秋田・第一話
湖底から呼ぶ声
田沢湖では、
夜の湖に向かって、
自分の名前を呼んではいけない。
それを聞いたのは、
秋田へ旅行に来て、
二日目の夜だった。
「なんで?」
俺が聞くと、
宿の女将は、
少し困ったように笑った。
「昔からの言い伝えです」
「名前を呼ぶと、
どうなるんですか?」
女将は、
湖の方を見た。
「返事が返ってくるんです」
「それだけ?」
「……返事をした人の声で」
その意味が、
そのときの俺には、
分からなかった。
---
俺の名前は、
高橋直人。
三十五歳。
妻の美香と、
秋田へ旅行に来ていた。
仕事に疲れていた。
何も考えず、
静かな場所へ行きたかった。
田沢湖を選んだのも、
その程度の理由だった。
昼間の湖は、
美しかった。
青い。
あまりにも青い。
湖というより、
巨大な水槽のようだった。
観光客も多い。
写真を撮る人。
遊歩道を歩く人。
土産物を買う人。
俺も、
何枚か写真を撮った。
その中に、
一枚だけ、
妙な写真があった。
湖を撮っただけなのに、
水面の中央に、
人の顔のようなものが写っていた。
「これ、
人じゃない?」
美香が言った。
「反射だろ」
「でも、
顔に見える」
「そういう写真ってあるよ」
俺は、
気にしなかった。
そのときは。
---
夕方。
宿に戻った。
夕食を食べ、
風呂に入り、
部屋で酒を飲んでいた。
午後十一時。
美香が、
窓の外を見た。
「月、
綺麗だね」
「湖も見える?」
「うん」
「ちょっと見に行く?」
美香が、
首を横に振った。
「やめとく」
「怖いの?」
「なんか、
さっき女将さんに言われたことが気になる」
「名前を呼ぶなってやつ?」
「うん」
俺は笑った。
「そんなの迷信だよ」
「でも、
夜の湖って怖くない?」
「まあ、
ちょっとは」
「じゃあ、
行かなくていい」
俺たちは、
そのまま寝た。
---
午前二時。
俺は、
目を覚ました。
「……」
喉が渇いていた。
水を飲もうと、
起き上がる。
そのとき。
窓の外から、
声がした。
「直人」
俺は、
固まった。
妻は寝ている。
「……」
もう一度。
「直人」
女性の声。
美香の声だった。
俺は、
妻を見る。
寝ている。
「……美香?」
返事はない。
窓の外を見る。
月明かり。
湖。
そして、
水面に立つ女。
長い髪。
白い服。
湖の上に、
立っている。
「……」
俺は、
声が出なかった。
女は、
こちらを見ている。
そして、
もう一度。
「直人」
俺は、
窓から離れた。
その瞬間。
隣で、
美香が起きた。
「どうしたの?」
「……」
「直人?」
俺は、
妻を見る。
「今、
俺の名前呼んだ?」
「うん」
「……」
「どうしたの?」
俺は、
窓を指差した。
「外に、
誰かいる」
美香が、
窓を見る。
「誰もいないよ」
「さっきいた」
「本当に?」
「うん」
美香は、
カーテンを閉めた。
「もう寝よう」
「……」
俺は、
何も言わなかった。
---
翌朝。
女将に聞いた。
「昨夜、
湖で人を見たんですが」
女将の顔から、
笑顔が消えた。
「……何時頃ですか?」
「二時くらい」
「名前を、
呼ばれませんでしたか?」
俺は、
黙った。
「……呼ばれました」
女将は、
しばらく俺を見ていた。
そして、
小さな声で言った。
「返事は?」
「してません」
「本当に?」
「はい」
女将は、
安堵したように息を吐いた。
「なら、
まだ大丈夫です」
「まだ?」
女将は、
答えなかった。
---
その日の午後。
俺たちは、
もう一度、
湖へ行った。
昨夜のことを、
確認したかった。
昼の湖は、
何も怖くない。
観光客。
ボート。
土産物店。
昨日と同じ景色。
「気にしすぎだったんじゃない?」
美香が言う。
「そうかもな」
俺は笑った。
そのとき。
湖畔に、
古い男性が立っているのが見えた。
釣り竿を持っている。
俺たちを見ていた。
老人は、
俺に近づいてきた。
「昨夜、
湖を見たか?」
「はい」
「女を?」
俺は、
黙った。
老人は、
ため息をついた。
「見たなら、
もう湖には近づくな」
「どうして?」
老人は、
湖を見る。
「昔から、
湖には女がいる」
「辰子姫ですか?」
老人は、
首を横に振った。
「違う」
「じゃあ、
誰なんです?」
老人は、
答えた。
「辰子姫より、
ずっと前からいる」
---
俺は、
笑えなかった。
「何なんですか?」
老人は、
声を低くした。
「昔、
この湖で、
村の娘が一人、
死んだ」
「事故ですか?」
「違う」
「じゃあ?」
「自分から、
湖に入った」
「なぜ?」
老人は、
黙った。
そして、
言った。
「名前を、
呼ばれたからだ」
---
その夜。
宿へ戻る。
俺は、
何度も考えた。
名前を呼ばれた。
湖に立つ女。
老人の話。
偶然だ。
そう思いたかった。
だが、
午後十一時。
スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
「……」
出る。
「もしもし?」
返事がない。
ただ、
水の音。
ザァ……
ザァ……
「もしもし?」
そのとき。
電話の向こうから、
俺の声がした。
「もしもし?」
俺は、
凍った。
「……誰?」
「誰?」
俺の声。
「お前、
誰だ?」
「お前、
誰だ?」
同じ声。
同じ口調。
まるで、
録音ではない。
俺が言った言葉を、
少し遅れて、
そのまま返している。
「切るぞ」
「切るぞ」
俺は、
電話を切った。
すると、
すぐに、
着信。
同じ番号。
切る。
また着信。
切る。
三回目。
美香が、
不安そうに見る。
「何?」
「知らない番号」
「出ない方がいいよ」
「そうだな」
スマートフォンを、
テーブルに置いた。
だが、
画面に、
メッセージが表示された。
「今、どこにいる?」
送信者は、
自分の番号。
「……」
俺は、
背筋が寒くなった。
「何?」
美香が聞く。
「俺から、
メッセージが来た」
「え?」
「自分の番号から」
美香が、
画面を見る。
そして、
顔を強張らせた。
「返信、
来てる」
「え?」
メッセージが、
もう一つ。
「湖の前」
俺は、
窓を見る。
カーテンは閉まっている。
だが、
外から、
水の音がする。
ザァ……
ザァ……
「……」
そして、
声。
「直人」
俺は、
息を止めた。
美香が、
俺を見る。
「今、
聞こえた?」
「……うん」
「誰?」
「分からない」
声は、
また呼んだ。
「直人」
今度は、
美香の声。
俺は、
妻を見る。
美香は、
何も喋っていない。
それなのに、
窓の外から、
美香の声。
「直人、
開けて」
---
俺は、
カーテンを開けなかった。
美香が、
俺の腕を掴む。
「絶対、
開けないで」
「分かってる」
「何かいる」
「うん」
しばらく、
声は続いた。
「直人」
「開けて」
「直人」
「私だよ」
美香が、
震えている。
「……私の声」
「うん」
「どうして?」
「分からない」
突然、
声が止まった。
静寂。
そして、
スマートフォンが鳴る。
メッセージ。
「美香はそこにいる?」
俺は、
妻を見る。
「……」
美香は、
青ざめた。
「いるよ」
「じゃあ、
誰が送ってるんだ?」
俺たちは、
黙った。
そのとき。
また、
メッセージ。
「その女は美香じゃない」
美香が、
俺を見る。
「……何?」
「何でもない」
俺は、
スマートフォンを伏せた。
「見せて」
「いい」
「見せて!」
「大丈夫だから」
美香が、
突然、
泣き始めた。
「直人」
「何?」
「私、
本当に美香?」
「……」
「どう思う?」
俺は、
答えられなかった。
---
翌朝。
俺は、
一人で女将のところへ行った。
「昨日、
妻の声をしたものが、
湖から呼んできました」
女将は、
黙っていた。
「教えてください」
「何を?」
「湖にいるものは、
何なんですか?」
女将は、
しばらく迷った。
そして、
古い帳面を取り出した。
「昔、
この宿の主人が書いたものです」
帳面には、
古い文字。
俺は、
ページをめくった。
そこには、
こう書かれていた。
――湖は、
人を映す。
――姿だけではない。
――声も、
記憶も、
名前も。
俺は、
ページをめくる。
――湖に名前を呼ばれた者は、
三度、
自分の声を聞く。
――一度目は、
湖から。
――二度目は、
身近な人間から。
――三度目は、
自分自身から。
――三度目に、
返事をすると、
湖の中に、
自分と同じものが生まれる。
俺は、
顔を上げた。
「……同じもの?」
女将は、
頷いた。
「あなたの姿をしたもの」
「それが、
どうなるんですか?」
女将は、
答えなかった。
俺は、
続きを読む。
――そして、
それは、
本人より先に、
家へ帰る。
俺の手から、
帳面が落ちた。
「……」
「どうしました?」
「昨夜、
自分の番号から、
メッセージが来ました」
女将の顔が、
変わった。
「どんな内容です?」
俺は、
言った。
「『今、どこにいる?』」
女将は、
目を閉じた。
「もう、
帰ったのかもしれません」
---
俺は、
部屋へ戻った。
ドアを開ける。
「美香?」
返事がない。
「美香?」
部屋に、
妻はいなかった。
ベッド。
荷物。
窓。
何もない。
テーブルの上に、
スマートフォン。
画面には、
メッセージ。
俺から。
「今から帰る」
俺は、
震える手で、
妻へ電話した。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
四回目。
「もしもし」
美香の声。
「美香!」
「どうしたの?」
「どこにいる?」
「湖」
「……」
「どうして?」
「何で湖にいるんだ!」
電話の向こうで、
美香が笑った。
「あなたが、
呼んだから」
「呼んでない!」
「呼んだよ」
「いつ?」
「今」
俺は、
電話を耳から離した。
俺の後ろ。
部屋の中から、
声。
「直人」
俺は、
ゆっくり振り返った。
美香が立っていた。
「……」
俺は、
電話を見る。
通話中。
そして、
目の前の美香を見る。
「……誰?」
目の前の美香が、
笑った。
「私だよ」
電話の向こうの美香も、
同時に言った。
「私だよ」
俺は、
動けなかった。
二人の声が、
完全に同じだった。
「直人」
「直人」
「どっちが本物か、
分かる?」
俺は、
後ずさった。
「……」
目の前の美香が、
近づいてくる。
「ねえ」
電話の向こうの美香も、
言う。
「ねえ」
「私を選んで」
「私を選んで」
俺は、
叫んだ。
「やめろ!」
二人が、
同時に笑った。
---
俺は、
部屋を飛び出した。
宿の廊下を走る。
階段を下りる。
玄関へ。
外へ。
湖へ向かう道とは、
反対方向へ走る。
しかし。
気づくと、
湖畔に立っていた。
「……」
周囲には、
誰もいない。
湖が、
目の前にある。
静か。
鏡のような水面。
その中央に、
誰かが立っている。
俺だった。
もう一人の俺。
水面の上に、
立っている。
そいつが、
笑う。
「やっと来た」
俺は、
逃げようとした。
だが、
足が動かない。
「お前は、
何なんだ」
湖の中の俺は、
答えた。
「お前だよ」
「違う」
「同じだよ」
「俺は、
ここにいる」
「俺も、
ここにいる」
「……」
「どっちが、
本物だと思う?」
俺は、
黙った。
湖の中の俺が、
ゆっくり近づいてくる。
水面を歩いて。
「昨日、
お前は、
俺を見た」
「……」
「今日、
お前は、
俺を聞いた」
「……」
「明日は、
俺がお前になる」
俺は、
震えた。
「どういう意味だ?」
湖の中の俺が、
笑った。
「簡単だよ」
そして、
水面から手を伸ばす。
「お前が、
湖に来たんだから」
---
俺は、
後ろへ下がった。
その瞬間。
背後から、
誰かが俺の肩を掴んだ。
「直人!」
美香だった。
「逃げて!」
俺は、
美香の手を掴む。
二人で走る。
湖から離れる。
宿へ戻る。
女将が、
俺たちを見る。
「どうしたんです?」
俺は、
息を切らしながら言った。
「湖に、
俺がいました」
女将は、
黙った。
そして、
美香を見る。
「……」
「何ですか?」
美香が聞く。
女将は、
俺を見る。
「あなた、
一人で戻ってきたんですか?」
俺は、
意味が分からなかった。
「美香と一緒です」
女将は、
ゆっくり首を振った。
「……その人、
あなたの奥さんじゃありません」
俺は、
美香を見る。
「何言ってるんですか」
女将が、
震える手で、
宿帳を指差した。
「昨夜、
奥様は、
ここに名前を書いています」
宿帳を見る。
そこには、
確かに、
美香の名前。
その下に、
もう一つ。
俺の名前。
そして、
その横に、
赤い文字。
「二人とも湖へ帰る」
俺は、
美香を見る。
美香は、
笑っていた。
「直人」
「……」
「帰ろう」
「どこへ?」
美香は、
湖を指差した。
「もちろん、
湖へ」
---
俺は、
その場から逃げた。
宿を出る。
車へ乗る。
一人で。
美香を置いて。
いや。
置いてきたのは、
本当に美香なのか?
分からない。
何度も電話が鳴る。
出ない。
メッセージが来る。
「どうして置いていったの?」
次。
「私は本物だよ」
次。
「あなたのこと、全部知ってる」
次。
「あなたしか知らないことも」
俺は、
スマートフォンを投げた。
高速道路へ入る。
秋田を離れる。
湖から離れる。
どんどん離れる。
もう大丈夫。
そう思った。
---
三時間後。
サービスエリアに車を停めた。
喉が渇いた。
車を降りる。
自動販売機で水を買う。
そのとき、
背後から声がした。
「直人」
俺は、
振り返らなかった。
「直人」
無視する。
「直人」
無視する。
「……」
声が、
近づいてくる。
「直人」
耳元。
「あなた、
私を置いていったでしょう?」
俺は、
目を閉じた。
そして、
気づいた。
足元に、
水が広がっている。
道路なのに。
雨は降っていない。
水たまり。
その水面に、
顔が映っている。
俺の顔。
笑っている。
そして、
水面の中の俺が、
言った。
「一人で帰れると思った?」
俺は、
走った。
車へ戻る。
ドアを開ける。
エンジンをかける。
その瞬間。
助手席に、
誰かが座っていた。
美香。
「……」
俺は、
声が出なかった。
美香は、
こちらを向く。
「お帰り」
「……」
「遅かったね」
俺は、
震えながら聞いた。
「お前、
誰だ」
美香は、
悲しそうに笑った。
「まだ、
分からないの?」
「……」
「私は、
あなたが湖で見たもの」
俺は、
ドアを開けようとした。
ロックされている。
「開けろ!」
美香が、
俺の手を握る。
冷たい。
異常に冷たい。
「直人」
「離せ!」
「私の名前、
呼んで」
「……」
「一度だけでいいから」
俺は、
黙った。
美香が、
笑う。
「呼んでくれたら、
本物になれるから」
その言葉を聞いた瞬間。
俺は、
理解した。
こいつは、
美香じゃない。
俺が名前を呼ぶことを、
待っている。
だから、
呼ばない。
絶対に。
俺は、
黙ったまま、
目を閉じた。
美香は、
しばらく黙っていた。
やがて、
小さな声で、
言った。
「……そう」
「……」
「じゃあ、
私が呼ぶ」
俺は、
目を開けた。
美香が、
俺を見ている。
そして、
俺の名前を呼んだ。
「直人」
何も起こらない。
「直人」
まだ。
「直人」
三度目。
その瞬間。
車の窓が、
一斉に水で覆われた。
外が見えなくなる。
車内に、
水の音。
ザァ……
ザァ……
そして、
後部座席から、
声。
「直人」
俺は、
ゆっくり振り返った。
後部座席に、
誰かが座っている。
もう一人の俺。
そして、
その隣に、
もう一人の美香。
二人とも、
笑っている。
「……」
俺は、
動けなかった。
二人が、
同時に言った。
「帰ろう」
「どこへ?」
俺が聞く。
二人は、
答えた。
「湖」
---
それから、
俺の記憶は、
途切れている。
警察によれば、
俺の車は、
田沢湖の近くで発見された。
事故ではなかった。
鍵も、
車内に残っていた。
俺だけが、
いなくなっていた。
捜索が行われた。
湖も調べた。
だが、
何も見つからなかった。
妻も見つからない。
俺も、
見つからない。
ただ。
宿の女将が、
最後に一つだけ、
妙なことを話していた。
事故の翌朝。
湖の水面に、
二人の人影が立っていたという。
男と女。
二人は、
手をつないでいた。
そして、
湖の中央から、
誰かが叫んでいた。
「おいで」
「ここなら、
ずっと一緒にいられる」
---
数週間後。
田沢湖を訪れた観光客が、
一枚の写真を撮った。
美しい湖。
青い水面。
何気ない風景写真。
だが、
写真を拡大すると、
湖の中央に、
二人の男女が立っていた。
男は、
カメラを見ている。
女も、
こちらを見ている。
そして、
二人の後ろに、
もう一人。
男。
俺だった。
三人は、
手をつないでいる。
その写真を見た人は、
誰も気づかなかった。
三人のうち、
真ん中にいる男だけが、
口を動かしていることに。
写真を拡大すると、
唇の形から、
何と言っているのか分かる。
「名前を呼んで」
――秋田・第一話 終。




