青森・第三話
海から呼ぶ声
その村では、
海から名前を呼ばれても、
絶対に返事をしてはいけなかった。
理由を聞いても、
誰も教えてくれない。
ただ、
年寄りたちは、
同じことを言った。
「海が呼ぶときはな、
人を呼んでるんじゃない」
「じゃあ、何を呼んでるの?」
「……身体だ」
子供の頃の俺は、
その意味が分からなかった。
大人になった今でも、
分からない。
ただ、
一度だけ。
俺は、
海から自分の名前を呼ばれた。
---
俺の故郷は、
青森県の海沿いにある小さな町だった。
観光地ではない。
漁港と住宅が並ぶ、
どこにでもあるような町。
子供の頃は、
夏になると毎日のように海へ行った。
泳いだり、
釣りをしたり。
夕方になるまで遊んでいた。
けれど、
海の近くに住む老人たちは、
いつも俺たちに言っていた。
「日が沈んだら、
海へ近づくな」
「名前を呼ばれても、
返事するな」
「海から人が歩いてきても、
絶対に手を振るな」
俺たちは笑っていた。
「そんなの迷信だ」
と。
---
二十年後。
俺は、
仕事の都合で故郷へ戻ってきた。
父が亡くなったからだ。
葬儀を終え、
実家の整理をしていた。
母は、
数年前から施設に入っている。
家には、
俺一人。
久しぶりに戻った実家は、
妙に静かだった。
夜。
風呂から出て、
窓を開ける。
海の匂いがした。
遠くで、
波の音。
ザァ……
ザァ……
俺は、
懐かしいと思った。
そのとき。
「……浩二」
俺は、
動きを止めた。
誰かが、
俺の名前を呼んだ。
海の方から。
「……」
聞き間違いだ。
そう思った。
もう一度。
「浩二」
今度は、
はっきり聞こえた。
俺は、
窓を閉めた。
カーテンも閉めた。
そして、
その夜は、
何も考えずに眠った。
---
翌朝。
近所の幼馴染、
健一が家に来た。
「久しぶり」
「お前、
昨日帰ってきたんだって?」
「ああ」
「夜、
海の方に行った?」
俺は、
少し迷った。
「……行ってない」
健一は、
俺の顔を見る。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、
海から何か聞こえなかった?」
俺は、
黙った。
健一の顔色が変わった。
「聞こえたんだな?」
「……名前を呼ばれた」
健一は、
黙り込んだ。
「何?」
「親父さんが、
死んだ夜も、
海が名前を呼んだらしい」
「誰の?」
「お前の」
俺は、
笑った。
「そんなわけない」
「俺もそう思ってた」
健一は、
窓の外を見た。
「でも、
今朝な」
「うん」
「漁に出た親父が、
海の上で、
お前を見たって言ってる」
「……俺を?」
「海の中から、
こっちを見てたって」
---
俺は、
気味が悪くなった。
「親父さん、
何か見間違えたんじゃないか?」
「俺もそう思った」
健一は、
少し黙った。
「でもな」
「何?」
「お前の親父さん、
今朝から口をきかない」
「……」
「ずっと海を見てる」
---
その日の夕方。
俺は、
港へ行った。
父の船が、
まだ残っていた。
小さな漁船。
俺は、
船に触れた。
冷たい。
船底には、
古いロープ。
網。
そして、
見覚えのないものがあった。
小さな靴。
子供用の、
赤い長靴。
「……?」
俺には、
子供はいない。
父にも、
孫はいなかった。
どうして、
こんなものが船にある?
俺は、
拾い上げた。
その瞬間。
海から、
声がした。
「浩二」
俺は、
長靴を落とした。
海を見る。
何もない。
波だけ。
「浩二」
今度は、
すぐ近く。
俺は、
後ろを振り返った。
誰もいない。
「浩二」
海を見る。
黒い海。
そして、
水面に、
何か浮かんでいた。
白い顔。
「……!」
俺は、
後ずさった。
顔だけが、
海面に浮かんでいる。
目を閉じている。
長い髪が、
水面に広がっている。
女だった。
「……」
俺は、
逃げようとした。
そのとき。
女が、
目を開けた。
俺と、
目が合った。
女が、
笑った。
「浩二」
俺は、
走った。
---
家へ帰り、
鍵をかけた。
窓も閉める。
カーテンも閉める。
そして、
父の古いアルバムを取り出した。
何か手がかりがある気がした。
写真をめくる。
父。
母。
俺。
幼い頃の健一。
海。
漁船。
そして、
一枚の写真。
俺は、
手を止めた。
幼い俺が、
海辺に立っている。
隣に、
父。
母。
そして、
知らない女。
「……誰だ?」
女は、
濡れた服を着ている。
髪が長い。
顔が、
ほとんど見えない。
写真の裏を見る。
日付。
二十五年前。
俺が、
五歳の頃。
そして、
父の字で、
一言だけ書かれていた。
「見つけてしまった」
俺は、
写真を落とした。
---
その夜。
午前二時。
目が覚めた。
「……」
部屋が、
異常に寒い。
窓を見る。
閉まっている。
それなのに、
カーテンが揺れている。
そして、
床が濡れていた。
ポタ。
ポタ。
水滴。
俺は、
起き上がった。
足元を見る。
濡れた足跡が、
廊下へ続いている。
裸足。
小さな足跡。
子供のもの。
俺は、
息を止めた。
足跡は、
玄関へ向かっている。
そして、
玄関で、
消えていた。
「……」
そのとき。
玄関の向こうから、
声。
「浩二」
俺は、
動けなかった。
「浩二」
ドアを、
三回叩く。
コン。
コン。
コン。
「開けて」
俺は、
返事をしなかった。
「お父さん」
その言葉に、
心臓が止まりそうになった。
父の声だった。
「浩二」
「……」
「開けてくれ」
俺は、
耳を塞いだ。
父は、
死んだ。
ここにいるはずがない。
「寒いんだ」
父の声。
「中に入れてくれ」
俺は、
震えながら、
言った。
「父さんじゃない」
ドアの向こうが、
静かになった。
そして、
小さな声。
「……そうだよ」
俺は、
固まった。
「俺は、
お前の父親じゃない」
「……」
「でも、
父親の声なら、
使える」
俺は、
逃げた。
---
朝になるまで、
俺は部屋に閉じこもった。
明るくなってから、
健一へ電話した。
「昨日の夜、
何かあった?」
健一が聞く。
俺は、
全部話した。
健一は、
しばらく黙っていた。
「……親父に聞いた」
「何を?」
「昔の話」
「うん」
「二十五年前、
この町で、
子供が一人、
海で行方不明になった」
俺は、
赤い長靴を思い出した。
「女の子?」
「そう」
「名前は?」
健一は、
言った。
「美咲」
俺は、
写真を思い出した。
「……あの写真の女?」
「何?」
「父さんのアルバムに、
女の人が写ってた」
「見せてくれ」
俺は、
写真を送った。
健一から、
すぐに電話が来た。
「これ……」
「何?」
「美咲の母親だ」
「……」
「美咲が海で死んだあと、
毎晩、
海へ行ってたらしい」
「何で?」
「娘の名前を呼んでた」
「……」
「ある夜、
その母親も、
海で消えた」
俺は、
写真を見た。
「じゃあ、
この人は……」
健一は、
小さな声で言った。
「海から帰ってきたんじゃないか?」
---
その日の夕方。
俺は、
父の船へ向かった。
理由は、
分からない。
ただ、
写真の意味を確かめたかった。
船に乗る。
赤い長靴を見つける。
そして、
船の底に、
小さな木箱があることに気づいた。
蓋を開ける。
中には、
古い手紙。
父の字。
俺は、
読む。
――浩二へ。
――お前がこれを読む頃、
――俺はもういないだろう。
――話しておかなければならないことがある。
――二十五年前、
――海で美咲を見つけた。
――正確には、
――海の中にいる美咲を見つけた。
――助けようとした。
――だが、
――美咲は死んでいた。
――そのとき、
――俺は聞いた。
――「おじさん、私の代わりに誰か呼んで」
俺は、
手紙を持つ手が震えた。
続き。
――怖くなって、
――逃げた。
――だが、
――その日から、
――海が俺の名前を呼ぶようになった。
――何年も無視した。
――だが、
――去年から、
――声が変わった。
――お前の声になった。
俺は、
息を止めた。
――浩二。
――海は、
――一人を連れていくと、
――一人を返す。
――だから、
――俺が死んだら、
――絶対に海へ近づくな。
最後の一行。
――お前が呼ばれても、
――返事をするな。
---
俺は、
船を降りようとした。
そのとき。
海から、
声がした。
「浩二」
俺は、
動かなかった。
「浩二」
返事をしない。
「浩二」
無視する。
すると、
声が変わった。
「お父さん」
俺は、
目を閉じた。
「お父さん」
今度は、
幼い女の子。
「寒いよ」
俺は、
耳を塞いだ。
「お父さん、
助けて」
涙が出そうになった。
「お願い」
「……」
「海から出られない」
俺は、
歯を食いしばった。
その瞬間。
別の声がした。
母だった。
「浩二」
そして、
父。
「浩二」
健一。
「浩二」
最後に、
自分自身。
「浩二」
四人の声が、
同時に呼ぶ。
俺は、
船の中で、
動けなくなった。
そして、
海面を見る。
そこに、
四人の顔が浮かんでいた。
父。
母。
健一。
そして、
俺。
「……」
俺は、
後ずさった。
俺の顔が、
海の中から笑っている。
そして、
口を動かした。
「一人、
選んで」
---
その瞬間。
港の方から、
サイレンが聞こえた。
警察。
消防。
人が集まってくる。
俺は、
船から飛び降りた。
岸へ走った。
健一がいた。
「浩二!」
俺は、
健一に抱きついた。
「海に何かいる!」
健一は、
俺の顔を見る。
「何が?」
「父さんや母さんの顔が……」
健一は、
青ざめた。
「……お前、
何言ってる?」
「え?」
健一が、
震える手で、
海を指差した。
「海に、
お前の顔が浮いてる」
俺は、
振り返った。
海面。
そこに、
俺の顔があった。
笑っている。
そして、
俺の顔が、
言った。
「健一」
健一が、
固まった。
「……」
俺は、
叫んだ。
「返事するな!」
しかし、
遅かった。
海の中の俺が、
言った。
「健一」
健一が、
無意識に答えた。
「……何?」
その瞬間。
海面から、
白い手が伸びた。
健一の足首を掴む。
「うわっ!」
俺は、
健一を掴んだ。
だが、
力が強い。
二人とも、
海へ引きずられる。
「離せ!」
「浩二!」
「手を離すな!」
俺は、
必死に引っ張った。
そのとき。
健一が、
泣きながら言った。
「浩二」
「何?」
「海の中に、
お前の父さんがいる」
「見るな!」
「母さんもいる」
「見るな!」
「それから……」
健一の顔が、
恐怖に歪む。
「俺自身もいる」
俺は、
健一を引っ張った。
そして、
何とか岸へ転がり出た。
白い手は、
消えていた。
---
翌朝。
俺は、
町を出ることにした。
二度と戻らない。
そう決めた。
荷物をまとめ、
車へ乗る。
健一も、
一緒に来ることになった。
「しばらく、
町を離れよう」
俺が言う。
健一は、
頷いた。
「そうだな」
車を走らせる。
海沿いの道。
町が遠ざかっていく。
俺は、
バックミラーを見た。
港。
父の船。
海。
そして、
堤防の上に、
誰かが立っている。
白い服。
長い髪。
女。
俺は、
目を逸らした。
「見るな」
健一が言った。
「分かってる」
車を走らせる。
しばらくして、
健一が言った。
「……なあ」
「何?」
「さっきから、
後ろの席に誰かいる」
俺は、
ブレーキを踏んだ。
「……え?」
後部座席を見る。
誰もいない。
「気のせいだろ」
「そうかな」
健一が、
小さく笑った。
「でも、
ずっと濡れた足音がする」
俺は、
聞いた。
ポタ。
ポタ。
ポタ。
後ろから、
水が落ちる音。
「……」
そして、
後部座席から、
声。
「浩二」
俺は、
アクセルを踏んだ。
「浩二」
返事をしない。
「浩二」
無視する。
「健一」
健一の名前。
俺は、
隣を見る。
健一は、
青ざめている。
「返事するな」
俺が言う。
健一は、
黙っている。
後ろから、
声がする。
「健一」
「……」
「健一」
そして、
とうとう、
健一が答えた。
「……何?」
その瞬間。
車の後部座席が、
水で満たされた。
「うわあああ!」
俺は、
車を路肩に停めた。
後ろを見る。
誰もいない。
水もない。
健一だけが、
震えている。
「……今の、
何だった?」
「分からない」
健一は、
自分の服を見る。
濡れていない。
だが、
俺は気づいた。
健一の首に、
手形がある。
青黒い、
小さな手形。
まるで、
子供の手のような。
---
それから三日後。
健一は、
突然いなくなった。
ホテルの部屋から。
荷物も残したまま。
警察に届けた。
捜索もした。
見つからない。
俺は、
一人で故郷を離れた。
もう海を見ることも、
名前を呼ばれることもない。
そう思っていた。
---
半年後。
俺は、
新しい町で暮らしていた。
普通の生活。
仕事。
食事。
睡眠。
海から離れた場所。
もう大丈夫だ。
そう思っていた。
ある夜。
風呂から出る。
スマートフォンを見る。
知らない番号から、
着信。
俺は、
無視した。
また鳴る。
無視する。
三回目。
そして、
留守番電話に切り替わった。
俺は、
何気なく再生した。
ザーッ。
波の音。
そして、
声。
「浩二」
俺は、
スマートフォンを落とした。
次の声。
「お父さん」
次。
「お母さん」
そして、
最後。
健一。
「浩二」
俺は、
震えながら、
再生を止めようとした。
しかし、
最後に、
別の声が入った。
子供の声。
「一人、
返すね」
俺は、
凍りついた。
翌朝。
自宅の玄関を開ける。
そこに、
赤い長靴が置かれていた。
二十五年前、
父の船にあったものと、
同じもの。
そして、
長靴の中には、
一枚の写真。
俺と、
健一。
子供の頃の写真だった。
二人で海辺に立っている。
写真の裏には、
誰かの字で、
こう書かれていた。
「二人いるから、一人返せる」
俺は、
写真を落とした。
その瞬間。
玄関の外から、
波の音が聞こえた。
ザァ……
ザァ……
ここは、
海から何十キロも離れている。
なのに、
確かに聞こえる。
そして、
誰かが、
俺の名前を呼んだ。
「浩二」
俺は、
返事をしなかった。
「浩二」
返事をしない。
「浩二」
それでも、
呼び続ける。
そして、
最後に、
こう言った。
「……次は、
誰を返す?」
俺は、
窓を閉めた。
カーテンを閉めた。
耳を塞いだ。
それでも、
聞こえる。
海の音。
波の音。
そして、
何人もの人間が、
俺の名前を呼ぶ声。
その中に、
一つだけ、
まだ聞いたことのない声があった。
小さな、
幼い女の子の声。
「おじさん」
俺は、
目を閉じた。
「私、
ずっと待ってたよ」
その声の直後。
玄関のドアが、
ゆっくり開いた。
俺は、
動けなかった。
廊下に、
濡れた足跡が一つ。
小さな足跡。
それが、
俺の部屋へ向かって、
一歩ずつ、
近づいてくる。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
そして、
ベッドの横で止まった。
何も見えない。
だが、
耳元で、
少女が囁いた。
「今度は、
おじさんが、
海に来てね」
俺は、
答えなかった。
すると、
少女が笑った。
「返事しなくても、
大丈夫」
「だって――」
耳元で、
冷たい息がかかった。
「もう、
名前、
知ってるから」
――青森・第三話 終。




