫だ……ミスはない……
陳は報告用のレポートを書き始めた。既定のフォーマットをダウンロードし、そこに簡潔明瞭に書いていく。
宇宙エレベーターに関しては、あくまで陳の推定であり、200兆円については記載を控えた。論文で言及している送電線改良の方をメインにし、その後にこのように付け加えた。
「一方で、この論文は単なるカーボンナノチューブの改良技術ではない可能性がある。長尺化が理論どおり成立するなら、宇宙エレベーターの最大の技術的障害を除去する可能性がある。清華大学等で直ちに再現実験を行うべきである」
こういう時の彼は仕事が早い。機関銃のようにキーボードをたたく。理系の人間でなくても理解できるように説明するとともに、論の展開に必要な数字の根拠も明確にする。
レポートが仕上がったのは、退勤時間の5時を少し回ったころだった。一通り点検・校正した後「報告送信」ボタンを押した。
……ふう……
なんか今日は疲れた。もうあまり仕事をしたくないと思いつつも、宇宙エレベーターのアラートがなる前に読んでいた、韓国サムコン電子がアップした1ナノメートル半導体の研究論文についてのレポートも書かなくてはならない。
ちょっと面倒にも思ったが、明日に仕事を持ち越したくない。
内容を短時間でまとめてレポートを作成し、「報告送信」ボタンを押したのは、6時半を過ぎていた。
……今日はもう帰ろう……
すばやくデスクの上を片付け、同僚にお先にと声をかけて、玄関口へと向かう。
中国科学技術部は北京市海淀区の復興路にあって、玄関を出てすぐのところにある北京地下鉄1号線の木樨地駅から電車に乗れば、中央省庁の独身専用宿舎がある西二環路まで15分ほどで帰宅できる。
宿舎の最寄り駅の周辺には、個人の小さな飲食店(小吃店)が並んでいてそこで何を食べようかと思いつつ、玄関を出たところでふいに後ろから呼び止められた。
「陳宇航か?」
見ると、平服だがやたらと目つきが鋭い2人組の男が、知らないうちに後ろに立っていた。
「そうだけど……」
と返事をすると、ひとりが持っていた革製の警察手帳を開いて提示した。ゴールドの警察徽章の下に『国家安全部』の文字が印字された人民警察証である。
……えっ、国家安全部? なんで自分が?
と、動転していると、身分証を持っていた人物が静かな声で言った。
「陳宇航。同行してもらおう」
その口調には、有無を言わさぬ力がこもっていた。
もう一人の男が宇航のポケットからスマホを素早く抜き取り、電波を遮断する特製のシールドバッグへ放り込んだ。




