3 片岡聡子
2029年4月に正式スタートした国家情報省は、片岡聡子という傑出した人物と、2028年に起こったある重大事件がなければ決してできるものではなかっただろう。
片岡は、1967年(昭和42年)生まれの63歳。
北関東のごく普通の保守的な家庭の出で、両親は勉強を強いたことは一度も無く、彼女も特に勉学に励んだこともないのに、成績は常に学年トップを維持するという一風変わった少女だった。
あらゆることに興味を持ち、何かにハマるととことんまで追求しなければ気が済まないタイプで、その主な対象は具体的なモノではなく、世の中を動かしている目に見えない力や法則といった類い――ただし理系ではない――である。
彼女が10代の後半ころ、日本経済はちょうど激変期を迎えていた。1985年9月、高校3年生の時、プラザ合意が結ばれ、日本は本格的にバブル期に突入する。
合意前に1ドル約240円だった為替相場は、わずか1年で1ドル150円前後まで急激に円高が進んだ。こうした異常ともいえる経済の激変は、彼女の知的好奇心をいたくくすぐり、進学先の京東大学では経済を専攻する。
大学3年生の時(1988年)、彼女はイギリス留学を決意する。
というのは当時世界で最も強い存在感をしめし、全世界のデキる女性の憧れであった、イギリス史上初の女性首相マーガレット・サッチャーがいたからで、サッチャーとはどんな人物なのか、自分の目で確かめてみたいという思いをこらえきれなかったのだ。
そのころはまだ京東大には交換留学制度がない時代であったが、彼女は持ち前の優秀さによって国際的なR財団から給付型奨学金をゆうゆうと勝ち取り、京東大に休学届を出してケンブリッジへと飛んだ。
中世的で古風な建物群の厳かな雰囲気と、政治・国際情勢にきわめて敏感なキャンパスという異色の取り合わせの中で、東西冷戦の終わり、サッチャー時代の終わり、日本のバブルの終わり、という3つの時代の終焉を一気に体験するという、彼女にとっては、きわめて濃密な2年間だったといえるだろう。
さらに彼女にとって重要であったのは、この時期が1990年代前半からスタートするサイファーパンクの胎動期にあたっていたことである。
サイファーパンクとは、暗号技術を使って匿名による取引を可能にし、政府の規制や課税、経済コントロールのあり方を根本から塗り替えるというもので、後にビットコインを誕生させるサトシ・ナカモトもこのサイファーパンクに影響を受けた一人だった。
まだまだ心残りのことは多かったが、彼女は2年間の留学を終えると日本に戻り(1991年)、京東大学に復学して国家公務員を志望する。イギリスで政治・経済のダイナミズムに大きく惹かれた彼女は、当然のように省庁の中でも大蔵省を目指した。
帰国した後、休む間もなく国家公務員採用Ⅰ種試験の願書を提出し、5月の初めには第1次試験に臨むという過酷なスケジュールだったが、なんなくこれをクリアし、5月下旬の2次試験、6月の面接試験をこなしていった。
7月中旬に発表された結果は、首席合格。
発表当日には大蔵省から連絡があり、省内を案内され、事務次官のこぼれるような笑顔の歓待を受けて、早くも午後には内々定、夕方には高級料亭に連れていかれた。他の省に寝返られないように体よく拘束されるのがこのころのしきたりだった。
そんなこんなで、彼女は翌年、無事大蔵省に入省するものの、若手官僚が誰しも通る過酷な日々が待っていた。大臣官房文書課での連日午前2時、3時にも及ぶ勤務でタクシーの朝帰りが続く。
主計局(予算編成)や銀行局に配属された彼女は、株価・地価暴落に揺れる日本経済の補正予算作成や、倒産寸前の金融機関の対応に追われる。ケンブリッジで学んだスマートな経済理論とは程遠い、泥臭い永田町(政治家)との政治交渉や利害調整の矢面に否応なく立たされる日々が続く。
1997年、彼女が30歳の時、大蔵省は始まって以来の激震に見舞われる。一山証券の破綻と金融危機、そして続く官民癒着の過剰接待文化による国民のごうごうたる非難を受け、2001年の省庁再編により大蔵省は金融庁と財務省に分離・解体されることとなった。
しかしそんな中でも彼女の存在感は増していく。
国際金融局(現・国際局)に配属され、ケンブリッジ仕込みの完璧な英語と、欧州統合やポンド危機の知見を武器に、G7やG20、IMF(国際通貨基金)との国際交渉の最前線へ投入された。
アジア通貨危機(1997年)後の支援策や、米リーマン・ショック(2008年)時の国際協調において、各国財務省・中央銀行の要人と対等に渡り合い、日本のタフ・ネゴシエーターとして世界に名を知られる存在となっていく。
その後も、主税局や主計局の要職を歴任し、少子高齢化で膨らみ続ける社会保障費と国債(赤字)を抑えるため、消費税増税や税制改正の泥をかぶる重要局の主査・課長として、政治家とのタフな交渉を仕切った。
2004年(平成16年)、37歳だった彼女はまさに財務省の主計局主計官補佐や国際局の企画官など、本省の第一線で日本の産業・貿易・財政のデータを分析する立場にいた。
その年、日本の製造業を揺るがす象徴的な事件が起こる。崎川重工による中国への新幹線技術移転と、その後に続いた中国側による独自特許申請問題である。
自国が長年かけて培った至高の技術が、甘い契約と見通しの下であっさりと吸い上げられ、奪われていく過程を、彼女は現場のデータを通して生々しく目撃した。技術流出がもたらす国家的な損失と構造的な脆弱性に、彼女は強い危機感を抱く。
さらに決定打となったのが、2010年の尖閣諸島沖衝突事件に伴う、中国によるレアアースの輸出制限と経済的威圧であった。
特定の重要物資やサプライチェーンを人質に取り、外交的なディールを迫る中国の露骨な手法を前に、聡子の脳裏には鮮明な確信が刻み込まれる。
……経済と国家安全保障は別物ではない。経済そのものがすでに強力な兵器なのだ。
将来の女性初の財務事務次官の呼び声も高まり始めていた40代半ば、彼女の人生に予期せぬ転機が訪れる。
政界を引退する義父――地元・群馬県選出の大物国会議員から、地盤を引き継いで出馬しないかという打診があったのだ。
本来であれば、30代前半で結婚した夫が後継者となるはずだった。しかし、夫は病弱であり、永田町の壮絶な政争に耐えられる体力はない。無理に出馬して潰れるくらいなら、極めて優秀な妻を政治家として羽ばたかせ、自分はそれを支える側に回るべきではないか。
「俺の体じゃ永田町はもたない。だが君の頭脳なら親父の地盤を使って日本のトップまで行ける。俺は地元で君の一番の理解者・補佐役として裏方に徹するよ」
夫の言葉は、冷徹なまでの現実性と深い信頼に満ちていた。夫婦の利害と覚悟は見事に一致した。
2010年秋、外交危機とねじれ国会による政治の混迷が極まる中、この極限状態こそが彼女に財務省のバッジを捨てさせ、政界という修羅場へ飛び込ませる絶好の舞台となる。
義父の地盤を継ぐのは、病弱な息子ではなくあの凄腕の嫁だ。永田町と地元の後援会に激震が走った。当初、地元の古参幹部や後援会組織には困惑と動揺が広がった。その懸念は初日の演説で一瞬にして霧散する。
壇上に立った聡子は、2004年の新幹線技術流出や2010年の尖閣ショックを具体的に挙げ、日本が直面している致命的な危機と政治の無策を鋭く突いた。その圧倒的な知識量、ロジックの冴え、そして会場全体を呑み込む異質なオーラに、聴衆は息を呑んだ。
古参幹部たちの困惑は、一変してこの嫁さんは本物の大物だという激しい熱狂へと変わっていった。正直なところを言うならばこのタマなら勝てるという確信である。
こうして2012年冬の衆議院議員総選挙――民自党による政権奪還選挙において、彼女は義父の看板と地盤を圧勝という形で継承し、45歳で待望の初当選を果たしたのである。
政権奪還を果たし、第二次倍安内閣が発足した当時の民自党内において、片岡聡子は単なる新人議員(1回生)の枠をはるかに超えた異例の扱いと、猛烈な警戒心をもって迎えられた。
倍安総裁や生麻財務大臣ら党幹部にとって、彼女は喉から手が出るほど欲しかった理想の即戦力であり、新政権の目玉ルーキーであった。
京東大首席・ケンブリッジ留学・元財務省主計官・40代女性という圧倒的なバックボーンは、政権奪還を果たした民自党が新しく生まれ変わった改革政権であることを内外に強烈にアピールする絶好のアイコンとなる。
そのため、通常であれば新人議員が配属されない党政務調査会の要衝――財務金融部会や経済産業部会において、1回生でありながら即座に議論の仕切り役や法案取りまとめ役に抜擢された。
特に生麻財務相ら霞が関を知る重鎮からの信頼は絶大である。財務省本省の現役幹部らと対等以上に渡り合ってきた経歴を持つ彼女に対し、大臣や党幹部は「おい片岡、財務省の本音はどうなんだ」「主計局のロジックを崩す対抗策を書け」と、新人扱いではなく政策のトップアドバイザーとして重用した。
一方で、党内の同世代や中堅の男性議員たちからは、その巨大すぎる存在感ゆえに強い嫉妬と恐怖の対象となった。
この2012年衆院選では、民自党の新人議員――いわゆる「2012年組」が119人も大量当選している。その多くが地元の二世や若手候補者であり、国会の仕組みも政治交渉も手探り状態の「右も左もわからない」新人たちであった。
その中で、国会質疑の立ち回りから法案作成の裏事情まで熟知している聡子の存在は異彩を放っていた。同期の新人たちは彼女の圧倒的なオーラと能力に気おされ、自然と彼女を中心とした勉強会やグループが形成されていく。
さらに彼女は、当選直後から党内で独自の確固たるポジションを築き上げた。それが経済安全保障の開拓である。
2012年当時、民自党内の安全保障論議といえば「防衛費増額」や「憲法改正」「集団的自衛権の行使容認」といった従来の伝統的安保が主流であった。その中で彼女は、2010年の尖閣ショック(レアアース禁輸)の記憶を胸に、国防族や経済部会の重鎮たちに説いて回った。
「本当の危機は、目に見える武力衝突だけではありません。サプライチェーンの分断、先端技術の流出、そして外資による国内重要土地の買収です」
当初は、大蔵省出身だから数字と理屈の話しかできないのだろうと冷ややかに見ていたタカ派の重鎮たちも、彼女が提示する中国の経済依存リスクに関する緻密なデータと冷徹な分析の前に絶句し、この女の言うことは本物だと認めざるを得なくなった。こうして彼女は、党内で経済と安全保障を統合して語れる唯一無二の存在として、誰にも真似できないポジションを確立したのである。
2012年の初当選時における民自党での彼女の立ち位置は、けっして単なる客寄せパンダではなかった。最初から政権の脳として機能する、最も頼もしく、かつ最も危険なスーパールーキーであった。
党内の長老たちから警戒され、嫉妬の視線を浴びながらも、その圧倒的な知性と政策立案能力によって、彼女は1期目にして将来の女性閣僚・総理候補の最有力リストへと、一気に駆け上がっていくこととなったのである。




