青森・第二話
八甲田山雪中行軍遭難事件は実在の歴史的事件ですが、作中の「点呼」「軍人の霊」「二十四人・二十五人」の怪異は創作です。実際の遭難事件を扱う際には、史実と後世の怪談を分けて考える必要があります。
点呼
「人数を数えてください」
ガイドの男は、
そう言った。
八甲田山へ向かう、
冬のバスの中だった。
「今日は雪が深いので、
絶対に一人で離れないでください」
乗客は、
十七人。
俺は窓側の席に座っていた。
隣には、
妻の沙織。
そして、
後ろには、
大学生らしい男女が数人。
観光ツアーだった。
ただ、
俺は八甲田山について、
少しだけ嫌な印象を持っていた。
子供の頃から、
何度も聞いていたからだ。
八甲田山。
雪中行軍。
遭難。
大量の死者。
そして、
今でも山中で、
軍人の姿を見たという話。
もちろん、
そんなものは、
ただの噂だ。
そう思っていた。
そのときまでは。
---
バスが山道へ入った。
雪が強くなった。
窓の外は、
真っ白。
木々が、
雪で覆われている。
ガイドが、
マイクを持った。
「この辺りでは、
冬になると視界が非常に悪くなります」
「昔は、
現在のような道路もありませんでした」
「八甲田山では、
1902年に、
青森歩兵第五連隊の雪中行軍隊が遭難し――」
その話を聞いていたとき、
後ろの席から、
女の声がした。
「……寒い」
俺は、
振り返った。
女子学生が、
窓の外を見ていた。
「寒いね」
友達が答える。
しかし、
その女子学生は、
首を横に振った。
「違う」
「え?」
「外から、
聞こえる」
俺は、
窓の外を見た。
雪しかない。
「何が?」
女子学生は、
小さな声で言った。
「点呼」
---
午後二時。
バスが、
山中の駐車場に停まった。
ガイドが、
「ここから自由時間です」
と言った。
「ただし、
絶対に指定された範囲から出ないでください」
俺たちは、
外へ出た。
寒い。
顔に雪が当たる。
視界が悪い。
俺は、
沙織と並んで歩いた。
「寒いね」
「うん」
「早めに戻ろう」
「そうしよう」
そのとき。
森の奥から、
声が聞こえた。
「一人!」
俺は、
足を止めた。
「……今、
聞こえた?」
沙織が聞く。
「うん」
雪の向こう。
誰かが叫んでいる。
「二人!」
声は、
遠い。
「三人!」
「……」
「四人!」
俺たちは、
顔を見合わせた。
「点呼?」
沙織が言った。
俺は、
笑おうとした。
「誰かの冗談だろ」
しかし、
声は続いた。
「五人!」
「六人!」
「七人!」
俺は、
周囲を見た。
観光客がいる。
だが、
誰も声を出していない。
「八人!」
「九人!」
声が、
近づいてくる。
「十人!」
「十一人!」
「十二人!」
俺は、
ガイドを探した。
いた。
だが、
ガイドも、
顔を青くしていた。
「十三人!」
ガイドが、
突然、
叫んだ。
「全員、
戻ってください!」
観光客が、
驚いて振り返る。
「何ですか?」
ガイドは、
答えなかった。
ただ、
「早く!」
と叫んだ。
俺たちは、
バスへ戻った。
---
全員が、
乗り込んだ。
ガイドが、
人数を確認する。
「一、
二、
三……」
数えている。
俺は、
窓から外を見た。
雪。
何もない。
「十六、
十七」
ガイドが、
顔を上げた。
「……」
俺たちは、
全員いる。
十七人。
ガイドを含めれば、
十八人。
「大丈夫ですね」
誰かが笑った。
ガイドは、
笑わなかった。
「……出発します」
バスが動き出した。
その瞬間。
外から、
声が聞こえた。
「十八人」
俺は、
窓を見た。
誰かが、
バスの横を歩いていた。
軍服。
帽子。
雪まみれの顔。
「……」
俺は、
目を疑った。
軍人だった。
バスと同じ速度で、
歩いている。
雪の上を。
普通に。
「沙織」
「何?」
「あれ……」
妻が窓を見る。
そして、
絶句した。
軍人は、
こちらを見た。
口が動く。
声は聞こえない。
だが、
俺には、
何を言っているのか分かった。
「十九人」
軍人が、
指を一本立てた。
そして、
笑った。
---
バスの中が、
騒がしくなった。
「今、
誰か見えた?」
「外に人いたよね?」
「軍服じゃなかった?」
ガイドは、
何も答えない。
ただ、
運転手に言った。
「止まらず、
そのまま下ってください」
「分かった」
バスが、
速度を上げる。
軍人は、
消えた。
俺は、
安心した。
見間違いだ。
雪のせいだ。
そう思った。
だが、
隣の沙織が、
小さな声で言った。
「ねえ」
「何?」
「さっき、
十八人って言ったよね」
「うん」
「でも、
今、
私たち何人?」
俺は、
数えた。
前。
一人。
二人。
三人。
後ろ。
四人。
五人。
六人。
……
おかしい。
「……」
一人多い。
さっきは、
十七人だった。
今は、
十八人いる。
「……誰?」
俺は、
立ち上がった。
最後列。
窓側。
そこに、
知らない男が座っていた。
古い軍服。
帽子。
雪に濡れた顔。
俯いている。
「……」
俺は、
声をかけられなかった。
男が、
ゆっくり顔を上げた。
目がなかった。
ただ、
黒い穴が二つ。
そして、
口だけが、
大きく開いた。
「……十九」
男が、
呟いた。
その瞬間。
バスの照明が消えた。
---
「何だ!?」
乗客が叫ぶ。
「落ち着いてください!」
ガイドが言う。
運転手が、
「電気系統です!」
と叫んだ。
真っ暗。
雪の中。
エンジン音だけが、
響いている。
そして、
後ろから、
声が聞こえた。
「一人」
「……」
「二人」
「三人」
「四人」
「五人」
また、
点呼が始まった。
「六人」
「七人」
「八人」
「九人」
俺は、
妻の手を握った。
「離れるな」
「うん」
「十人」
「十一人」
「十二人」
「十三人」
「十四人」
「十五人」
「十六人」
「十七人」
そして、
声が止まった。
「……」
静かになった。
誰も、
動かない。
すると、
最後列から、
声。
「十八人」
俺は、
後ろを見る。
軍人が立っていた。
「十九人」
軍人が、
一歩近づく。
「二十人」
乗客の一人が、
泣き出した。
「やめて……」
軍人が、
さらに一歩。
「二十一人」
俺は、
気づいた。
数が、
増えている。
乗客の人数ではない。
**死んだ人間を、
数えている。**
---
突然、
バスが止まった。
運転手が叫んだ。
「道路が……!」
「どうした!?」
「前に、
何かある!」
ヘッドライトが照らす。
雪の中。
人が立っている。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
全員、
古い軍服。
「……」
乗客が、
息を呑む。
軍人たちは、
道路いっぱいに並んでいた。
その後ろ。
さらに大勢。
数え切れない。
そして、
全員が、
こちらを見ている。
ガイドが、
小さく言った。
「……来た」
「何が?」
俺が聞く。
ガイドは、
答えなかった。
ただ、
運転手に言った。
「バックしてください」
「でも後ろにも……」
「いいから!」
運転手が、
バックギアに入れる。
その瞬間。
バスの後ろから、
何かが、
ドン!
とぶつかった。
「何!?」
もう一度。
ドン!
ドン!
バスが揺れる。
乗客が悲鳴を上げる。
ガイドが、
窓を見た。
そして、
絶望した顔で言った。
「……囲まれた」
---
窓の外。
軍人たちが、
バスを囲んでいた。
一人。
二人。
十人。
二十人。
もっといる。
全員が、
バスを見ている。
そして、
全員が、
同じ言葉を繰り返している。
「一人」
「二人」
「三人」
「四人」
「五人」
数字が、
増えていく。
「十八人」
「十九人」
「二十人」
俺は、
妻の手を強く握った。
「絶対に離すな」
「うん」
「何があっても」
「分かった」
「二十一人」
「二十二人」
「二十三人」
俺は、
窓を見た。
軍人の中に、
一人だけ、
違う服の人間がいる。
現代の服。
黒いコート。
顔は見えない。
その人物が、
ゆっくり顔を上げた。
俺は、
凍った。
「……俺?」
そこにいたのは、
俺だった。
同じ顔。
同じ服。
そして、
俺を見ながら、
口を動かしている。
「二十四人」
---
突然、
バスのドアが開いた。
「誰が開けた!?」
運転手が叫ぶ。
外から、
冷たい風が吹き込む。
雪が、
車内に入ってくる。
そして、
一人の乗客が、
立ち上がった。
「寒い」
「座って!」
ガイドが叫ぶ。
だが、
乗客は、
ドアへ歩いていく。
「寒いんだ」
「やめて!」
ガイドが、
その腕を掴む。
しかし、
乗客は、
振り払った。
「みんな、
待ってるから」
ドアの外へ。
一歩。
二歩。
雪の中へ。
その瞬間。
軍人たちが、
一斉に敬礼した。
「……」
乗客は、
そのまま歩いていった。
雪の中へ消える。
そして、
点呼。
「一人」
「二人」
「三人」
数字が、
一つ減った。
「二十三人」
---
その後、
何が起きたのか、
俺はよく覚えていない。
バスが、
突然動いた。
軍人たちをすり抜け、
山を下った。
気づいたときには、
道路沿いの施設に着いていた。
警察が来た。
救急車も来た。
乗客を確認する。
「一、
二、
三……」
人数を数える。
十六人。
一人足りない。
さっき、
バスから降りた男だった。
捜索が始まった。
だが、
見つからない。
雪山を、
何時間も探した。
何もない。
足跡すら、
なかった。
---
翌日。
俺は、
ホテルでニュースを見ていた。
昨夜の遭難騒ぎが、
小さく報じられていた。
「観光バスの乗客一人が行方不明となっており――」
俺は、
テレビを消した。
妻が、
言った。
「帰ろう」
「ああ」
荷物をまとめる。
そのとき、
妻が、
突然、
俺を見る。
「ねえ」
「何?」
「昨日、
バスに乗ってた人、
何人だった?」
「十七人」
「……」
妻が、
黙った。
「どうした?」
「違う」
「何が?」
「私、
昨日からずっと、
一人多い気がする」
「……」
俺は、
嫌な予感がした。
「何が?」
妻が、
震える声で言った。
「私たちの部屋に、
誰かいる」
俺は、
部屋を見回した。
ベッド。
机。
クローゼット。
誰もいない。
「いないよ」
「いる」
「どこ?」
妻が、
指差した。
鏡。
俺は、
鏡を見る。
俺。
妻。
そして、
俺たちの後ろに、
もう一人。
古い軍服。
俺は、
振り返った。
誰もいない。
鏡を見る。
軍人は、
まだいる。
そして、
その男が、
口を開いた。
声は、
聞こえなかった。
だが、
俺には、
分かった。
「一人」
軍人が、
指を一本立てる。
「二人」
二本。
「三人」
三本。
そして、
最後に、
俺を指差した。
「四人」
---
俺たちは、
その日のうちに、
青森を離れた。
二度と八甲田山へ行くことはなかった。
あの事件から、
一年。
二年。
三年。
何も起こらなかった。
だから、
俺は、
あれを事故だったと思うようになった。
雪による幻覚。
恐怖による集団心理。
そういうものだったのだろう。
そう思っていた。
娘が生まれるまでは。
---
娘が三歳になった頃。
ある夜、
娘が突然、
泣き出した。
「どうした?」
「おじさんがいる」
「どこ?」
娘が、
部屋の隅を指差した。
「そこ」
何もない。
「怖くないよ」
「怖い」
「どんな人?」
娘は、
泣きながら答えた。
「帽子のおじさん」
俺は、
固まった。
「何て言ってる?」
娘が、
耳を塞ぐ。
「人数を数えてる」
俺は、
立ち上がった。
「……何人って?」
娘は、
指を折りながら、
数え始めた。
「一人」
「二人」
「三人」
俺は、
娘の手を掴んだ。
「やめろ」
娘が、
俺を見る。
「四人」
「……」
「五人」
「やめて!」
娘は、
泣きながら言った。
「パパ」
「何?」
「おじさんが、
パパを数えてる」
俺は、
振り返った。
部屋には、
誰もいない。
しかし、
窓ガラスに、
人影が映っていた。
古い軍服。
帽子。
雪に濡れた顔。
その男が、
こちらを見ている。
そして、
口を開いた。
今度は、
はっきり聞こえた。
「二十四人」
俺は、
息を止めた。
八甲田山で、
最後に聞いた数字。
二十四。
あの日、
俺たちのバスに、
乗っていた人数。
いや。
違う。
俺は、
今になって気づいた。
あのとき、
軍人は、
「二十四人」
と言った。
俺たちの人数を、
数えていたんじゃない。
**これから死ぬ人数を、
数えていたのだ。**
そして、
その数は、
まだ終わっていない。
窓の外で、
雪が降り始めた。
九月なのに。
娘が、
俺の手を握った。
「パパ」
「何?」
「また一人、
増えたよ」
俺は、
ゆっくり鏡を見る。
俺。
妻。
娘。
そして――
俺たちの後ろに、
もう一人。
軍服の男が立っていた。
その男は、
敬礼した。
そして、
静かに言った。
「二十五人」
――青森・第二話 終。




