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日本の怖い話  作者: こうた


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北海道・第一話

題材について

常紋トンネルは実在する鉄道トンネルで、1914年に開通しました。建設時の過酷な労働環境や犠牲者についての記録・研究があり、1970年の改修工事で人骨が発見されたことも複数の資料で確認できます。

一方、作中の「佐吉」という人物、主人公の体験、怪異の展開は完全な創作です。心霊現象については、男性の霊などの噂が実際に紹介されていますが、事実として確認されたものではありません。

常紋トンネル


午前二時十三分。


男は、車の中で目を覚ました。


最初に感じたのは、寒さだった。


暖房はついている。


なのに、身体の芯だけが異様に冷たい。


「……何だよ、これ」


男は両手を擦った。


吐いた息が白い。


おかしい。


外気温は十一月としては、それほど低くない。


車内の温度計は二十二度を表示している。


それでも寒かった。


まるで、


車の中に自分以外の誰かがいて、


その人間が自分の体温を少しずつ奪っているような寒さだった。


男はバックミラーを見た。


後部座席には誰もいない。


助手席にも誰もいない。


当然だった。


今日は一人で来た。


仕事で北見まで来ていた。


取材を終えたのが夜遅くなり、ホテルへ戻る途中だった。


カーナビに従って走っていたら、いつの間にか人家がなくなった。


山道。


街灯もない。


スマートフォンを見る。


圏外。


「……参ったな」


男はため息をついた。


そのときだった。


カーナビが、


「目的地周辺です」


と告げた。


男は眉をひそめた。


「目的地?」


ホテルを設定していたはずだった。


画面を見る。


目的地の表示が、


消えている。


代わりに、


一本の線だけが表示されていた。


道路。


そして、


その先に、


黒い長方形。


トンネルだった。


「……こんな道、通る予定じゃなかっただろ」


男はカーナビを操作した。


戻る。


検索。


再検索。


何度やっても、


同じトンネルを通るルートが表示された。


そして、


そのトンネルの名前が表示された。


――常紋トンネル。


男は、その名前を見た瞬間、


妙な胸騒ぎを覚えた。


聞いたことがある。


北海道の心霊スポット。


常紋トンネル。


血まみれの男が出る。


トンネル内で声を聞く。


列車が突然止まる。


そんな噂を、


以前ネットの記事で読んだ。


「……馬鹿馬鹿しい」


男は笑った。


幽霊など信じていない。


そもそも、


自分は取材で心霊スポットを回っているわけではない。


ただの偶然だ。


そう自分に言い聞かせ、


車を進めた。


しばらくすると、


木々の間から、


トンネルが見えてきた。


古い。


暗い。


入口には、


何の装飾もない。


ただ、


山の中にぽっかりと開いた黒い穴。


男はアクセルを緩めた。


そして、


トンネルに入った。


---


中は、


思った以上に狭かった。


ヘッドライトが照らすのは、


ほんの数メートル先だけ。


その先は、


完全な闇。


男はラジオをつけた。


ノイズ。


ザーッという音だけが流れた。


チャンネルを変える。


ザーッ。


また変える。


ザーッ。


どこも入らない。


「……電波悪いな」


その瞬間。


後ろから、


音がした。


――コン。


男の肩が跳ねた。


「……?」


バックミラーを見る。


誰もいない。


――コン。


今度は、


少し大きい。


「……何だよ」


車を止めようかと思った。


しかし、


こんな山奥のトンネル内で停車するのも嫌だった。


そのまま進む。


――コン。


――コン。


――コン。


音が続く。


まるで、


誰かが車の後ろを歩きながら、


車体を叩いているようだった。


男はミラーを見た。


暗闇。


何もいない。


もう一度。


何もいない。


「……気のせいだ」


そう言った。


すると、


後部座席から、


声がした。


「違う」


男は、


息を止めた。


声は、


確かに聞こえた。


男のすぐ後ろ。


耳元から聞こえたような、


低い男の声だった。


「……誰だ?」


返事はない。


男はゆっくり車を路肩に寄せた。


エンジンはかけたまま。


ドアを開ける。


外へ出る。


トンネルの中は、


異様に静かだった。


水滴が落ちる音。


車のエンジン音。


それ以外には何もない。


男は後部座席のドアを開けた。


誰もいない。


シートにも、


荷物にも、


何の異常もない。


「……寝ぼけてるのか」


そう呟いてドアを閉めた。


そして、


運転席へ戻ろうとした。


そのとき。


足元に、


何かが落ちているのが見えた。


小さな、


黒い布。


男は拾い上げた。


古い布だった。


泥で汚れている。


布を広げる。


作業服の一部のようだった。


「何でこんなものが……」


捨てようとした。


その瞬間。


トンネルの奥から、


音がした。


――ガツン。


金属を叩く音。


男は顔を上げた。


――ガツン。


また。


さらに奥。


暗闇の中。


誰かが、


何かを叩いている。


――ガツン。


――ガツン。


――ガツン。


男は、


その場から動けなくなった。


そして、


聞こえた。


「助けてくれ」


男の喉が鳴った。


「……」


「助けてくれ」


今度は、


はっきり聞こえた。


男の脳裏に、


昔読んだ記事の内容が蘇った。


このトンネルは、


ただの心霊スポットではない。


1910年代、


北海道の鉄道建設の現場では、


「タコ部屋」と呼ばれる過酷な労働環境が存在していた。


常紋トンネルの工事にも、


そうした労働者が投入された。


過酷な労働。


暴力。


栄養失調。


そして、


多くの死者。


さらに、


「人柱として労働者がトンネルの壁に埋められた」という伝承が残った。


その噂が、


単なる噂では済まなくなったのが、


1970年だった。


トンネルの改修工事中、


壁の奥から、


人骨が発見された。


男は、


急に怖くなった。


「……帰ろう」


車へ戻る。


ドアを開ける。


座る。


エンジンをかける。


アクセルを踏む。


車が走り出す。


トンネルの出口が、


遠くに見えた。


光。


「よかった……」


男はアクセルを踏み込んだ。


その瞬間。


後部座席から、


また声がした。


「帰るのか?」


男は答えなかった。


「俺たちを置いて?」


男の手が震えた。


バックミラーを見る。


誰もいない。


「……」


「置いていくのか?」


男はミラーから目を逸らした。


見てはいけない。


そう思った。


だが、


人間は、


見てはいけないと思ったものほど、


見てしまう。


男は、


もう一度ミラーを見た。


後部座席。


そこに、


男が一人座っていた。


古い作業服。


痩せた身体。


泥だらけの顔。


頭から、


血が流れている。


男は叫んだ。


「うわああああっ!」


アクセルを踏む。


車が加速する。


後ろの男は、


動かない。


ただ、


こちらを見ている。


そして、


口を開いた。


「寒い」


男は泣きそうになった。


「……」


「寒いんだ」


「やめろ……」


「お前は暖かいな」


男の手が震える。


「やめろ!」


「俺にも、


暖かさをくれ」


その瞬間。


車内の温度が、


一気に下がった。


暖房が効かない。


男は息を吐いた。


白い。


窓ガラスが曇る。


後部座席の男が、


立ち上がった。


ゆっくり。


ゆっくり。


運転席へ近づいてくる。


「来るな……」


男は前だけを見る。


出口。


もう少し。


あと数十メートル。


だが、


バックミラーに映る男は、


すぐ後ろまで来ていた。


顔が、


鏡いっぱいに映る。


そして、


囁いた。


「お前、


俺の場所に座ってる」


男は意味が分からなかった。


「……何を」


「そこだ」


「……」


「俺が、


死んだ場所だ」


男の背中に、


冷たいものが触れた。


次の瞬間。


耳元で、


はっきり声がした。


「返せ」


男はハンドルを切った。


車が壁へ突っ込んだ。


---


男が目を覚ましたのは、


病院だった。


天井。


白い蛍光灯。


点滴。


「……ここは?」


看護師が顔を覗き込む。


「気が付きましたか?」


「……事故?」


「はい」


「俺、


トンネルで……」


看護師は首を傾げた。


「トンネル?」


「常紋トンネルです」


看護師の顔が、


一瞬だけ固まった。


「……どうして?」


「どうしてって……」


「そこへ行ったんですか?」


「はい」


看護師は、


何も言わなかった。


その沈黙が、


妙に怖かった。


「俺、


誰か乗せてました?」


「……」


「後ろの席に」


看護師が答える。


「誰もいませんでした」


「本当に?」


「はい」


「じゃあ、


あの男は……」


「男?」


看護師の声が低くなった。


「何か見たんですか?」


男は、


全てを話した。


作業服の男。


血。


寒いという声。


「返せ」という言葉。


看護師は最後まで聞いた。


そして、


小さく言った。


「……事故現場を見た警察の方も、


似たようなことを言ってました」


男の心臓が跳ねた。


「何を?」


「あなたの車を見たとき、


後部座席に誰か座っているように見えたって」


「……」


「でも、


確認したときには、


誰もいなかったそうです」


男は、


何も言えなかった。


看護師が出ていった。


病室に、


一人になる。


男は、


スマートフォンを探した。


机の上にあった。


電源を入れる。


写真を見る。


事故直前の写真はない。


当然だ。


だが、


一枚だけ、


見覚えのない写真があった。


撮影時刻。


午前二時十三分。


事故の直前。


写真には、


車内が写っていた。


運転席。


助手席。


後部座席。


そして、


後部座席に、


男が座っている。


「……」


男は画面を拡大した。


作業服の男。


こちらを見ている。


その手に、


何かがある。


小さな紙。


男はさらに拡大した。


紙には、


文字が書いてあった。


――「次はお前の番」


「……」


男はスマートフォンを落とした。


その瞬間。


病室のドアが、


ノックされた。


コン。


コン。


コン。


男は返事をしなかった。


看護師だと思った。


だが、


ドアの向こうから聞こえた声は、


違った。


「寒い」


男は凍りついた。


「……」


「寒いんだ」


あの声だった。


男はベッドから降りた。


ドアから離れる。


「返せ」


ドアノブが、


ゆっくり回った。


「返せ」


鍵は閉まっている。


それでも、


ドアが少しずつ開いていく。


男は叫んだ。


「誰か!」


廊下から足音が聞こえた。


看護師の声。


「どうしました?」


ドアが、


止まった。


看護師が入ってくる。


「大丈夫ですか?」


男は震えながら、


ドアを指差した。


「……今、


誰かが」


「誰もいませんよ」


「でも……」


看護師は、


不思議そうな顔をした。


「この病室、


あなた一人ですよ」


「……」


「どうしました?」


男は、


言えなかった。


ドアの向こうに、


誰もいない。


それなのに。


ドアの床には、


泥が落ちていた。


一人分の足跡。


病室の外から、


ベッドの横まで。


男は、


その足跡を見つめた。


足跡は、


ベッドの横で止まっている。


そして、


そこから先は、


どこにも続いていない。


まるで、


誰かが、


ずっとそこで立っているようだった。


---


退院したのは、


それから三週間後だった。


男は、


北海道を離れた。


もう二度と、


あの場所へは行かない。


そう決めた。


数ヶ月が経った。


仕事にも戻った。


あの事故のことを、


少しずつ忘れようとしていた。


ある夜。


自宅でテレビを見ていると、


ニュース番組が流れた。


北海道の鉄道史を扱った特集だった。


常紋トンネル。


画面に、


トンネルの映像が映る。


男は、


テレビを消そうとした。


そのとき。


画面に、


一瞬だけ、


人影が映った。


古い作業服。


男は立ち上がった。


「……」


映像は切り替わる。


専門家が、


トンネルの歴史について話している。


男は、


テレビを消した。


静かになった部屋。


そのとき、


玄関から、


音がした。


――コン。


男は振り返った。


もう一度。


――コン。


誰かが、


玄関のドアを叩いている。


男は、


時計を見る。


午前二時十三分。


「……」


インターホンの画面を見る。


誰もいない。


また、


コン。


男は、


警察へ電話しようとした。


その瞬間。


スマートフォンが鳴った。


知らない番号。


男は、


出なかった。


留守番電話に切り替わる。


数秒後。


録音が始まった。


『……もしもし』


男の声だった。


自分自身の声。


男は震えた。


『俺だ』


「……」


『開けてくれ』


「……」


『寒いんだ』


男はスマートフォンを落とした。


玄関を見る。


ドアの向こう。


何かが立っている。


インターホンのカメラには、


何も映っていない。


それでも、


確かに、


気配がある。


男は、


後ずさった。


そして、


気づいた。


床に、


泥が落ちている。


一つ。


二つ。


三つ。


玄関から、


部屋の中へ。


足跡が続いている。


男は、


震えながら後ろを見た。


足跡は、


寝室へ向かっている。


「……嘘だ」


足跡を追う。


寝室。


ドアが、


少し開いている。


中を見る。


誰もいない。


だが、


ベッドの上に、


古い作業服が置いてあった。


男は、


息を止めた。


その服の胸元に、


名前が縫い付けられている。


――佐吉。


男は、


その名前を知らなかった。


だが、


なぜか、


その瞬間、


頭の中に映像が浮かんだ。


暗いトンネル。


泥。


男たち。


怒鳴り声。


鉄の音。


そして、


壁。


壁の前に、


一人の男が立っている。


佐吉。


顔は腫れている。


血が流れている。


後ろには、


何人もの男がいる。


佐吉が叫んでいる。


「俺は死にたくない!」


誰かが言う。


「黙れ」


佐吉は、


壁に手をつく。


「家に帰りたい」


「黙れ!」


「子供がいるんだ!」


その声が、


遠ざかっていく。


そして、


壁の向こうから、


最後に一言。


「寒い」


――そこで映像が消えた。


男は、


床に座り込んだ。


そして、


初めて理解した。


あの男が、


「返せ」


と言っていた意味を。


自分が座っていた運転席。


事故が起きた場所。


それは、


男が死んだ場所ではなかった。


あの男が、


最後に座っていた場所でもない。


もっと単純なことだった。


男が欲しかったのは、


命ではない。


場所でもない。


暖かさでもない。


ただ、


自分がいたことを、


誰かに覚えていてほしかった。


男は、


作業服を見る。


胸元の名前。


佐吉。


その下に、


小さく、


もう一つ文字が刺繍されていた。


――「家」


その瞬間。


玄関から、


声がした。


「ありがとう」


男は、


ゆっくり振り返った。


そこには、


誰もいなかった。


ただ、


玄関のドアが開いている。


そして、


外から冷たい風が入ってくる。


男は、


震えながら玄関へ近づいた。


ドアの外。


誰もいない。


道路も、


街灯も、


いつもの景色。


男は、


安堵した。


もう終わった。


そう思った。


その瞬間。


足元に、


一枚の紙が落ちていることに気づいた。


拾う。


古い紙。


そこには、


鉛筆で、


何人もの名前が書かれていた。


一番上。


佐吉。


その下。


知らない名前。


知らない名前。


知らない名前。


何十人もの名前。


そして、


一番下。


まだ新しい文字で、


一つの名前が書かれていた。


自分の名前。


男は、


紙を落とした。


そして、


背後から、


声がした。


「一人、


増えた」


男は、


振り返らなかった。


振り返ることが、


できなかった。


耳元で、


あの声が囁く。


「これで、


少し暖かくなる」


その瞬間。


家中の照明が、


全部消えた。


真っ暗になった。


そして、


暗闇の中から、


無数の声が聞こえた。


「寒い」


「寒い」


「寒い」


「寒い」


男は、


耳を塞いだ。


しかし、


声は頭の中から聞こえてくる。


「寒い」


「寒い」


「寒い」


そして最後に、


一人だけ、


違う声がした。


佐吉だった。


「……もう、


俺だけじゃないから」


翌朝。


男の家には、


誰もいなかった。


警察が調べても、


何も見つからなかった。


ただ、


玄関の床に、


泥の足跡が残っていた。


それは、


玄関から家の中へ入り、


寝室へ向かい、


ベッドの横で止まっていた。


そして、


もう一つ。


ベッドの下から、


古い作業服が見つかった。


胸元には、


「佐吉」


という名前。


その横には、


新しい刺繍が一つ。


男の名前。


そして、


さらにその下には、


まだ何も書かれていない、


空白の刺繍欄があった。


その数は、


四十七。


---


――北海道・第一話 終

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