青森・第四話
座敷の四人目
その家では、
食事のときに、
必ず四人分の箸を出してはいけなかった。
俺がそのことを知ったのは、
祖母が死んだあとだった。
「四人目の分は、
出さないで」
母は、
そう言った。
「誰の?」
「誰でもない」
「じゃあ、何で?」
母は答えなかった。
ただ、
仏壇の横にある古い座敷を見た。
「昔から、
そういう家なの」
俺は、
笑った。
「迷信だろ」
母も、
笑わなかった。
---
祖母の家は、
青森県の山あいにある古い家だった。
俺が子供の頃は、
夏休みになると、
毎年そこへ泊まりに行った。
大きな家だった。
畳の部屋がいくつもあり、
廊下は長い。
夜になると、
家の中は真っ暗になる。
子供の頃の俺は、
その家が少し怖かった。
特に、
一番奥にある座敷。
そこだけ、
いつも閉め切られていた。
「ここ、
何の部屋?」
と祖母に聞いたことがある。
祖母は、
笑って、
「誰も使わない部屋だよ」
と言った。
「なんで?」
「昔からそうなの」
それ以上は、
教えてくれなかった。
---
祖母が亡くなった。
家をどうするか、
家族で話し合うことになった。
母は、
「売ろう」
と言った。
俺も賛成だった。
古い家だ。
誰も住んでいない。
ただ、
処分する前に、
荷物を整理する必要がある。
そこで、
俺と母と妹の三人で、
祖母の家へ行くことになった。
到着したのは、
夕方だった。
雪が降っていた。
玄関を開ける。
冷たい空気。
古い木の匂い。
そして、
どこか湿ったような匂い。
「寒いね」
妹が言った。
「すぐ暖房つけよう」
母が、
家の中へ入る。
俺も続いた。
そのとき。
廊下の奥から、
音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
「……?」
誰かが、
歩いている。
俺は、
足を止めた。
「今、
誰かいた?」
母が振り返る。
「何?」
「奥の方」
「誰もいないよ」
「でも……」
コツ。
また音。
母の顔が、
少し変わった。
「……聞こえた?」
「うん」
妹も、
聞いていた。
「誰かいるんじゃない?」
母は、
首を横に振った。
「いない」
そして、
小さな声で、
こう言った。
「絶対に、
奥の座敷へ行かないで」
---
その夜。
三人で、
夕食を食べた。
母が料理を並べる。
俺。
母。
妹。
三人。
箸も、
三膳。
「いただきます」
食事を始める。
しばらくすると、
母が突然、
箸を止めた。
「……」
「どうした?」
母は、
テーブルの端を見ている。
そこに、
何もない。
「お母さん?」
妹が呼ぶ。
母は、
ゆっくり立ち上がった。
そして、
台所へ行く。
「何してるの?」
「……箸を、
片付ける」
「まだ食べてるけど」
母は、
返事をしなかった。
俺は、
母の視線を追った。
そして、
気づいた。
テーブルの端に、
箸が一本、
置いてある。
さっきまで、
なかった。
「……」
母が、
それを掴む。
「捨てるね」
その瞬間。
奥の座敷から、
声がした。
「おばあちゃん」
俺たちは、
全員、
固まった。
子供の声だった。
「おばあちゃん、
ごはん」
妹が、
俺を見る。
「……今、
聞こえたよね?」
母は、
箸を握ったまま、
震えていた。
「聞こえてない」
「いや、
聞こえた」
「聞こえてない」
母が、
強い声で言った。
そして、
箸を折った。
パキッ。
「絶対に、
返事しないで」
---
その夜。
俺は、
客間で寝た。
母と妹は、
別の部屋。
午後十一時。
眠れない。
古い家は、
音が多い。
木が軋む。
風が鳴る。
屋根に雪が落ちる。
そう自分に言い聞かせた。
すると、
廊下から、
音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが歩いている。
「……」
俺は、
布団から出た。
ドアを少し開ける。
廊下には、
誰もいない。
電気も消えている。
ただ、
一番奥の座敷の襖が、
少し開いていた。
「……」
俺は、
近づいた。
襖の隙間から、
暗い部屋が見える。
そのとき。
中から、
声がした。
「お兄ちゃん」
俺は、
息を止めた。
妹の声だった。
「お兄ちゃん」
「……」
「開けて」
俺は、
襖に手を伸ばした。
だが、
そこで止めた。
妹は、
隣の部屋で寝ている。
俺は、
戻ろうとした。
すると、
中から、
もう一度。
「お兄ちゃん」
今度は、
泣いていた。
「寒い」
俺は、
襖を開けた。
「……!」
部屋の中には、
誰もいない。
ただ、
中央に、
古い座卓がある。
その上に、
茶碗が四つ。
箸も、
四膳。
俺は、
凍りついた。
「……何だよ」
その瞬間。
背後で、
襖が閉まった。
バタン。
俺は、
振り返った。
誰もいない。
「……」
そして、
座卓の向こう側から、
声。
「いただきます」
俺は、
逃げようとした。
だが、
足が動かない。
座卓の向こうに、
誰かが座っている。
暗くて、
顔が見えない。
「……誰?」
返事はない。
ただ、
箸を持つ音。
カチ。
カチ。
カチ。
そして、
その人物が、
ゆっくり顔を上げた。
祖母だった。
「……ばあちゃん?」
祖母は、
笑っていた。
だが、
顔がおかしい。
目が黒い。
口が異常に大きい。
そして、
頬には、
泥がついていた。
「お前も、
食べるか?」
俺は、
首を横に振った。
祖母は、
笑った。
「そうか」
そして、
俺の後ろを見る。
「じゃあ、
三人で食べよう」
俺は、
振り返った。
母。
妹。
いつの間にか、
二人が座っていた。
「……」
母が、
俺を見る。
「座って」
妹も、
笑っている。
「お兄ちゃん」
俺は、
逃げようとした。
「帰る!」
母が、
言った。
「帰れないよ」
「……」
「ここ、
家だから」
祖母が、
笑った。
「昔から、
四人で食べる家なんだよ」
---
俺は、
目を覚ました。
朝だった。
自分の布団。
隣の部屋から、
母の声。
「起きて」
俺は、
飛び起きた。
「昨日、
何があった?」
母が、
不思議そうに見る。
「何もないよ」
「座敷に行っただろ?」
母の顔が、
青くなった。
「……行ったの?」
「行った」
「何を見た?」
「ばあちゃん」
母は、
黙った。
そして、
小さく言った。
「……そう」
「何?」
「もう、
この家を出よう」
---
俺たちは、
荷物をまとめた。
家を売る話も、
その場で決めた。
一刻も早く、
出たかった。
だが、
玄関へ向かったとき。
母が、
突然、
立ち止まった。
「……」
「どうした?」
母は、
玄関を見ている。
靴。
俺。
母。
妹。
三人分。
その横に、
もう一足。
古い、
濡れた草履。
「……」
母が、
震える声で言った。
「誰の?」
俺は、
答えられなかった。
妹が、
言った。
「おばあちゃんじゃない?」
母が、
叫んだ。
「違う!」
その声に、
家中の空気が変わった。
奥の座敷から、
音。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが、
歩いてくる。
「走って!」
母が叫んだ。
俺たちは、
玄関を開けた。
雪の中へ飛び出す。
車へ走る。
エンジンをかける。
そのとき。
後部座席から、
声がした。
「お兄ちゃん」
俺は、
振り返らなかった。
妹が、
助手席で叫ぶ。
「誰!?」
母も、
振り返る。
「……」
三人とも、
凍った。
後部座席には、
誰もいない。
だが、
シートが、
濡れていた。
そして、
一人分の、
小さな足跡。
座席から、
床へ。
そして、
運転席へ向かっている。
俺は、
アクセルを踏んだ。
---
町を出て、
一時間。
誰も、
喋らなかった。
母だけが、
何度も、
後ろを確認している。
「……ねえ」
妹が、
言った。
「何?」
「家に、
誰か残してきた?」
母が、
答える。
「いない」
妹は、
黙った。
しばらくして、
また言う。
「じゃあ、
何で四人いるの?」
俺は、
ブレーキを踏んだ。
「……」
母が、
ゆっくり、
俺を見る。
「今、
何て言った?」
「四人いるって」
俺は、
人数を確認した。
俺。
母。
妹。
三人。
「……三人だろ」
妹は、
震えながら、
後ろを見る。
「違う」
「何が?」
「さっきから、
後ろに、
おばあちゃんが座ってる」
俺は、
バックミラーを見た。
後部座席。
誰もいない。
「いない」
「いるよ」
妹は、
泣いていた。
「ずっと、
笑ってる」
母が、
叫んだ。
「見るな!」
俺は、
前を向いた。
その瞬間。
フロントガラスに、
小さな手形が、
内側から押しつけられた。
ベタッ。
「うわっ!」
俺は、
車を停めた。
手形は、
消えた。
---
その後、
何とか町へ戻った。
警察にも相談した。
だが、
もちろん、
誰も信じない。
「疲れているんでしょう」
そう言われた。
俺たちは、
ホテルに泊まった。
三人一部屋。
ベッドが三つ。
午後十時。
母は、
眠れないと言った。
妹も、
怖くて眠れない。
俺も、
眠れなかった。
午前一時。
突然、
部屋のドアが、
ノックされた。
コン。
コン。
コン。
「……」
誰も、
返事をしない。
また。
コン。
コン。
コン。
そして、
声。
「ごはんだよ」
祖母の声。
母が、
布団の中で、
震えた。
「……」
「ごはんだよ」
ドアの向こう。
「四人分、
作ったから」
俺は、
息を止めた。
「……」
母が、
泣きながら言った。
「返事しないで」
「分かってる」
「絶対に」
「うん」
ドアノブが、
動いた。
ガチャ。
ガチャ。
鍵がかかっている。
ドアの向こうから、
祖母が笑う。
「なんで開けないの?」
「……」
「家族なのに」
俺は、
目を閉じた。
すると、
別の声がした。
母の声。
「開けて」
俺は、
目を開けた。
母は、
俺の隣にいる。
それなのに、
ドアの外から、
母の声。
「お願い」
「……」
「寒い」
妹が、
泣き出した。
「お母さん、
二人いる」
母が、
妹の口を塞ぐ。
「喋らないで」
ドアの向こうから、
笑い声。
「三人しかいないの?」
そして、
低い声。
「一人、
足りないよ」
---
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
真っ暗。
俺は、
母の手を掴んだ。
妹の手も。
三人で、
固まる。
そして、
部屋の隅から、
音。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが、
歩いている。
「……」
足音が、
近づく。
コツ。
コツ。
コツ。
俺の背後で、
止まった。
耳元で、
声。
「四人目、
誰にする?」
俺は、
振り返らなかった。
すると、
母が叫んだ。
「私!」
俺は、
驚いて母を見る。
「お母さん?」
母は、
泣きながら、
言った。
「私が行く」
「何言ってるんだ!」
「あなたたちは逃げて」
「無理だ!」
母は、
笑った。
「大丈夫」
そして、
俺の手を離した。
「おばあちゃんに、
会いたかったから」
母が、
部屋の奥へ歩く。
「お母さん!」
俺は、
追いかけた。
しかし、
妹に腕を掴まれた。
「お兄ちゃん!」
「離せ!」
「ダメ!」
母の姿が、
暗闇に消える。
そして、
襖を開ける音。
バタン。
その瞬間、
電気がついた。
母はいない。
部屋の中にも、
いない。
ドアも、
閉まっている。
妹が、
泣きながら言った。
「……お母さん、
どこ?」
俺は、
部屋中を探した。
いない。
ホテルの外へ出る。
いない。
警察へ連絡する。
いない。
監視カメラを確認する。
母は、
部屋から一歩も出ていなかった。
---
翌朝。
俺は、
実家へ戻った。
理由は、
分からない。
ただ、
母がいる気がした。
家は、
鍵が開いていた。
中へ入る。
静か。
そして、
奥の座敷。
襖が、
開いている。
俺は、
ゆっくり近づいた。
部屋の中央。
座卓。
茶碗。
箸。
四膳。
そして、
その向こうに、
母が座っていた。
「……母さん」
母は、
こちらを見た。
笑っている。
「遅かったね」
「帰ろう」
「どこへ?」
「家へ」
母は、
首を傾げた。
「ここが家だよ」
俺は、
近づいた。
「母さん」
「何?」
「妹を連れて、
帰る」
母は、
笑った。
「妹?」
俺は、
振り返った。
そこに、
妹が立っている。
「お兄ちゃん」
「……」
「どうしたの?」
俺は、
母を見る。
母を見る。
妹を見る。
そして、
気づいた。
二人とも、
同じ笑顔をしている。
「……」
母が、
箸を持った。
「ご飯、
食べよう」
妹も、
箸を持つ。
「四人分あるよ」
俺は、
座卓を見る。
四つの茶碗。
三人しかいない。
「……」
母が、
言った。
「一人、
まだ来てないの」
「誰?」
母は、
俺を見る。
そして、
笑った。
「あなた」
---
俺は、
逃げた。
家を飛び出した。
妹も、
連れて。
車へ乗る。
アクセルを踏む。
町を離れる。
二度と戻らない。
そのはずだった。
---
一年後。
俺は、
県外で暮らしている。
妹も、
一緒だ。
母は、
戻ってこなかった。
祖母の家は、
取り壊された。
そう聞いている。
だから、
もう終わった。
そう思っていた。
ある夜。
妹と二人で、
夕食を食べていた。
テーブルには、
二人分の食器。
俺。
妹。
二人。
「いただきます」
食事を始める。
そのとき。
妹が、
箸を止めた。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「箸、
三膳あるよ」
俺は、
テーブルを見る。
確かに、
三膳。
「……」
一膳は、
俺。
一膳は、
妹。
そして、
もう一膳。
誰のものか、
分からない。
妹が、
小さな声で言った。
「お母さんかな」
「……違う」
「じゃあ、
誰?」
俺は、
箸を取った。
捨てようとした。
その瞬間。
玄関から、
声がした。
「ご飯だよ」
俺は、
動けなかった。
母の声。
一年ぶりに聞いた、
母の声。
妹が、
立ち上がる。
「お母さん!」
俺は、
妹の腕を掴んだ。
「行くな」
「でも!」
「行くな!」
玄関を見る。
誰もいない。
だが、
玄関の向こうから、
また声。
「四人分、
あるよ」
俺は、
息を止めた。
そのとき。
テーブルの上の、
三膳目の箸が、
ゆっくり動いた。
誰も触っていない。
箸が、
床へ落ちる。
カラン。
そして、
その箸を拾うように、
床に、
小さな手が現れた。
俺は、
叫びそうになった。
手は、
箸を握った。
そして、
見えない誰かが、
座った。
椅子が、
ゆっくり沈む。
ギシッ。
妹が、
泣き出す。
「お兄ちゃん……」
俺は、
妹を抱き寄せた。
すると、
目の前の空いた椅子から、
声がした。
「いただきます」
俺は、
目を閉じた。
そして、
ようやく理解した。
祖母の家で、
四人目を恐れていた理由。
四人目は、
家族ではない。
幽霊でもない。
**「家族の誰かを四人目にするために、
最初から空いている席」**
だったのだ。
だから、
家族が三人なら、
三人目が消える。
四人家族なら、
四人目が消える。
誰か一人を、
家に残すまで。
そして、
その家がなくなっても、
呪いは消えない。
なぜなら、
「家」とは、
建物のことではないから。
一緒に食事をする場所。
帰る場所。
家族が集まる場所。
そこが、
新しい家になる。
目を開ける。
空いていた椅子に、
誰かが座っている。
顔は見えない。
でも、
声だけは分かる。
俺は、
その声を知っていた。
「お兄ちゃん」
妹の声。
俺は、
隣を見る。
妹がいる。
俺の手を握っている。
そして、
目の前の「妹」が、
ゆっくり笑った。
「お兄ちゃん」
俺は、
妹の手を強く握った。
隣にいる妹が、
震えながら言う。
「……私、
ここにいるよね?」
俺は、
答えられなかった。
目の前の妹が、
箸を持つ。
そして、
俺に向かって、
笑う。
「いただきます」
その瞬間、
玄関の向こうから、
母の声がした。
「三人じゃないよ」
「……」
「四人いるよ」
そして、
家中の電気が、
一斉に消えた。
暗闇の中。
四人分の箸が、
同時に鳴った。
カチ。
カチ。
カチ。
カチ。
――青森・第四話 終。




