5 蜘蛛作戦
その日の夜、小野寺は新九段合同庁舎の執務室で、パソコンに向かい、省内人事データベースで黒崎哲夫のファイルを閲覧した。
黒崎哲夫。1973年(昭和48年)生まれ。群馬県富岡市出身。地元の公立高校卒業後、18歳で陸上自衛隊に曹候補生として入隊。普通科に配属されたが傑出した語学能力が評価され、4か国語(英語・韓国語・中国語(北京語)・ロシア語)を短期間で習得。また隠密行動に抜群の才能を見せ偵察隊に配属。26歳で幕僚監部調査部へ。45歳で1等陸曹。その後多方面からの推薦を受けながらも幹部試験を拒否し現場に残り続ける。情報本部の特殊枠として准陸尉に特別任用され、定年特例延長の最終年(来年58歳で退官予定)。
……典型的な現場主義者か……
さらに閲覧制限のある「備考欄」にアクセスすると興味深いことが分かった。結婚歴なし子供もなしで独身。母親は1940年生まれで現在は他界している。実父は本人が1歳の時に交通事故で死亡。母親はその後再婚し義父となった人物は黒崎隆(陸軍中野学校出身。別ファイルあり)。義父も現在は他界している。
小野寺は、興味に惹かれて黒崎の義父である黒崎隆のファイルを開いてみた。
黒崎隆。1921年(大正10年)生まれ。東京市神田区出身。1941年(昭和16年)陸軍に入隊。頭角を現して陸軍中野学校(本校)に抜擢。1942年中野学校を卒業後、太平洋戦争の激戦期および末期に特務機関員として満州での諜報作戦・秘密戦に従事。1945年(昭和20年)復員。終戦時の階級は陸軍少尉。
陸軍中野学校とは、大日本帝国陸軍が設置した諜報・防諜・謀略・ゲリラ戦を専門とする軍学校(教育機関)である。
存在自体が高度な軍事機密であり、表向きは通称号で呼ばれた。1938年に前身が設立され、1940年に「陸軍中野学校」へと改称された。教育の特徴では、学生は軍服を脱いで背広を着用し、長髪、偽名を使用するなど徹底した身分秘匿が行われた。
カリキュラムは外国語、国際法、心理学などの高等教養から、暗号、変装、爆薬、ピッキング等の工作技術まで多岐にわたる。
独自の精神で当時の日本軍の主流思想とは異なり、「いかなる手段を使っても生きて虜囚(捕虜)の辱めに耐え抜き任務を遂行せよ」という徹底した合理主義教育が特徴である。見返りを求めない「陰徳陽報」をモットーとした。
1945年の敗戦時に名簿や書類はほとんど焼却されたが、生き残った卒業生は戦後の警察公安、内閣調査室、自衛隊の情報部隊の創設に深く関わったとされる。
翌日、小野寺は黒崎哲夫を新九段合同庁舎の執務室に呼び出した。指定した10時きっかりにドアのノックが聞こえ、直後に姿を現した黒崎の姿は、一見してどこにでもいる野暮ったいおっさんだった。
ドアを閉めてから、その場で直立している黒崎に、小野寺が言った。
「黒崎准陸尉。近くへ」
執務机のそばまで来て直立した黒崎に向かって言った。
「昨日、片岡総理から国家情報省に対し、ある特別作戦を計画し実行せよ、との命令が下された。そこで私は黒崎准陸尉にこの特別作戦の計画立案を命じる。ただし今の段階では計画は概要でよろしい」
「了解」
黒崎は、別に気負った様子もなく即座に答えた。
「詳細についてこれから説明します。楽にして」
見たところ、黒崎はそのままの姿勢を維持している。小野寺は昨日の会議の要旨を説明し始めた。
その間、黒崎はまったく表情を動かすことなく淡々とした様子で聞いているが、説明の細部に至るまで頭に刻み付けているに違いないと小野寺は思っていた。
諜報に関わるプロは決して記録を残さない。すべてを記憶するのだ。それが諜報の世界のルールであることを小野寺は知っていた。
「……説明は以上よ。質問は?」
と小野寺が言った時、黒崎の表情が少し変わって見えた。あきらかにこの作戦に興味をもったような感じがしたのである。
「あります」
と黒崎は即座に答えた。小野寺は無言で促す。
「まず、千曲大の神坂研究員に会わせてください。宇宙エレベーターに使用するカーボンスパイダーシルクについて、もう少し詳細なことを知っておきたいのです。現在東京にいるのなら面会させてください」
「官房長官にすぐ要請をしておく。他には?」
「作戦に必要な人員の選定は私に任せていただけるのでしょうか?」
「黒崎に一任する。他には?」
「作戦計画書の概要はいつまででしょうか?」
「5日以内に。1部だけ作成しコピーは取らないこと。完成したら直接私のところへ持参して。この件に関しては私以外の誰にも口外をしてはならない」
「了解。最後に一つお聞きします」
「何?」
「作戦のコードネームを教えてください」
小野寺は少し考えた。
頭に浮かんだのは芥川龍之介の作品「蜘蛛の糸」である。1918年に発表された児童向けの短編小説で、天上の極楽から垂らされた蜘蛛の糸を登る悪人カンダタの物語を通じて、人間の利己心と因果応報を描いた作品である。
今後、蜘蛛の糸ならぬ宇宙エレベーターにカンダタのような米中のスパイたちが食いついてくる。これほどふさわしい作戦名は他にない。
「コードネームは、蜘蛛作戦とする」
「了解」
そう答えた黒崎は一礼して執務室を静かに出ていった。
新九段合同庁舎を出た黒崎は、市谷の防衛省にもほど近い四ツ谷駅から徒歩10分ほどの目立たない5階建てのビルに入った。ここには国家情報省「第二局(謀略)」の一部が入っている。
自分の席に戻った黒崎は、先ほどの小野寺大臣との会合の内容を思い出していた。
……これは今世紀のマンハッタン計画だ。今回の仕事はその防諜に匹敵する……
マンハッタン計画における防諜とは、第二次世界大戦中、世界初の原子爆弾開発を目指したアメリカ合衆国の国家プロジェクト「マンハッタン計画」において実施された大規模かつ多層的な防諜体制および情報統制である。
この計画は、約20億ドルと13万人を超える人員が投入された巨万のプロジェクトであったが、徹底した秘匿工作により、1945年8月の原爆投下までその実態は国内外に対してほぼ完全に隠蔽された。
1942年に本格始動したマンハッタン計画において、総指揮官のレスリー・グローブス陸軍少将は、ナチス・ドイツや日本などの枢軸国に開発を察知されないよう、徹底的な秘密保持を最優先課題とした。
「知る必要性」の原則を厳格に適用し、計画の全貌を知る者をロバート・オッペンハイマーをはじめとする極一部の幹部・科学者に限定した。
計画の全容漏洩を防ぐため、拠点は全米各地に分散された。兵器設計を行うロスアラモス研究所(ニューメキシコ州)、ウラン濃縮を行うオークリッジ(テネシー州)、プルトニウム製造を行うハンフォード(ワシントン州)などが建設された。各拠点の一般労働者や技術者には作業の断片のみが割り当てられ、自身が最終的に核兵器開発に従事している事実は秘匿されていた。
主要施設は意図的に地図に載らない荒れ地や山岳地帯に建設され、周囲は有刺鉄線と監視塔で囲まれた。憲兵(MP)が24時間体制で検問とパトロールを行い、機密書類の持ち出しや無許可の立ち入りは完全に遮断された。
閉鎖都市に居住する職員やその家族が外部と交わす郵便、電話、電報はすべて軍による検閲・盗聴の対象となった。「原子(Atomic)」「ウラン」「核分裂」などの言葉はNGワードとして使用が禁止され、別の日常単語に置き換えられた。また、ニールス・ボーアなどの著名な科学者が施設間を移動する際は、スパイの目を欺くために偽名が与えられ、軍の護衛が常時同行した。
だが戦時中、枢軸国に対する防諜は完璧に機能したものの、アメリカ側が当時「同盟国」であったソ連に対する警戒を怠ったこと、また科学者個人の思想的動機に基づく内部告発的なスパイ行為までは防ぎきれなかった。
ソ連の諜報機関(NKVD)は計画の内部に複数のスパイを潜入させることに成功していた。彼らは憲兵によるボディチェックの隙を突き、手書きのメモや設計図を衣服に隠して持ち出した。さらに、監視の及ばない休暇中の街で連絡員と接触し、デッド・ドロップ(置き去り連絡)などの古典的手法を用いて機密を渡していたのである。
黒崎は、諜報のプロとしてマンハッタン計画のカウンターインテリジェンスを熟知していた。これだけ精緻な防諜体制を敷いていても、実際はそれを潜り抜けて、初期の段階からソビエトに情報が漏れていたのだ。
総力を挙げたマンハッタン計画でさえ失敗した。アメリカのカウンターインテリジェンスは、いわば力業である。関連施設を人里離れたところに建設し、関係者の家族を丸ごと移し、これでもかというマンパワーでガードし、秘密を守ろうとしたのだ。
だが、現在の日本でこれを真似することは不可能だし、仮にやれたとしても効果は期待できない。当時のアメリカとはネットに代表される通信環境に雲泥の差があるからだ。
……それなら、どうしたらこれを乗り越えられるだろうか……?




