北海道・第二話
題材について:
雄別炭鉱(釧路炭鉱)は1919年から1970年まで存在した炭鉱で、事故による死傷者の記録があり、現在は心霊スポットとして「男性の霊」などの噂が紹介されています。特に病院跡についても怪異の目撃談が掲載されています。なお、作中の人物・出来事・「四人目」の怪異は創作です。現地は危険な場所で、私有地・立入禁止区域への無断侵入は避ける必要があります。
『雄別炭鉱の病院』
「廃墟に入ってみたい」
そう言い出したのは、健だった。
俺たちは三人で北海道を旅行していた。
健と、俺と、そして麻衣。
三人とも二十代。
社会人になってからは、なかなか休みが合わなかった。
だからこそ、久しぶりの旅行だった。
昼間は観光地を回った。
夜はホテルで酒を飲んだ。
そして二日目の夜。
健がスマートフォンを見ながら言った。
「なあ、雄別炭鉱って知ってる?」
「聞いたことある」
俺が答える。
「心霊スポットだろ」
「そう。しかも結構有名らしい」
健は楽しそうだった。
「病院跡がヤバいんだって」
麻衣が嫌そうな顔をした。
「やめようよ」
「何で?」
「普通に怖いじゃん」
「だから行くんだろ」
健は笑った。
「北海道まで来てるんだぞ。こういうところ行かないともったいないだろ」
「いや、北海道だからって心霊スポット行く必要ないでしょ」
俺も反対した。
だが、
健はすでに車のキーを持っていた。
「一時間だけ」
「……」
「中には入らない。近くまで行って写真撮って帰る」
麻衣が俺を見る。
「どうする?」
俺はため息をついた。
「一時間だけな」
今思えば、
あのとき、
もっと強く断るべきだった。
---
雄別へ向かう道は、
想像していた以上に暗かった。
街灯がなくなった。
コンビニもない。
民家もない。
ただ、
山と道路だけが続いている。
車のライトが、
闇を切り裂いている。
「……本当にこっち?」
麻衣が聞いた。
健はスマートフォンの地図を見ながら答えた。
「合ってる」
「人の気配が全然ないけど」
「炭鉱跡なんだから当然だろ」
俺は窓の外を見た。
木々。
闇。
そして、
時々、
道路脇に古い建物が見える。
誰も住んでいない。
明かりもない。
それなのに、
一度だけ、
二階の窓が光った。
「……今、あそこ光らなかった?」
俺が言った。
健が見る。
「どこ?」
「右側」
「何もないぞ」
「いや、確かに……」
麻衣が黙っていた。
「……何?」
俺が聞く。
麻衣は、
窓の外を見たまま言った。
「今、
窓の中に人がいた」
車内が静かになった。
「……見間違いじゃない?」
「分からない」
麻衣はそれ以上言わなかった。
---
しばらくして、
車は雄別炭鉱跡周辺に入った。
そこには、
巨大な煙突が立っていた。
暗闇の中に、
黒い塔のようにそびえている。
健が車を停めた。
「着いた」
俺は外へ出た。
空気が冷たい。
昼間より、
明らかに寒い。
「ここが?」
「そう」
健が周囲を照らす。
建物。
崩れた壁。
草木に覆われた道。
そして、
遠くに病院跡らしき建物が見えた。
「……あそこ?」
麻衣が聞いた。
健が頷く。
「たぶん」
俺はスマートフォンで写真を撮った。
一枚。
二枚。
三枚。
そのとき。
カメラのシャッター音に混じって、
別の音が聞こえた。
――カシャ。
――カシャ。
――カシャ。
――カシャ。
「……?」
俺はスマートフォンを下ろした。
「どうした?」
健が聞く。
「いや」
「何?」
「今、
四回鳴らなかった?」
「シャッター?」
「うん」
「三枚しか撮ってないぞ」
俺は画面を確認した。
確かに、
撮影枚数は三枚。
なのに、
四回目のシャッター音を聞いた。
麻衣が言った。
「……もう帰らない?」
健が笑った。
「まだ五分しか経ってないぞ」
そして、
病院の方へ歩き始めた。
俺と麻衣も、
仕方なくついていった。
---
病院跡の近くまで来ると、
異様な静けさに包まれた。
風がない。
虫の音もしない。
森なのに、
何も聞こえない。
健が建物を照らす。
「すげえな……」
窓は割れている。
壁は崩れている。
植物が建物を覆っている。
病院だったということを知らなければ、
ただの古い廃墟にしか見えない。
俺は写真を撮った。
その瞬間。
スマートフォンの画面が、
一瞬だけ暗くなった。
「……?」
電源が落ちたのかと思った。
だが、
数秒後、
普通に戻った。
画面を見る。
撮った写真。
病院の正面。
何もない。
二枚目。
何もない。
三枚目。
建物。
そして、
四枚目。
俺は固まった。
「……何これ」
健が覗き込む。
「どうした?」
画面には、
俺たち三人が写っていた。
後ろから撮った写真。
俺。
健。
麻衣。
そして、
その後ろに、
もう一人。
男が立っていた。
古い作業服。
痩せた身体。
顔は見えない。
「……」
健が笑った。
「誰かいたんじゃね?」
「こんなところに?」
「地元の人とか」
「じゃあ何で俺たちの後ろに?」
健は画面を拡大した。
「……」
笑いが消えた。
男の顔が、
こちらを向いていた。
目がない。
顔の中央に、
黒い穴が二つあるだけ。
そして、
口が開いている。
まるで、
叫んでいるようだった。
麻衣が画面を見た。
「消して」
「え?」
「その写真、消して」
「何で?」
「いいから」
俺は写真を削除した。
すると、
スマートフォンが震えた。
一件の通知。
写真が復元されました。
「……」
俺はもう一度削除した。
また、
復元。
削除。
復元。
削除。
復元。
「何なんだよ……」
健がスマートフォンを取り上げた。
「俺がやる」
健が削除した。
復元。
「……」
健の顔が変わった。
「これ、
俺のスマホにも送られてる」
「え?」
健の画面を見る。
同じ写真。
三人の後ろに、
男がいる。
麻衣のスマートフォンも鳴った。
見る。
同じ写真。
「……もう帰ろう」
麻衣が言った。
今度は、
健も何も言わなかった。
---
車へ戻った。
俺が運転席。
健が助手席。
麻衣が後部座席。
エンジンをかける。
一度でかかった。
「よし」
アクセルを踏む。
車が動き出す。
数分。
誰も喋らなかった。
森を抜ける。
道路が開けてくる。
そのとき。
後部座席から、
麻衣の声がした。
「……ねえ」
「何?」
「さっきから、
誰かが私の肩に手を置いてる」
俺は、
ブレーキを踏みそうになった。
健が振り返る。
「俺じゃないぞ」
「分かってる」
「じゃあ誰?」
麻衣は、
震えながら言った。
「分からない」
俺はバックミラーを見る。
麻衣しかいない。
「手なんて見えないぞ」
「でも、
触られてる」
「……」
「ずっと」
麻衣の声が震えていた。
健が言った。
「もうちょっとで町に出る」
「……うん」
その瞬間。
車内に、
男の声がした。
「帰るな」
三人とも凍った。
「……」
「帰るな」
今度は、
後ろから聞こえた。
俺はバックミラーを見た。
麻衣の隣。
誰かが座っている。
古い作業服。
俯いている。
俺は叫んだ。
「うわあああ!」
ハンドルを切る。
車が蛇行した。
「何!?」
健が叫ぶ。
「後ろに……!」
俺は言葉を失った。
バックミラーを見る。
誰もいない。
麻衣だけ。
「何?」
健が聞く。
「……いや」
俺はアクセルを踏んだ。
「何でもない」
誰も信じていなかった。
---
町に戻ってから、
俺たちはホテルへ戻った。
麻衣は部屋に入ると、
すぐにシャワーを浴びた。
俺と健は、
ロビーで話した。
「さっき見たよな?」
健が言った。
「……何を?」
「後ろの男」
俺は黙った。
「お前も見たんだろ?」
「……見た」
「じゃあ、
あれ何だよ」
分からなかった。
そんなもの、
説明できるわけがない。
「明日、
もう一回写真見よう」
健が言った。
「やめろ」
「でも」
「やめよう」
健は黙った。
そのとき。
二階から、
女性の悲鳴が聞こえた。
「きゃああああ!」
俺と健は立ち上がった。
麻衣だった。
二階へ走る。
部屋のドアを開ける。
「麻衣!」
麻衣が、
浴室の前で座り込んでいた。
顔が真っ青だった。
「どうした!?」
麻衣は、
震えながら浴室を指差した。
「……いた」
「何が?」
「男の人」
「……」
「シャワー浴びてたら、
鏡に映った」
俺は浴室を見る。
誰もいない。
「見間違いだろ」
そう言った。
麻衣が首を振る。
「違う」
「どんな人?」
「作業服」
俺と健は顔を見合わせた。
「顔は?」
「……」
麻衣は答えなかった。
「麻衣?」
「顔が、
なかった」
---
その夜。
俺は眠れなかった。
午前一時。
二時。
三時。
時計を見る。
午前三時十七分。
部屋の外から、
音がした。
――コツ。
俺は目を開けた。
――コツ。
誰かが廊下を歩いている。
――コツ。
――コツ。
ゆっくり。
ゆっくり。
俺の部屋の前へ近づいてくる。
そして、
止まった。
俺は息を殺した。
ノック。
コン。
コン。
コン。
三回。
俺は返事をしなかった。
すると、
ドアの向こうから、
男の声がした。
「寒い」
俺の身体が固まった。
「……」
「寒い」
俺は布団を握りしめた。
そして、
次の言葉を聞いた瞬間、
血の気が引いた。
「俺の部屋を返せ」
俺は、
その言葉の意味を理解できなかった。
ここはホテルだ。
雄別炭鉱からも離れている。
なのに、
男は言った。
「返せ」
ドアノブが動いた。
ガチャ。
鍵はかかっている。
ガチャ。
ガチャ。
そして、
静かになった。
しばらくして、
足音が遠ざかっていった。
俺は朝まで、
布団から出なかった。
---
朝。
三人で食堂に集まった。
麻衣は、
ほとんど眠っていなかった。
健も同じだった。
「昨日、
声聞こえた?」
俺が聞いた。
健が頷く。
「聞いた」
「何て?」
「……寒いって」
麻衣が顔を上げた。
「私も」
三人で黙り込んだ。
そのとき、
ホテルのテレビから、
ニュースが流れた。
北海道の古い炭鉱についての特集だった。
画面に、
雄別炭鉱の映像が映った。
俺は思わず、
テレビを見る。
ナレーションが流れる。
「かつてここには、
炭鉱で働く人々の生活を支える病院や学校などが存在し――」
俺は、
画面を見ていた。
病院。
昨日の建物。
すると、
一枚の古い写真が映った。
病院の内部。
大勢の作業員。
医師。
看護師。
そして、
一人の男性。
俺は、
息を止めた。
昨日、
写真に写っていた男だった。
作業服。
痩せた顔。
俯いた姿。
間違いない。
「……こいつ」
健が言った。
「昨日の奴だ」
画面が切り替わる。
古い資料。
事故について説明される。
しかし、
映像は突然乱れた。
ザーッ。
テレビが砂嵐になる。
そして、
一瞬だけ、
別の映像が映った。
病院の廊下。
暗い。
誰もいない。
その奥に、
男が立っている。
俺たちは、
誰も喋らなかった。
男が、
ゆっくり顔を上げる。
そして、
テレビ画面のこちら側を見た。
口が動く。
音声はない。
だが、
俺には、
何を言っているのか分かった。
「一人、
足りない」
テレビが元に戻った。
健が立ち上がった。
「……俺たち三人だろ?」
麻衣が、
震えながら答えた。
「三人じゃない」
「え?」
麻衣が、
俺たちを指差した。
「今、
四人いる」
俺は、
椅子から立ち上がった。
「……何言ってるんだよ」
麻衣の顔が、
俺の後ろを見ていた。
「そこ」
俺は、
振り返れなかった。
「誰かいる」
健も、
俺の後ろを見ていた。
顔から、
血の気が引いている。
「……いる」
俺は、
ゆっくり振り返った。
誰もいない。
「いないじゃん」
そう言った瞬間。
テーブルの下から、
声がした。
「ここだよ」
三人とも、
同時に下を見る。
何もない。
しかし、
床に、
泥の足跡があった。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
そして、
その足跡は、
俺の椅子の真下で止まっていた。
---
俺たちは、
その日のうちに北海道を離れた。
雄別炭鉱には、
二度と近づかなかった。
あれから、
五年経った。
健とは、
今でも連絡を取っている。
麻衣とは、
結婚した。
あの旅行については、
三人とも、
ほとんど話さない。
ただ、
一つだけ。
俺たちには、
共通の決まりがある。
写真を、
三人で撮らない。
絶対に。
理由は、
あの旅行から三年後に分かった。
麻衣が、
昔のスマートフォンを整理していたとき、
一枚の写真を見つけた。
雄別炭鉱で撮った写真。
三人の後ろに、
男が立っていた写真だ。
しかし、
その写真には、
以前とは違うものが写っていた。
男の顔。
五年前は、
顔がなかった。
今は、
顔がある。
そして、
その顔は、
俺だった。
俺は、
写真を見た瞬間、
吐き気がした。
その横に、
小さな文字があった。
以前はなかった。
――「次に戻る人」
俺たちは、
その写真を消した。
何度も。
だが、
消えない。
そして、
去年。
健から電話があった。
「なあ」
「何?」
「俺の家の写真立てに、
知らない写真が入ってる」
「どんな?」
「雄別の病院」
俺は黙った。
「俺たち三人が写ってる」
「……」
「でもな」
健の声が震えた。
「一人増えてる」
「誰?」
「お前」
「……俺?」
「そう」
電話の向こうで、
健が息を呑んだ。
「でも、
お前が二人いる」
俺は、
電話を切った。
そして、
家の中を確認した。
妻。
子供。
誰もいない。
安心した。
その夜。
午前三時十七分。
インターホンが鳴った。
モニターを見る。
誰もいない。
もう一度。
ピンポーン。
俺は出なかった。
すると、
ドアの向こうから、
声がした。
「寒い」
俺は動けなかった。
声は、
俺自身の声だった。
「寒いんだ」
ドアノブが、
ゆっくり回った。
そして、
最後に、
俺の声が言った。
「雄別に置いてきたの、
まだ一人だけだろ?」
俺は、
そこで初めて気づいた。
五年前。
雄別炭鉱から帰ったとき。
俺たちは、
三人だった。
ホテルに戻ったときも、
三人だった。
北海道を出たときも、
三人だった。
だけど――
最初に写真を撮ったとき、
写真に写っていたのは、
四人だった。
そして、
俺たちは、
その「四人目」が、
誰だったのかを、
一度も確認していない。
ドアの向こうから、
もう一度、
俺の声がした。
「今度は、
俺が帰る番だよ」
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
暗闇の中で、
誰かが、
俺の肩に手を置いた。
冷たかった。
そして耳元で、
男が囁いた。
「やっと、
見つけた」
――北海道・第二話 終。 :::




