北海道・第三話
題材の根拠:
平和の滝は札幌市西区に実在する滝で、心霊スポットとして「動かない人影」「正体不明の霊」「声」などの噂が紹介されています。
また、現地については夜間の危険性やヒグマ、滑落などへの注意も掲載されています。実際に肝試し目的で夜間に訪れることはおすすめしません。今回の「美咲」や怪異の展開は創作です。
動かない女
その女は、
最初からそこにいた。
ただ、
誰も気づかなかった。
---
「ねえ、あそこに人いるよ」
彼女がそう言ったのは、
午後十一時四十分だった。
俺たちは四人で車に乗っていた。
札幌市内で飲んだ帰りだった。
運転しているのは俺。
助手席に健。
後部座席には、
彼女の美咲と、
その友人の奈緒。
「どこ?」
健が聞いた。
美咲は、
フロントガラスの向こうを指差した。
「道路の先」
俺は、
アクセルを緩めた。
暗い。
山道だった。
街灯が少なく、
車のライトが照らす範囲しか見えない。
その先に、
人影があった。
道路脇。
一人の女。
白い服を着て、
こちらに背を向けている。
「こんな時間に?」
健が言った。
「歩いてるのかな」
奈緒が、
後部座席から身を乗り出した。
「女の人?」
「うん」
美咲が答えた。
「ずっと立ってる」
俺は、
車をゆっくり近づけた。
女は動かない。
近づいても、
動かない。
クラクションを鳴らそうかと思った。
だが、
何となく嫌だった。
車が女の横を通り過ぎる。
俺は、
バックミラーを見た。
女は、
まだ立っている。
後ろ姿。
長い髪。
白い服。
そのまま、
微動だにしない。
「……変な人だな」
健が笑った。
「ねえ」
美咲が言った。
「何?」
「今、
女の人、
こっち見てた」
「え?」
「車が通るとき、
顔だけ動かした」
俺はバックミラーを見る。
女が、
こちらを見ていた。
顔は、
見えない。
長い髪が、
全部顔を覆っている。
「気味悪いな」
俺はアクセルを踏んだ。
そのとき。
後部座席から、
奈緒の声がした。
「……ねえ」
「何?」
「この道、
平和の滝に行く道じゃない?」
俺は答えた。
「そうだよ」
「……」
「どうした?」
「平和の滝って、
夜に行ったらダメって聞いたことある」
健が笑った。
「心霊スポットだから?」
奈緒は、
笑わなかった。
「うん」
「何で?」
奈緒は、
窓の外を見ながら言った。
「滝を見てる女がいるらしいよ」
車内が、
少し静かになった。
「女?」
「うん」
「それが?」
「ずっと滝を見てるの」
「それだけ?」
「違う」
奈緒は言った。
「その女を見た人は、
必ず一回、
その女と同じ場所に立ってしまうらしい」
健が笑った。
「何それ」
「知らない」
「都市伝説だろ」
「たぶん」
俺も笑った。
そのときだった。
美咲が、
突然言った。
「……さっきの女じゃない?」
俺はブレーキを踏んだ。
「え?」
「今、
道路の横にいた」
「どこ?」
美咲は、
後ろを指差した。
「もう見えない」
俺は、
バックミラーを見た。
何もない。
「見間違いだろ」
そう言って、
車を走らせた。
しかし、
美咲は黙っていた。
その顔は、
笑っていなかった。
---
午前零時二分。
俺たちは、
平和の滝に到着した。
車を停める。
周囲は真っ暗だった。
滝の音だけが、
遠くから聞こえる。
ザーッ。
ザーッ。
一定の音。
健が車から降りた。
「せっかくだし、
ちょっと見ていこうぜ」
「俺は嫌だな」
「何で?」
「もう帰ろう」
奈緒も、
頷いた。
「私も帰りたい」
健は笑った。
「お前ら怖がりすぎ」
美咲は、
黙っていた。
俺が聞く。
「美咲、
どうした?」
「……あそこ」
「どこ?」
美咲は、
滝の方を指差した。
「人いる」
俺は、
目を細めた。
確かに、
いた。
滝の前。
一人の女が立っている。
こちらに背を向けて、
滝を見ている。
白い服。
長い髪。
「……」
健の笑顔が消えた。
「さっきの女?」
俺は答えなかった。
同じ女だと思った。
道路脇で見た。
そして、
ここでも見る。
だが、
おかしい。
車からここまでは、
一本道だ。
俺たちは車で移動してきた。
途中に、
女が歩いている姿は見ていない。
それなのに、
女は、
先にここにいる。
「帰ろう」
俺が言った。
健が頷く。
「そうだな」
その瞬間。
女が、
振り返った。
四人とも、
動けなくなった。
顔は、
見えなかった。
髪の毛で覆われている。
ただ、
こちらを向いている。
そして、
女が、
右手を上げた。
手招き。
一度。
二度。
三度。
美咲が、
小さく呟いた。
「……呼んでる」
「行くな」
俺は言った。
「絶対に行くな」
すると、
女が、
首を傾げた。
そして、
手招きをやめた。
次の瞬間。
女が、
歩き始めた。
こちらへ。
一歩。
また一歩。
ゆっくり。
ゆっくり。
「車!」
俺が叫んだ。
四人で走った。
車へ戻る。
ドアを開ける。
乗り込む。
エンジンをかける。
かからない。
「早く!」
健が叫ぶ。
もう一度。
かからない。
三度目。
エンジンがかかった。
俺はアクセルを踏んだ。
車が動き出す。
バックミラーを見る。
女が立っている。
追ってこない。
ただ、
こちらを見ている。
俺は、
少し安心した。
そのとき。
美咲が、
後ろから叫んだ。
「待って!」
「何!?」
「後ろ!」
俺は、
バックミラーを見る。
女が、
車の後ろに立っていた。
さっきより近い。
「……」
俺はアクセルを踏み込んだ。
車が加速する。
女が遠ざかる。
「もう大丈夫」
そう思った。
だが、
美咲が、
震える声で言った。
「違う」
「何が?」
「後ろじゃない」
「……」
「車の中」
俺は、
ミラーを見る。
後部座席。
奈緒。
美咲。
そして、
その二人の間に、
女が座っていた。
俺は、
声が出なかった。
長い髪。
白い服。
顔は見えない。
女は、
二人の間で、
じっと座っている。
奈緒は、
女に気づいていない。
「美咲……」
「見ないで」
「……」
「絶対に、
振り返らないで」
俺は前を見た。
手が震える。
「何で?」
「私の耳元で、
ずっと何か言ってる」
「何て?」
美咲は、
泣きそうな声で答えた。
「……私の名前」
その瞬間。
車内に、
女の声が響いた。
「美咲」
美咲が、
目を閉じた。
「美咲」
もう一度。
「美咲」
三回目。
美咲が、
耳を塞いだ。
「やめて!」
女の声が、
突然、
俺の名前に変わった。
「……」
「……」
「健」
健が、
顔を上げた。
「奈緒」
奈緒が、
震えた。
そして、
最後に、
俺の名前。
俺は、
何も答えなかった。
女の声が、
少しずつ、
遠ざかっていく。
「……」
静かになった。
しばらくして、
美咲が言った。
「いなくなった?」
俺は、
ミラーを見る。
女はいない。
「いない」
四人とも、
息を吐いた。
「よかった……」
奈緒が言った。
その瞬間。
車のナビが、
突然、
起動した。
目的地。
知らない場所。
画面に表示された住所を見て、
俺は凍った。
――平和の滝。
「……」
「どうした?」
健が聞いた。
俺は、
ナビを切った。
「何でもない」
だが、
ナビは、
勝手に再起動した。
目的地。
平和の滝。
ルート案内開始。
『目的地まで、
二分です』
「……」
俺は、
車を止めた。
「どうした?」
「……道が、
さっきと違う」
「え?」
前方を見る。
知らない道。
暗い。
そして、
その先に、
滝が見える。
「……」
俺は、
アクセルを踏まなかった。
だが、
車が勝手に動いた。
ゆっくり。
前へ。
「ブレーキ!」
健が叫ぶ。
俺は、
ブレーキを踏んだ。
効かない。
「何で!?」
車が進む。
滝が近づいてくる。
「止まれ!」
車は止まらない。
そして、
滝の前に、
女が立っていた。
白い服。
長い髪。
女が、
こちらを見ている。
俺は、
ハンドルを切った。
車が横滑りする。
道路脇へ。
――ドン!
車が、
木にぶつかった。
エンジンが止まった。
静かになった。
誰も喋らない。
俺は、
自分の手を見る。
震えている。
健を見る。
額から血が出ている。
美咲は、
泣いている。
奈緒は、
目を閉じている。
「……みんな、
大丈夫か?」
返事がない。
「奈緒?」
奈緒が、
ゆっくり顔を上げた。
「……大丈夫」
俺は、
安心した。
その瞬間。
奈緒が言った。
「でも、
一人いないよ」
「……え?」
奈緒は、
隣を指差した。
美咲が、
いない。
「……美咲?」
後部座席を見る。
いない。
「美咲!」
ドアは閉まっている。
窓も閉まっている。
なのに、
美咲だけが消えていた。
「どこ行った!?」
健が叫ぶ。
車の外を見る。
いない。
道路にもいない。
滝にもいない。
そのとき、
車の屋根から、
音がした。
――コン。
三人が、
上を見る。
――コン。
もう一度。
――コン。
誰かが、
車の屋根を叩いている。
「……」
俺は、
動けなかった。
そして、
屋根の向こうから、
美咲の声がした。
「開けて」
俺は、
ドアを開けようとした。
その瞬間。
奈緒が、
俺の手を掴んだ。
「開けちゃダメ!」
「でも美咲が!」
「違う!」
奈緒は、
泣きながら言った。
「美咲、
車の中にいる」
「……」
俺は、
後部座席を見る。
誰もいない。
奈緒が、
俺の肩を掴んだ。
「そこ」
「どこ?」
「私の隣」
奈緒の隣。
誰もいない。
「いるよ」
奈緒が言った。
「美咲が、
ずっと座ってる」
俺は、
息ができなくなった。
「……見えない」
「見えない?」
「俺には、
何も見えない」
奈緒が、
ゆっくり横を見る。
「……美咲?」
返事はない。
そして、
奈緒の顔が、
徐々に青ざめていった。
「……違う」
「何が?」
「これ、
美咲じゃない」
車の屋根から、
また声。
「開けて」
今度は、
美咲の声ではなかった。
俺の声だった。
「開けて」
健の声。
「開けて」
奈緒の声。
そして、
最後に、
美咲の声。
「開けて」
四人全員の声が、
車の外から聞こえてくる。
俺は、
車のドアをロックした。
「絶対に開けるな」
三人とも、
頷いた。
その夜。
俺たちは、
車の中で、
朝を待った。
何時間経ったのか、
分からなかった。
外から、
ずっと声が聞こえていた。
「開けて」
「開けて」
「開けて」
午前五時頃。
鳥の声が聞こえ始めた。
明るくなってきた。
そして、
声が止んだ。
俺は、
ゆっくり外を見た。
誰もいない。
「……終わった?」
健が呟く。
俺は、
車のドアを開けた。
外へ出る。
周囲を確認する。
何もない。
滝の音。
朝の空気。
俺たちは、
助かった。
そう思った。
その瞬間。
奈緒が、
叫んだ。
「美咲!」
俺は振り返った。
そこに、
美咲が立っていた。
滝の前。
白い服。
濡れた髪。
こちらに背を向けている。
「美咲!」
俺たちは走った。
美咲は、
振り返らない。
「美咲!」
肩を掴んだ。
美咲が、
ゆっくり振り返った。
顔は、
普通だった。
「……何?」
俺は、
その場に座り込みそうになった。
「お前、
どこにいたんだよ……」
美咲は、
不思議そうな顔をした。
「ずっと車の中にいたよ」
「……」
俺たちは、
顔を見合わせた。
「何言ってんの?」
美咲が笑った。
「怖い夢でも見た?」
俺は、
言葉を失った。
そのとき。
美咲の後ろ。
滝の前に、
誰かが立っていた。
白い服。
長い髪。
女。
俺は、
息を止めた。
女が、
こちらを見ている。
そして、
美咲と同じ顔で、
笑った。
---
それから半年後。
俺は、
あの夜のことを誰にも話さなかった。
健も、
奈緒も同じだった。
美咲は、
何事もなかったように生活している。
ただ、
一つだけ。
変わったことがある。
美咲は、
夜になると、
必ず窓の外を見る。
そして、
何もない暗闇に向かって、
手を振る。
「誰に手を振ってるんだ?」
俺が聞いても、
笑うだけ。
「誰でもないよ」
そう言う。
ある日。
俺は、
美咲のスマートフォンを見た。
写真フォルダに、
一枚だけ、
知らない写真があった。
撮影日時は、
あの夜。
平和の滝。
写真には、
四人が写っている。
俺。
健。
奈緒。
美咲。
そして、
その後ろに、
女。
だが、
よく見ると、
おかしい。
女は、
美咲と同じ顔をしている。
俺は、
写真を拡大した。
女の口が、
少し開いている。
何か言っている。
写真なのに、
なぜか、
言葉が分かった。
――「私は帰れない」
俺は、
写真を閉じた。
その夜。
午前零時。
寝室から、
物音がした。
俺は起き上がった。
隣を見る。
美咲がいない。
「美咲?」
返事がない。
家の中を探す。
玄関。
リビング。
キッチン。
いない。
そして、
窓が開いていた。
冷たい風が入っている。
窓の外を見る。
暗闇。
その中に、
美咲が立っていた。
「美咲!」
彼女は、
振り返らない。
「何してるんだ!」
近づく。
美咲が、
小さく言った。
「……あの人、
まだ一人で立ってる」
「誰?」
「滝の前」
俺は、
窓の外を見た。
もちろん、
滝なんてない。
ただの住宅街。
「いないよ」
美咲が首を振った。
「いるよ」
そして、
ゆっくり俺を見る。
その顔を見て、
俺は凍りついた。
美咲の顔ではなかった。
長い髪の隙間から、
真っ白な顔。
目がない。
口だけが、
大きく笑っている。
そして、
美咲ではない声で、
こう言った。
「今度は、
あなたが立って」
――北海道・第三話 終。




