青森・第一話
今回の実在要素: 恐山は青森県むつ市にある霊場で、青森県公式観光サイトも「人は死ねば恐山に行く」という伝承を紹介しています。また、三途の川、賽の河原、地獄谷などの景観や、イタコの口寄せが行われる恐山大祭など、死者とのつながりを想起させる文化があります。
なお、作中の母親・電話・怪異・出来事は創作です。恐山は実際の霊場なので、物語と実在の信仰・参拝を混同しないようにしています。
母を呼ぶ声
「死んだ人に会える場所がある」
そう聞いたとき、
俺は笑った。
そんな場所が、
本当にあるわけがない。
そう思っていた。
少なくとも、
あの日までは。
---
母が死んだのは、
俺が二十九歳のときだった。
病気だった。
長い闘病生活だった。
最後の数か月は、
ほとんど会話もできなかった。
それでも、
最後に病室へ行った日。
母は俺の手を握って、
こう言った。
「……ごめんね」
俺は笑った。
「何が?」
母は答えなかった。
ただ、
何度も俺の手を握った。
そして、
小さな声で、
「またね」
と言った。
それが最後だった。
---
葬儀が終わって、
半年ほど経った頃。
俺は青森へ出張することになった。
仕事で下北半島へ行く予定があった。
せっかくなので、
帰りに恐山へ寄ることにした。
理由は、
特になかった。
ただ、
母が亡くなってから、
一度だけ、
聞いたことがあった。
「死んだ人に会いたかったら、
恐山に行けばいい」
誰から聞いたのかも覚えていない。
けれど、
その言葉だけは、
ずっと頭に残っていた。
---
恐山へ向かう道は、
静かだった。
山道を登っていく。
窓を少し開けると、
硫黄のような匂いがした。
やがて、
荒涼とした景色が現れた。
岩。
白い地面。
ところどころから立ち上る煙。
そして、
風車。
小さな風車が、
風に揺れていた。
カラ。
カラ。
カラ。
その音が、
妙に耳に残った。
俺は車を停め、
しばらく景色を見ていた。
観光客もいる。
家族連れもいる。
決して、
「怖い場所」
という雰囲気ではない。
むしろ、
静かで、
どこか悲しい場所だった。
俺は、
一人で歩き始めた。
---
賽の河原。
積まれた石。
風車。
供養のために置かれたもの。
その景色を見ていると、
なぜか母のことを思い出した。
最後の病室。
白い布団。
細くなった腕。
「またね」
という声。
俺は、
小さく呟いた。
「母さん」
風が吹いた。
カラ。
カラ。
風車が回った。
「……会いたかったな」
自分でも驚くほど、
自然に言葉が出た。
その瞬間。
背後から、
声がした。
「……航平?」
俺の名前だった。
俺は、
振り返った。
誰もいない。
観光客が、
少し離れた場所を歩いている。
「……」
気のせいだ。
そう思った。
母の声に似ていた。
でも、
そんなわけがない。
もう一度、
前を向いた。
すると、
今度は、
すぐ耳元で聞こえた。
「航平」
俺は、
振り返った。
誰もいない。
背中に、
冷たい汗が流れた。
---
その夜。
俺は、
恐山近くの宿に泊まった。
部屋に入って、
テレビをつけた。
だが、
どうにも落ち着かない。
昼間の声が、
頭から離れなかった。
「航平」
母の声。
間違えるはずがない。
二十九年間、
聞いてきた声だった。
俺は、
スマートフォンを取り出した。
母の写真を探した。
一枚だけ残っていた。
入院する前の写真。
笑っている。
俺は、
その写真を見ながら、
「会いたい」
と呟いた。
すると、
スマートフォンが震えた。
着信。
知らない番号。
俺は、
少し迷ってから、
出た。
「もしもし?」
返事はない。
「もしもし?」
ザーッ。
雑音。
そして、
遠くから、
女の声。
「……航平?」
俺は、
息を止めた。
「……母さん?」
電話の向こうが、
静かになった。
そして、
母の声。
「寒い」
「……」
「寒いの」
俺は、
立ち上がった。
「どこにいるの?」
返事はない。
「母さん?」
電話が切れた。
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翌朝。
俺は、
昨日のことを誰にも話さなかった。
仕事へ行く前に、
もう一度、
恐山へ行った。
馬鹿げている。
そう思っていた。
でも、
確認したかった。
昨日、
確かに声を聞いた。
そして、
電話もかかってきた。
恐山に着く。
昨日と同じ場所へ向かう。
風車が回っている。
カラ。
カラ。
カラ。
俺は、
母の名前を呼んだ。
「母さん」
何も起こらない。
「……」
やっぱり、
気のせいだったのかもしれない。
そう思った。
そのとき。
風車が、
一斉に止まった。
風は吹いている。
なのに、
全部の風車が止まった。
「……」
静かだった。
あまりにも静かだった。
そして、
一つだけ、
風車が回り始めた。
俺の目の前。
赤い風車。
カラ。
カラ。
カラ。
その音に混じって、
声が聞こえた。
「航平」
俺は、
目を閉じた。
「母さん?」
「こっち」
目を開ける。
少し先に、
人影が立っていた。
白い服。
背中を向けている。
髪型。
身長。
肩の形。
母だった。
俺は、
走り出した。
「母さん!」
人影は、
歩き始めた。
ゆっくり。
俺から離れていく。
「待って!」
追いかける。
しかし、
距離が縮まらない。
「母さん!」
人影が、
一度だけ振り返った。
顔は見えなかった。
長い髪が、
顔を覆っていた。
でも、
声だけは、
母だった。
「航平」
「何?」
「こっちに来て」
俺は、
一歩踏み出した。
その瞬間。
誰かに腕を掴まれた。
「行っちゃいけません」
振り返る。
年配の女性だった。
「……何ですか?」
女性は、
人影を見る。
そして、
俺を見る。
「今、
誰を見ました?」
「母です」
「亡くなった方?」
「……はい」
女性の顔が、
曇った。
「なら、
行ってはいけません」
「でも……」
女性は、
静かに言った。
「ここでは、
会えることがあります」
「……」
「でも、
会ったからといって、
ついて行っていいわけではありません」
俺は、
人影を見る。
もう、
いなかった。
---
宿へ戻る途中。
俺は、
昨日の電話番号へかけてみた。
「……」
繋がらない。
もう一度。
繋がらない。
三度目。
やはり、
繋がらない。
諦めて、
電話を切ろうとした。
その瞬間。
着信。
同じ番号。
俺は、
出た。
「もしもし?」
母の声。
「航平」
「母さん」
「どうして来ないの?」
「……」
「寂しいよ」
俺は、
泣きそうになった。
「俺だって会いたい」
「じゃあ、
来て」
「どこに?」
「橋のところ」
俺は、
恐山の入り口を思い出した。
三途の川。
太鼓橋。
この世とあの世を隔てる場所とされている。
「……」
「待ってるから」
電話が切れた。
---
俺は、
戻った。
恐山へ。
三途の川へ。
橋の前に立つ。
誰もいない。
風が吹いている。
橋の向こう。
霧が出ていた。
そして、
その霧の中に、
母がいた。
今度は、
顔が見えた。
笑っている。
病気になる前の、
元気だった頃の母。
「母さん……」
母が手を広げる。
「おいで」
俺は、
橋へ足をかけた。
一歩。
二歩。
そのとき。
後ろから、
声がした。
「航平!」
振り返る。
誰もいない。
もう一度、
母を見る。
母が、
笑っている。
「おいで」
俺は、
一歩進んだ。
その瞬間。
母の顔が、
変わった。
目が黒い。
口が大きく裂けている。
皮膚が、
腐ったように崩れている。
俺は、
叫んだ。
「母さんじゃない!」
それでも、
母の姿をした何かは、
笑っていた。
「どうして?」
「……」
「会いたいって言ったでしょう?」
俺は、
後ろへ下がった。
「会いたいって言った」
「そう」
「でも、
あんたじゃない」
女は、
首を傾げた。
「じゃあ、
誰ならいいの?」
その瞬間。
背後から、
母の本当の声が聞こえた。
「航平!」
俺は、
振り返った。
そこには、
母がいた。
病室で最後に見た、
あの姿。
痩せた身体。
弱々しい笑顔。
でも、
確かに母だった。
「母さん……」
母は、
泣いていた。
「帰りなさい」
「……」
「私を探しに来ちゃだめ」
「でも……」
「私は、
もうこっちだから」
俺は、
泣いた。
「会いたかった」
「うん」
母も泣いていた。
「私も」
「……」
「でも、
生きている人が、
こっちに来ちゃだめ」
母が、
俺に背を向けた。
「母さん!」
「航平」
「何?」
「最後に一つだけ」
「うん」
母が振り返る。
「私が死ぬ前に言ったこと、
覚えてる?」
俺は、
頷いた。
「またね」
母が、
微笑んだ。
「そう」
そして、
言った。
「だから、
また会うまで、
生きなさい」
霧が、
母を包んだ。
「母さん!」
俺は、
手を伸ばした。
だが、
もう届かなかった。
---
俺は、
気がつくと、
三途の川の手前に倒れていた。
朝だった。
係の人に、
「大丈夫ですか?」
と声をかけられた。
俺は、
何も答えられなかった。
ただ、
空を見上げた。
青かった。
ものすごく、
青かった。
---
それから、
三年が経った。
俺は、
結婚した。
娘が生まれた。
名前は、
美緒。
母が生きていたら、
きっと喜んでくれただろう。
ある夜。
娘を寝かしつけていると、
突然、
娘が言った。
「ねえ、パパ」
「何?」
「今日、
おばあちゃん来たよ」
俺は、
固まった。
「……誰?」
「おばあちゃん」
「どこに?」
娘は、
窓を指差した。
「そこ」
カーテンの向こう。
俺は、
恐る恐る近づいた。
カーテンを開ける。
誰もいない。
窓の外は、
暗い。
「夢だよ」
俺は、
娘の頭を撫でた。
すると、
娘が笑った。
「おばあちゃん、
パパに伝えてって」
「何て?」
娘は、
母の口調を真似するように、
言った。
「またね」
俺は、
息を止めた。
そして、
窓を見た。
ガラスに、
俺と娘が映っている。
その後ろに、
もう一人。
母が立っていた。
笑っていた。
俺は、
振り返らなかった。
ただ、
涙が出た。
「……母さん」
ガラスの中の母が、
ゆっくり手を振った。
そして、
消えた。
その夜から、
俺は、
死ぬことが怖くなくなった。
ただ、
一つだけ。
恐山で聞いた言葉を、
忘れないようにしている。
「また会うまで、生きなさい」
死者に会える場所が、
本当にあるのか。
俺には、
今でも分からない。
ただ、
あの場所で、
確かに母の声を聞いた。
そして、
もし本当に、
あの世とこの世を隔てる場所があるのなら――
生きている人間が、
そこを越えてはいけない理由も、
少しだけ分かる気がする。
死者は、
こちらへ帰ってくるために、
呼んでいるんじゃない。
もしかすると、
**生きている人間を、
こちら側へ行かせないために、
呼び止めているのかもしれない。**
――青森・第一話 終。




