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日本の怖い話  作者: こうた


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7/21

青森・第三話

海から呼ぶ声


その村では、


海から名前を呼ばれても、


絶対に返事をしてはいけなかった。


理由を聞いても、


誰も教えてくれない。


ただ、


年寄りたちは、


同じことを言った。


「海が呼ぶときはな、


人を呼んでるんじゃない」


「じゃあ、何を呼んでるの?」


「……身体だ」


子供の頃の俺は、


その意味が分からなかった。


大人になった今でも、


分からない。


ただ、


一度だけ。


俺は、


海から自分の名前を呼ばれた。


---


俺の故郷は、


青森県の海沿いにある小さな町だった。


観光地ではない。


漁港と住宅が並ぶ、


どこにでもあるような町。


子供の頃は、


夏になると毎日のように海へ行った。


泳いだり、


釣りをしたり。


夕方になるまで遊んでいた。


けれど、


海の近くに住む老人たちは、


いつも俺たちに言っていた。


「日が沈んだら、


海へ近づくな」


「名前を呼ばれても、


返事するな」


「海から人が歩いてきても、


絶対に手を振るな」


俺たちは笑っていた。


「そんなの迷信だ」


と。


---


二十年後。


俺は、


仕事の都合で故郷へ戻ってきた。


父が亡くなったからだ。


葬儀を終え、


実家の整理をしていた。


母は、


数年前から施設に入っている。


家には、


俺一人。


久しぶりに戻った実家は、


妙に静かだった。


夜。


風呂から出て、


窓を開ける。


海の匂いがした。


遠くで、


波の音。


ザァ……


ザァ……


俺は、


懐かしいと思った。


そのとき。


「……浩二」


俺は、


動きを止めた。


誰かが、


俺の名前を呼んだ。


海の方から。


「……」


聞き間違いだ。


そう思った。


もう一度。


「浩二」


今度は、


はっきり聞こえた。


俺は、


窓を閉めた。


カーテンも閉めた。


そして、


その夜は、


何も考えずに眠った。


---


翌朝。


近所の幼馴染、


健一が家に来た。


「久しぶり」


「お前、


昨日帰ってきたんだって?」


「ああ」


「夜、


海の方に行った?」


俺は、


少し迷った。


「……行ってない」


健一は、


俺の顔を見る。


「本当に?」


「うん」


「じゃあ、


海から何か聞こえなかった?」


俺は、


黙った。


健一の顔色が変わった。


「聞こえたんだな?」


「……名前を呼ばれた」


健一は、


黙り込んだ。


「何?」


「親父さんが、


死んだ夜も、


海が名前を呼んだらしい」


「誰の?」


「お前の」


俺は、


笑った。


「そんなわけない」


「俺もそう思ってた」


健一は、


窓の外を見た。


「でも、


今朝な」


「うん」


「漁に出た親父が、


海の上で、


お前を見たって言ってる」


「……俺を?」


「海の中から、


こっちを見てたって」


---


俺は、


気味が悪くなった。


「親父さん、


何か見間違えたんじゃないか?」


「俺もそう思った」


健一は、


少し黙った。


「でもな」


「何?」


「お前の親父さん、


今朝から口をきかない」


「……」


「ずっと海を見てる」


---


その日の夕方。


俺は、


港へ行った。


父の船が、


まだ残っていた。


小さな漁船。


俺は、


船に触れた。


冷たい。


船底には、


古いロープ。


網。


そして、


見覚えのないものがあった。


小さな靴。


子供用の、


赤い長靴。


「……?」


俺には、


子供はいない。


父にも、


孫はいなかった。


どうして、


こんなものが船にある?


俺は、


拾い上げた。


その瞬間。


海から、


声がした。


「浩二」


俺は、


長靴を落とした。


海を見る。


何もない。


波だけ。


「浩二」


今度は、


すぐ近く。


俺は、


後ろを振り返った。


誰もいない。


「浩二」


海を見る。


黒い海。


そして、


水面に、


何か浮かんでいた。


白い顔。


「……!」


俺は、


後ずさった。


顔だけが、


海面に浮かんでいる。


目を閉じている。


長い髪が、


水面に広がっている。


女だった。


「……」


俺は、


逃げようとした。


そのとき。


女が、


目を開けた。


俺と、


目が合った。


女が、


笑った。


「浩二」


俺は、


走った。


---


家へ帰り、


鍵をかけた。


窓も閉める。


カーテンも閉める。


そして、


父の古いアルバムを取り出した。


何か手がかりがある気がした。


写真をめくる。


父。


母。


俺。


幼い頃の健一。


海。


漁船。


そして、


一枚の写真。


俺は、


手を止めた。


幼い俺が、


海辺に立っている。


隣に、


父。


母。


そして、


知らない女。


「……誰だ?」


女は、


濡れた服を着ている。


髪が長い。


顔が、


ほとんど見えない。


写真の裏を見る。


日付。


二十五年前。


俺が、


五歳の頃。


そして、


父の字で、


一言だけ書かれていた。


「見つけてしまった」


俺は、


写真を落とした。


---


その夜。


午前二時。


目が覚めた。


「……」


部屋が、


異常に寒い。


窓を見る。


閉まっている。


それなのに、


カーテンが揺れている。


そして、


床が濡れていた。


ポタ。


ポタ。


水滴。


俺は、


起き上がった。


足元を見る。


濡れた足跡が、


廊下へ続いている。


裸足。


小さな足跡。


子供のもの。


俺は、


息を止めた。


足跡は、


玄関へ向かっている。


そして、


玄関で、


消えていた。


「……」


そのとき。


玄関の向こうから、


声。


「浩二」


俺は、


動けなかった。


「浩二」


ドアを、


三回叩く。


コン。


コン。


コン。


「開けて」


俺は、


返事をしなかった。


「お父さん」


その言葉に、


心臓が止まりそうになった。


父の声だった。


「浩二」


「……」


「開けてくれ」


俺は、


耳を塞いだ。


父は、


死んだ。


ここにいるはずがない。


「寒いんだ」


父の声。


「中に入れてくれ」


俺は、


震えながら、


言った。


「父さんじゃない」


ドアの向こうが、


静かになった。


そして、


小さな声。


「……そうだよ」


俺は、


固まった。


「俺は、


お前の父親じゃない」


「……」


「でも、


父親の声なら、


使える」


俺は、


逃げた。


---


朝になるまで、


俺は部屋に閉じこもった。


明るくなってから、


健一へ電話した。


「昨日の夜、


何かあった?」


健一が聞く。


俺は、


全部話した。


健一は、


しばらく黙っていた。


「……親父に聞いた」


「何を?」


「昔の話」


「うん」


「二十五年前、


この町で、


子供が一人、


海で行方不明になった」


俺は、


赤い長靴を思い出した。


「女の子?」


「そう」


「名前は?」


健一は、


言った。


「美咲」


俺は、


写真を思い出した。


「……あの写真の女?」


「何?」


「父さんのアルバムに、


女の人が写ってた」


「見せてくれ」


俺は、


写真を送った。


健一から、


すぐに電話が来た。


「これ……」


「何?」


「美咲の母親だ」


「……」


「美咲が海で死んだあと、


毎晩、


海へ行ってたらしい」


「何で?」


「娘の名前を呼んでた」


「……」


「ある夜、


その母親も、


海で消えた」


俺は、


写真を見た。


「じゃあ、


この人は……」


健一は、


小さな声で言った。


「海から帰ってきたんじゃないか?」


---


その日の夕方。


俺は、


父の船へ向かった。


理由は、


分からない。


ただ、


写真の意味を確かめたかった。


船に乗る。


赤い長靴を見つける。


そして、


船の底に、


小さな木箱があることに気づいた。


蓋を開ける。


中には、


古い手紙。


父の字。


俺は、


読む。


――浩二へ。


――お前がこれを読む頃、


――俺はもういないだろう。


――話しておかなければならないことがある。


――二十五年前、


――海で美咲を見つけた。


――正確には、


――海の中にいる美咲を見つけた。


――助けようとした。


――だが、


――美咲は死んでいた。


――そのとき、


――俺は聞いた。


――「おじさん、私の代わりに誰か呼んで」


俺は、


手紙を持つ手が震えた。


続き。


――怖くなって、


――逃げた。


――だが、


――その日から、


――海が俺の名前を呼ぶようになった。


――何年も無視した。


――だが、


――去年から、


――声が変わった。


――お前の声になった。


俺は、


息を止めた。


――浩二。


――海は、


――一人を連れていくと、


――一人を返す。


――だから、


――俺が死んだら、


――絶対に海へ近づくな。


最後の一行。


――お前が呼ばれても、


――返事をするな。


---


俺は、


船を降りようとした。


そのとき。


海から、


声がした。


「浩二」


俺は、


動かなかった。


「浩二」


返事をしない。


「浩二」


無視する。


すると、


声が変わった。


「お父さん」


俺は、


目を閉じた。


「お父さん」


今度は、


幼い女の子。


「寒いよ」


俺は、


耳を塞いだ。


「お父さん、


助けて」


涙が出そうになった。


「お願い」


「……」


「海から出られない」


俺は、


歯を食いしばった。


その瞬間。


別の声がした。


母だった。


「浩二」


そして、


父。


「浩二」


健一。


「浩二」


最後に、


自分自身。


「浩二」


四人の声が、


同時に呼ぶ。


俺は、


船の中で、


動けなくなった。


そして、


海面を見る。


そこに、


四人の顔が浮かんでいた。


父。


母。


健一。


そして、


俺。


「……」


俺は、


後ずさった。


俺の顔が、


海の中から笑っている。


そして、


口を動かした。


「一人、


選んで」


---


その瞬間。


港の方から、


サイレンが聞こえた。


警察。


消防。


人が集まってくる。


俺は、


船から飛び降りた。


岸へ走った。


健一がいた。


「浩二!」


俺は、


健一に抱きついた。


「海に何かいる!」


健一は、


俺の顔を見る。


「何が?」


「父さんや母さんの顔が……」


健一は、


青ざめた。


「……お前、


何言ってる?」


「え?」


健一が、


震える手で、


海を指差した。


「海に、


お前の顔が浮いてる」


俺は、


振り返った。


海面。


そこに、


俺の顔があった。


笑っている。


そして、


俺の顔が、


言った。


「健一」


健一が、


固まった。


「……」


俺は、


叫んだ。


「返事するな!」


しかし、


遅かった。


海の中の俺が、


言った。


「健一」


健一が、


無意識に答えた。


「……何?」


その瞬間。


海面から、


白い手が伸びた。


健一の足首を掴む。


「うわっ!」


俺は、


健一を掴んだ。


だが、


力が強い。


二人とも、


海へ引きずられる。


「離せ!」


「浩二!」


「手を離すな!」


俺は、


必死に引っ張った。


そのとき。


健一が、


泣きながら言った。


「浩二」


「何?」


「海の中に、


お前の父さんがいる」


「見るな!」


「母さんもいる」


「見るな!」


「それから……」


健一の顔が、


恐怖に歪む。


「俺自身もいる」


俺は、


健一を引っ張った。


そして、


何とか岸へ転がり出た。


白い手は、


消えていた。


---


翌朝。


俺は、


町を出ることにした。


二度と戻らない。


そう決めた。


荷物をまとめ、


車へ乗る。


健一も、


一緒に来ることになった。


「しばらく、


町を離れよう」


俺が言う。


健一は、


頷いた。


「そうだな」


車を走らせる。


海沿いの道。


町が遠ざかっていく。


俺は、


バックミラーを見た。


港。


父の船。


海。


そして、


堤防の上に、


誰かが立っている。


白い服。


長い髪。


女。


俺は、


目を逸らした。


「見るな」


健一が言った。


「分かってる」


車を走らせる。


しばらくして、


健一が言った。


「……なあ」


「何?」


「さっきから、


後ろの席に誰かいる」


俺は、


ブレーキを踏んだ。


「……え?」


後部座席を見る。


誰もいない。


「気のせいだろ」


「そうかな」


健一が、


小さく笑った。


「でも、


ずっと濡れた足音がする」


俺は、


聞いた。


ポタ。


ポタ。


ポタ。


後ろから、


水が落ちる音。


「……」


そして、


後部座席から、


声。


「浩二」


俺は、


アクセルを踏んだ。


「浩二」


返事をしない。


「浩二」


無視する。


「健一」


健一の名前。


俺は、


隣を見る。


健一は、


青ざめている。


「返事するな」


俺が言う。


健一は、


黙っている。


後ろから、


声がする。


「健一」


「……」


「健一」


そして、


とうとう、


健一が答えた。


「……何?」


その瞬間。


車の後部座席が、


水で満たされた。


「うわあああ!」


俺は、


車を路肩に停めた。


後ろを見る。


誰もいない。


水もない。


健一だけが、


震えている。


「……今の、


何だった?」


「分からない」


健一は、


自分の服を見る。


濡れていない。


だが、


俺は気づいた。


健一の首に、


手形がある。


青黒い、


小さな手形。


まるで、


子供の手のような。


---


それから三日後。


健一は、


突然いなくなった。


ホテルの部屋から。


荷物も残したまま。


警察に届けた。


捜索もした。


見つからない。


俺は、


一人で故郷を離れた。


もう海を見ることも、


名前を呼ばれることもない。


そう思っていた。


---


半年後。


俺は、


新しい町で暮らしていた。


普通の生活。


仕事。


食事。


睡眠。


海から離れた場所。


もう大丈夫だ。


そう思っていた。


ある夜。


風呂から出る。


スマートフォンを見る。


知らない番号から、


着信。


俺は、


無視した。


また鳴る。


無視する。


三回目。


そして、


留守番電話に切り替わった。


俺は、


何気なく再生した。


ザーッ。


波の音。


そして、


声。


「浩二」


俺は、


スマートフォンを落とした。


次の声。


「お父さん」


次。


「お母さん」


そして、


最後。


健一。


「浩二」


俺は、


震えながら、


再生を止めようとした。


しかし、


最後に、


別の声が入った。


子供の声。


「一人、


返すね」


俺は、


凍りついた。


翌朝。


自宅の玄関を開ける。


そこに、


赤い長靴が置かれていた。


二十五年前、


父の船にあったものと、


同じもの。


そして、


長靴の中には、


一枚の写真。


俺と、


健一。


子供の頃の写真だった。


二人で海辺に立っている。


写真の裏には、


誰かの字で、


こう書かれていた。


「二人いるから、一人返せる」


俺は、


写真を落とした。


その瞬間。


玄関の外から、


波の音が聞こえた。


ザァ……


ザァ……


ここは、


海から何十キロも離れている。


なのに、


確かに聞こえる。


そして、


誰かが、


俺の名前を呼んだ。


「浩二」


俺は、


返事をしなかった。


「浩二」


返事をしない。


「浩二」


それでも、


呼び続ける。


そして、


最後に、


こう言った。


「……次は、


誰を返す?」


俺は、


窓を閉めた。


カーテンを閉めた。


耳を塞いだ。


それでも、


聞こえる。


海の音。


波の音。


そして、


何人もの人間が、


俺の名前を呼ぶ声。


その中に、


一つだけ、


まだ聞いたことのない声があった。


小さな、


幼い女の子の声。


「おじさん」


俺は、


目を閉じた。


「私、


ずっと待ってたよ」


その声の直後。


玄関のドアが、


ゆっくり開いた。


俺は、


動けなかった。


廊下に、


濡れた足跡が一つ。


小さな足跡。


それが、


俺の部屋へ向かって、


一歩ずつ、


近づいてくる。


ペタ。


ペタ。


ペタ。


そして、


ベッドの横で止まった。


何も見えない。


だが、


耳元で、


少女が囁いた。


「今度は、


おじさんが、


海に来てね」


俺は、


答えなかった。


すると、


少女が笑った。


「返事しなくても、


大丈夫」


「だって――」


耳元で、


冷たい息がかかった。


「もう、


名前、


知ってるから」


――青森・第三話 終。

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