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日本の怖い話  作者: こうた


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9/21

秋田・第一話

湖底から呼ぶ声


田沢湖では、


夜の湖に向かって、


自分の名前を呼んではいけない。


それを聞いたのは、


秋田へ旅行に来て、


二日目の夜だった。


「なんで?」


俺が聞くと、


宿の女将は、


少し困ったように笑った。


「昔からの言い伝えです」


「名前を呼ぶと、


どうなるんですか?」


女将は、


湖の方を見た。


「返事が返ってくるんです」


「それだけ?」


「……返事をした人の声で」


その意味が、


そのときの俺には、


分からなかった。


---


俺の名前は、


高橋直人。


三十五歳。


妻の美香と、


秋田へ旅行に来ていた。


仕事に疲れていた。


何も考えず、


静かな場所へ行きたかった。


田沢湖を選んだのも、


その程度の理由だった。


昼間の湖は、


美しかった。


青い。


あまりにも青い。


湖というより、


巨大な水槽のようだった。


観光客も多い。


写真を撮る人。


遊歩道を歩く人。


土産物を買う人。


俺も、


何枚か写真を撮った。


その中に、


一枚だけ、


妙な写真があった。


湖を撮っただけなのに、


水面の中央に、


人の顔のようなものが写っていた。


「これ、


人じゃない?」


美香が言った。


「反射だろ」


「でも、


顔に見える」


「そういう写真ってあるよ」


俺は、


気にしなかった。


そのときは。


---


夕方。


宿に戻った。


夕食を食べ、


風呂に入り、


部屋で酒を飲んでいた。


午後十一時。


美香が、


窓の外を見た。


「月、


綺麗だね」


「湖も見える?」


「うん」


「ちょっと見に行く?」


美香が、


首を横に振った。


「やめとく」


「怖いの?」


「なんか、


さっき女将さんに言われたことが気になる」


「名前を呼ぶなってやつ?」


「うん」


俺は笑った。


「そんなの迷信だよ」


「でも、


夜の湖って怖くない?」


「まあ、


ちょっとは」


「じゃあ、


行かなくていい」


俺たちは、


そのまま寝た。


---


午前二時。


俺は、


目を覚ました。


「……」


喉が渇いていた。


水を飲もうと、


起き上がる。


そのとき。


窓の外から、


声がした。


「直人」


俺は、


固まった。


妻は寝ている。


「……」


もう一度。


「直人」


女性の声。


美香の声だった。


俺は、


妻を見る。


寝ている。


「……美香?」


返事はない。


窓の外を見る。


月明かり。


湖。


そして、


水面に立つ女。


長い髪。


白い服。


湖の上に、


立っている。


「……」


俺は、


声が出なかった。


女は、


こちらを見ている。


そして、


もう一度。


「直人」


俺は、


窓から離れた。


その瞬間。


隣で、


美香が起きた。


「どうしたの?」


「……」


「直人?」


俺は、


妻を見る。


「今、


俺の名前呼んだ?」


「うん」


「……」


「どうしたの?」


俺は、


窓を指差した。


「外に、


誰かいる」


美香が、


窓を見る。


「誰もいないよ」


「さっきいた」


「本当に?」


「うん」


美香は、


カーテンを閉めた。


「もう寝よう」


「……」


俺は、


何も言わなかった。


---


翌朝。


女将に聞いた。


「昨夜、


湖で人を見たんですが」


女将の顔から、


笑顔が消えた。


「……何時頃ですか?」


「二時くらい」


「名前を、


呼ばれませんでしたか?」


俺は、


黙った。


「……呼ばれました」


女将は、


しばらく俺を見ていた。


そして、


小さな声で言った。


「返事は?」


「してません」


「本当に?」


「はい」


女将は、


安堵したように息を吐いた。


「なら、


まだ大丈夫です」


「まだ?」


女将は、


答えなかった。


---


その日の午後。


俺たちは、


もう一度、


湖へ行った。


昨夜のことを、


確認したかった。


昼の湖は、


何も怖くない。


観光客。


ボート。


土産物店。


昨日と同じ景色。


「気にしすぎだったんじゃない?」


美香が言う。


「そうかもな」


俺は笑った。


そのとき。


湖畔に、


古い男性が立っているのが見えた。


釣り竿を持っている。


俺たちを見ていた。


老人は、


俺に近づいてきた。


「昨夜、


湖を見たか?」


「はい」


「女を?」


俺は、


黙った。


老人は、


ため息をついた。


「見たなら、


もう湖には近づくな」


「どうして?」


老人は、


湖を見る。


「昔から、


湖には女がいる」


「辰子姫ですか?」


老人は、


首を横に振った。


「違う」


「じゃあ、


誰なんです?」


老人は、


答えた。


「辰子姫より、


ずっと前からいる」


---


俺は、


笑えなかった。


「何なんですか?」


老人は、


声を低くした。


「昔、


この湖で、


村の娘が一人、


死んだ」


「事故ですか?」


「違う」


「じゃあ?」


「自分から、


湖に入った」


「なぜ?」


老人は、


黙った。


そして、


言った。


「名前を、


呼ばれたからだ」


---


その夜。


宿へ戻る。


俺は、


何度も考えた。


名前を呼ばれた。


湖に立つ女。


老人の話。


偶然だ。


そう思いたかった。


だが、


午後十一時。


スマートフォンが鳴った。


知らない番号。


「……」


出る。


「もしもし?」


返事がない。


ただ、


水の音。


ザァ……


ザァ……


「もしもし?」


そのとき。


電話の向こうから、


俺の声がした。


「もしもし?」


俺は、


凍った。


「……誰?」


「誰?」


俺の声。


「お前、


誰だ?」


「お前、


誰だ?」


同じ声。


同じ口調。


まるで、


録音ではない。


俺が言った言葉を、


少し遅れて、


そのまま返している。


「切るぞ」


「切るぞ」


俺は、


電話を切った。


すると、


すぐに、


着信。


同じ番号。


切る。


また着信。


切る。


三回目。


美香が、


不安そうに見る。


「何?」


「知らない番号」


「出ない方がいいよ」


「そうだな」


スマートフォンを、


テーブルに置いた。


だが、


画面に、


メッセージが表示された。


「今、どこにいる?」


送信者は、


自分の番号。


「……」


俺は、


背筋が寒くなった。


「何?」


美香が聞く。


「俺から、


メッセージが来た」


「え?」


「自分の番号から」


美香が、


画面を見る。


そして、


顔を強張らせた。


「返信、


来てる」


「え?」


メッセージが、


もう一つ。


「湖の前」


俺は、


窓を見る。


カーテンは閉まっている。


だが、


外から、


水の音がする。


ザァ……


ザァ……


「……」


そして、


声。


「直人」


俺は、


息を止めた。


美香が、


俺を見る。


「今、


聞こえた?」


「……うん」


「誰?」


「分からない」


声は、


また呼んだ。


「直人」


今度は、


美香の声。


俺は、


妻を見る。


美香は、


何も喋っていない。


それなのに、


窓の外から、


美香の声。


「直人、


開けて」


---


俺は、


カーテンを開けなかった。


美香が、


俺の腕を掴む。


「絶対、


開けないで」


「分かってる」


「何かいる」


「うん」


しばらく、


声は続いた。


「直人」


「開けて」


「直人」


「私だよ」


美香が、


震えている。


「……私の声」


「うん」


「どうして?」


「分からない」


突然、


声が止まった。


静寂。


そして、


スマートフォンが鳴る。


メッセージ。


「美香はそこにいる?」


俺は、


妻を見る。


「……」


美香は、


青ざめた。


「いるよ」


「じゃあ、


誰が送ってるんだ?」


俺たちは、


黙った。


そのとき。


また、


メッセージ。


「その女は美香じゃない」


美香が、


俺を見る。


「……何?」


「何でもない」


俺は、


スマートフォンを伏せた。


「見せて」


「いい」


「見せて!」


「大丈夫だから」


美香が、


突然、


泣き始めた。


「直人」


「何?」


「私、


本当に美香?」


「……」


「どう思う?」


俺は、


答えられなかった。


---


翌朝。


俺は、


一人で女将のところへ行った。


「昨日、


妻の声をしたものが、


湖から呼んできました」


女将は、


黙っていた。


「教えてください」


「何を?」


「湖にいるものは、


何なんですか?」


女将は、


しばらく迷った。


そして、


古い帳面を取り出した。


「昔、


この宿の主人が書いたものです」


帳面には、


古い文字。


俺は、


ページをめくった。


そこには、


こう書かれていた。


――湖は、


人を映す。


――姿だけではない。


――声も、


記憶も、


名前も。


俺は、


ページをめくる。


――湖に名前を呼ばれた者は、


三度、


自分の声を聞く。


――一度目は、


湖から。


――二度目は、


身近な人間から。


――三度目は、


自分自身から。


――三度目に、


返事をすると、


湖の中に、


自分と同じものが生まれる。


俺は、


顔を上げた。


「……同じもの?」


女将は、


頷いた。


「あなたの姿をしたもの」


「それが、


どうなるんですか?」


女将は、


答えなかった。


俺は、


続きを読む。


――そして、


それは、


本人より先に、


家へ帰る。


俺の手から、


帳面が落ちた。


「……」


「どうしました?」


「昨夜、


自分の番号から、


メッセージが来ました」


女将の顔が、


変わった。


「どんな内容です?」


俺は、


言った。


「『今、どこにいる?』」


女将は、


目を閉じた。


「もう、


帰ったのかもしれません」


---


俺は、


部屋へ戻った。


ドアを開ける。


「美香?」


返事がない。


「美香?」


部屋に、


妻はいなかった。


ベッド。


荷物。


窓。


何もない。


テーブルの上に、


スマートフォン。


画面には、


メッセージ。


俺から。


「今から帰る」


俺は、


震える手で、


妻へ電話した。


呼び出し音。


一回。


二回。


三回。


出ない。


四回目。


「もしもし」


美香の声。


「美香!」


「どうしたの?」


「どこにいる?」


「湖」


「……」


「どうして?」


「何で湖にいるんだ!」


電話の向こうで、


美香が笑った。


「あなたが、


呼んだから」


「呼んでない!」


「呼んだよ」


「いつ?」


「今」


俺は、


電話を耳から離した。


俺の後ろ。


部屋の中から、


声。


「直人」


俺は、


ゆっくり振り返った。


美香が立っていた。


「……」


俺は、


電話を見る。


通話中。


そして、


目の前の美香を見る。


「……誰?」


目の前の美香が、


笑った。


「私だよ」


電話の向こうの美香も、


同時に言った。


「私だよ」


俺は、


動けなかった。


二人の声が、


完全に同じだった。


「直人」


「直人」


「どっちが本物か、


分かる?」


俺は、


後ずさった。


「……」


目の前の美香が、


近づいてくる。


「ねえ」


電話の向こうの美香も、


言う。


「ねえ」


「私を選んで」


「私を選んで」


俺は、


叫んだ。


「やめろ!」


二人が、


同時に笑った。


---


俺は、


部屋を飛び出した。


宿の廊下を走る。


階段を下りる。


玄関へ。


外へ。


湖へ向かう道とは、


反対方向へ走る。


しかし。


気づくと、


湖畔に立っていた。


「……」


周囲には、


誰もいない。


湖が、


目の前にある。


静か。


鏡のような水面。


その中央に、


誰かが立っている。


俺だった。


もう一人の俺。


水面の上に、


立っている。


そいつが、


笑う。


「やっと来た」


俺は、


逃げようとした。


だが、


足が動かない。


「お前は、


何なんだ」


湖の中の俺は、


答えた。


「お前だよ」


「違う」


「同じだよ」


「俺は、


ここにいる」


「俺も、


ここにいる」


「……」


「どっちが、


本物だと思う?」


俺は、


黙った。


湖の中の俺が、


ゆっくり近づいてくる。


水面を歩いて。


「昨日、


お前は、


俺を見た」


「……」


「今日、


お前は、


俺を聞いた」


「……」


「明日は、


俺がお前になる」


俺は、


震えた。


「どういう意味だ?」


湖の中の俺が、


笑った。


「簡単だよ」


そして、


水面から手を伸ばす。


「お前が、


湖に来たんだから」


---


俺は、


後ろへ下がった。


その瞬間。


背後から、


誰かが俺の肩を掴んだ。


「直人!」


美香だった。


「逃げて!」


俺は、


美香の手を掴む。


二人で走る。


湖から離れる。


宿へ戻る。


女将が、


俺たちを見る。


「どうしたんです?」


俺は、


息を切らしながら言った。


「湖に、


俺がいました」


女将は、


黙った。


そして、


美香を見る。


「……」


「何ですか?」


美香が聞く。


女将は、


俺を見る。


「あなた、


一人で戻ってきたんですか?」


俺は、


意味が分からなかった。


「美香と一緒です」


女将は、


ゆっくり首を振った。


「……その人、


あなたの奥さんじゃありません」


俺は、


美香を見る。


「何言ってるんですか」


女将が、


震える手で、


宿帳を指差した。


「昨夜、


奥様は、


ここに名前を書いています」


宿帳を見る。


そこには、


確かに、


美香の名前。


その下に、


もう一つ。


俺の名前。


そして、


その横に、


赤い文字。


「二人とも湖へ帰る」


俺は、


美香を見る。


美香は、


笑っていた。


「直人」


「……」


「帰ろう」


「どこへ?」


美香は、


湖を指差した。


「もちろん、


湖へ」


---


俺は、


その場から逃げた。


宿を出る。


車へ乗る。


一人で。


美香を置いて。


いや。


置いてきたのは、


本当に美香なのか?


分からない。


何度も電話が鳴る。


出ない。


メッセージが来る。


「どうして置いていったの?」


次。


「私は本物だよ」


次。


「あなたのこと、全部知ってる」


次。


「あなたしか知らないことも」


俺は、


スマートフォンを投げた。


高速道路へ入る。


秋田を離れる。


湖から離れる。


どんどん離れる。


もう大丈夫。


そう思った。


---


三時間後。


サービスエリアに車を停めた。


喉が渇いた。


車を降りる。


自動販売機で水を買う。


そのとき、


背後から声がした。


「直人」


俺は、


振り返らなかった。


「直人」


無視する。


「直人」


無視する。


「……」


声が、


近づいてくる。


「直人」


耳元。


「あなた、


私を置いていったでしょう?」


俺は、


目を閉じた。


そして、


気づいた。


足元に、


水が広がっている。


道路なのに。


雨は降っていない。


水たまり。


その水面に、


顔が映っている。


俺の顔。


笑っている。


そして、


水面の中の俺が、


言った。


「一人で帰れると思った?」


俺は、


走った。


車へ戻る。


ドアを開ける。


エンジンをかける。


その瞬間。


助手席に、


誰かが座っていた。


美香。


「……」


俺は、


声が出なかった。


美香は、


こちらを向く。


「お帰り」


「……」


「遅かったね」


俺は、


震えながら聞いた。


「お前、


誰だ」


美香は、


悲しそうに笑った。


「まだ、


分からないの?」


「……」


「私は、


あなたが湖で見たもの」


俺は、


ドアを開けようとした。


ロックされている。


「開けろ!」


美香が、


俺の手を握る。


冷たい。


異常に冷たい。


「直人」


「離せ!」


「私の名前、


呼んで」


「……」


「一度だけでいいから」


俺は、


黙った。


美香が、


笑う。


「呼んでくれたら、


本物になれるから」


その言葉を聞いた瞬間。


俺は、


理解した。


こいつは、


美香じゃない。


俺が名前を呼ぶことを、


待っている。


だから、


呼ばない。


絶対に。


俺は、


黙ったまま、


目を閉じた。


美香は、


しばらく黙っていた。


やがて、


小さな声で、


言った。


「……そう」


「……」


「じゃあ、


私が呼ぶ」


俺は、


目を開けた。


美香が、


俺を見ている。


そして、


俺の名前を呼んだ。


「直人」


何も起こらない。


「直人」


まだ。


「直人」


三度目。


その瞬間。


車の窓が、


一斉に水で覆われた。


外が見えなくなる。


車内に、


水の音。


ザァ……


ザァ……


そして、


後部座席から、


声。


「直人」


俺は、


ゆっくり振り返った。


後部座席に、


誰かが座っている。


もう一人の俺。


そして、


その隣に、


もう一人の美香。


二人とも、


笑っている。


「……」


俺は、


動けなかった。


二人が、


同時に言った。


「帰ろう」


「どこへ?」


俺が聞く。


二人は、


答えた。


「湖」


---


それから、


俺の記憶は、


途切れている。


警察によれば、


俺の車は、


田沢湖の近くで発見された。


事故ではなかった。


鍵も、


車内に残っていた。


俺だけが、


いなくなっていた。


捜索が行われた。


湖も調べた。


だが、


何も見つからなかった。


妻も見つからない。


俺も、


見つからない。


ただ。


宿の女将が、


最後に一つだけ、


妙なことを話していた。


事故の翌朝。


湖の水面に、


二人の人影が立っていたという。


男と女。


二人は、


手をつないでいた。


そして、


湖の中央から、


誰かが叫んでいた。


「おいで」


「ここなら、


ずっと一緒にいられる」


---


数週間後。


田沢湖を訪れた観光客が、


一枚の写真を撮った。


美しい湖。


青い水面。


何気ない風景写真。


だが、


写真を拡大すると、


湖の中央に、


二人の男女が立っていた。


男は、


カメラを見ている。


女も、


こちらを見ている。


そして、


二人の後ろに、


もう一人。


男。


俺だった。


三人は、


手をつないでいる。


その写真を見た人は、


誰も気づかなかった。


三人のうち、


真ん中にいる男だけが、


口を動かしていることに。


写真を拡大すると、


唇の形から、


何と言っているのか分かる。


「名前を呼んで」


――秋田・第一話 終。

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