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日本の怖い話  作者: こうた


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20/21

宮城県・第四話



『県境に立つ人』


一 存在しない男


 宮城県警の刑事、黒田修司は、奇妙な失踪事件を担当していた。


 失踪した男の名前は、佐々木健司。


 年齢は四十歳。


 勤務先は不明。住所も不明。家族関係も不明。


 それなのに、行方不明者届だけは受理されていた。


 届け出た人物の名前は、佐々木美和。


 佐々木健司の母親だという。


 黒田は、届出書に記載された住所へ向かった。


 仙台市郊外の住宅街。


 住所が示す場所には、古い家が一軒建っていた。


 表札には「佐々木」と書かれている。


 黒田が呼び鈴を押すと、白髪の女性が出てきた。


「佐々木美和さんですか」


「はい」


「宮城県警の黒田です。息子さんの件でお話を伺いたいのですが」


 女性は、きょとんとした。


「息子?」


「佐々木健司さんです」


 その瞬間、女性の表情が消えた。


 ほんの一瞬だった。


 だが黒田は、刑事として長年培ってきた勘で、その変化を見逃さなかった。


「……そんな人は知りません」


「届出書には、あなたのお名前が記載されています」


「何かの間違いです」


 女性は扉を閉めようとした。


 黒田は、隙間から家の中を見た。


 玄関の壁に、家族写真が飾られていた。


 父親らしい男性。


 母親らしい女性。


 その間に、三人の子供。


 黒田は写真を見つめた。


 子供の一人が、こちらを向いていた。


 四十歳くらいの男だった。


 ほかの家族は古い写真の中にいるのに、その男だけが、今撮影されたようにはっきりしていた。


 そして、その顔には見覚えがあった。


 失踪した男の顔だった。


「この写真を見せていただけませんか」


 女性が扉を閉めた。


 鍵がかかる音がした。


 黒田はしばらく玄関の前に立っていた。


 やがて、背後から声がした。


「刑事さん」


 振り返る。


 小学生くらいの男の子が立っていた。


「その家には、入らないほうがいいよ」


「どうしてだ?」


 男の子は家を見上げた。


「だって、あそこにはもう、誰も住んでないから」


「今、中に人がいただろう」


「違うよ」


 男の子は、黒田の顔を見た。


「いるのは、家族だけだよ」


 その言葉の意味を、黒田は理解できなかった。


「家族なら、人間だろう」


「ううん」


 男の子は首を振った。


「あの人たちは、写真の中の家族だよ」


 黒田がもう一度、家を見た。


 窓の向こうに、何人もの人影が立っていた。


 全員が、こちらを見ていた。


 笑っていた。


 黒田は反射的に、もう一度男の子を見た。


 そこには誰もいなかった。


 地面には、雨に濡れた小さな足跡が残されていた。


 足跡は、家の玄関へ向かっていた。


 そして、玄関の前で途切れていた。


     *


二 四十七件の失踪


 翌日、黒田は県警本部の資料室にいた。


 佐々木健司という男について、調べられる限りの資料を集めていた。


 住民票なし。


 戸籍なし。


 納税記録なし。


 免許記録なし。


 銀行口座なし。


 それなのに、複数の人間が、彼の失踪を証言していた。


 奇妙なことに、証言者たちは全員、途中で話を変えた。


 最初は「佐々木さんを知っている」と言う。


 ところが、数時間後に再び確認すると、「そんな人は知らない」と答える。


 写真を見せても、同じだった。


 最初は顔を認識する。


 次の瞬間には、誰の顔なのかわからなくなる。


 黒田は、記録の中から一つの共通点を見つけた。


 失踪者の名前は、すべて四十七人分あった。


 県内各地で、過去数十年にわたって発生した失踪事件。


 事故として処理されたもの。


 家出として処理されたもの。


 事件性なしと判断されたもの。


 その中に、存在そのものが消えた人間がいた。


 家族の記憶から消えた人。


 職場の記録から消えた人。


 学校の卒業名簿から消えた人。


 そして、消えたことすら誰にも気づかれなかった人。


 黒田は、資料の端に赤い点が打たれていることに気づいた。


 四十七件すべてに、同じ赤い点。


 点の横には、手書きの数字があった。


『四十』


 その下に、一文が記されていた。


『数が合うまで、探してはならない』


 黒田は資料を裏返した。


 裏面には、古い地図が貼り付けられていた。


 宮城県の地図だった。


 地図上には、四十七個の赤い点があった。


 そのうち、七個はすでに黒く塗りつぶされている。


 残った四十個の点は、県内の各地に散らばっていた。


 黒田が地図を拡大しようとしたとき、内線電話が鳴った。


「黒田です」


『刑事部の黒田さんですか』


「そうですが」


『福島県警の者です。そちらで、佐々木健司という人物を捜していますか』


 黒田は椅子から立ち上がった。


「なぜ、それを?」


『こちらにも、同じ名前の失踪届が出ているんです』


「同じ人物ですか」


『わかりません。ただ……』


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


『届出人の住所が、県境になっているんです』


「県境?」


『住所が、宮城県と福島県の境界線そのものなんです。地図上では道路も建物もない場所です』


 黒田は、資料の地図を見た。


 宮城県南部。


 福島県との境界付近。


 そこに、赤い点が一つあった。


 今まで黒く塗りつぶされていた点だった。


 しかし、黒田が見ている前で、その点が赤く戻った。


『刑事さん』


 電話の向こうの声が、急に小さくなった。


『今、そちらに誰かいますか』


「私一人ですが」


『嘘です』


 黒田は振り返った。


 資料室の入り口に、男が立っていた。


 濡れた黒い服。


 泥のついた靴。


 そして、黒田自身と同じ顔。


 男は、口を動かした。


 声は聞こえなかった。


 だが、黒田には唇の動きが読めた。


 ――やっと見つけた。


 電話が切れた。


 資料室の照明が、一つずつ消えていった。


     *


三 県境の家


 黒田は、その日のうちに現場へ向かった。


 宮城県と福島県の境界付近。


 地図上に示された地点は、山間部の古い道路から外れた場所だった。


 ナビゲーションには、道が表示されなかった。


 車を降りると、雨が降っていた。


 山の中は静かだった。


 鳥の声も、虫の声もない。


 ただ、どこか遠くから、子供の数える声が聞こえていた。


「一人」


 黒田は、声のする方向へ歩いた。


「二人」


 木々の間に、古い家が見えた。


「三人」


 家の前には、赤い郵便受けがあった。


 表札には、何も書かれていない。


「四人」


 黒田は玄関に近づいた。


 扉の隙間から、明かりが漏れていた。


「五人」


 数える声が止まった。


 代わりに、家の中から男の声がした。


「六人目が来た」


 黒田は拳銃に手をかけた。


「警察だ。中にいる者は出てこい」


 返事はなかった。


 もう一度、呼びかける。


 すると、扉が内側から開いた。


 そこには、黒田と同じ顔の男が立っていた。


「遅かったな」


 男は言った。


「お前は誰だ」


「お前だよ」


「ふざけるな」


「そう言うと思った」


 男は笑った。


「お前は、いつから自分が一人だと思っていた?」


 黒田は答えなかった。


 男は玄関の奥を指した。


「入れよ。お前が探していたものがある」


 黒田は、家の中へ入った。


 居間には、古い食卓が置かれていた。


 食卓の周りには、椅子が六脚。


 そのうち五脚には、人が座っていた。


 老いた男。


 老いた女。


 若い男。


 若い女。


 そして、子供。


 全員が、黒田と同じ顔だった。


 年齢だけが違った。


 黒田は、息を呑んだ。


「何なんだ、これは」


「お前の家族だよ」


「俺に家族はいない」


「そう思っているだけだ」


 若い男が口を開いた。


「お前は、六人目だ」


 黒田は食卓から目を離せなかった。


 五人の顔は、どれも自分に似ていた。


 老いた男は、黒田が将来、年を取った姿に見えた。


 若い女は、黒田の顔に女性の特徴を重ねたようだった。


 子供は、黒田が小学生だった頃の顔をしていた。


 そして、誰もが同じ目をしていた。


 黒い瞳の奥に、小さな赤い点があった。


「座れ」


 老いた男が言った。


「話をしよう」


「俺はお前たちを知らない」


「知っているさ」


 老いた男は、食卓に置かれた写真を差し出した。


 それは、黒田が子供の頃の写真だった。


 学校の運動会。


 母親と並んで笑っている。


 父親が肩に手を置いている。


 その横には、もう一人の黒田が立っていた。


「これは……」


「お前の弟だ」


「俺に弟はいない」


「そうか」


 老いた男は、寂しそうに笑った。


「また、忘れたんだな」


 黒田の頭の奥で、何かが軋んだ。


 知らないはずの記憶が、浮かび上がった。


 幼い頃。


 家の庭。


 泥だらけの弟。


 自転車の後ろに乗せた弟。


 手を握って、川のそばを歩いた記憶。


 そして、夕暮れの県境。


 弟が、道路の向こう側に立っていた。


『お兄ちゃん、先に帰ってて』


 その声が聞こえた瞬間、黒田は頭を抱えた。


「やめろ」


「思い出したか?」


「やめろ!」


「お前は、弟を置いて帰った」


 若い男が言った。


「それから、弟がいなくなった」


「違う……」


「お前は、何も言わなかった」


 若い女が続けた。


「お前は、弟がいたことを忘れた」


 子供が、食卓の上で両手を組んだ。


「だから、ぼくはここにいるんだよ」


 黒田は、椅子を蹴り倒した。


「違う! 俺に弟はいない!」


 その瞬間、家中の時計が止まった。


 五人が、一斉に黒田を見た。


 そして、声を揃えて言った。


「それなら、どうしてお前は、毎晩六人分の食事を作っている?」


 黒田は、言葉を失った。


 自分の部屋。


 帰宅後の食卓。


 誰もいない部屋で、なぜかいつも箸を六膳並べていた。


 理由はわからない。


 ただ、五膳にすると、胸が苦しくなる。


 六膳目を置くと、ようやく安心できた。


 黒田は、それをずっと一人暮らしの癖だと思っていた。


 だが、違った。


 彼は、誰かの帰りを待っていたのだ。


     *


四 名前を呼ぶな


「弟の名前は何だ」


 黒田は、震える声で尋ねた。


 老いた男は、首を横に振った。


「呼んではいけない」


「何だと?」


「名前を呼べば、戻ってくる」


「それなら、なぜ教えない!」


「戻ってくるのは、弟じゃないからだ」


 老いた男は、黒田の目を見た。


「名前を持つものは、ここから出ていける。だが、名前を持たないものは、ここに残る」


「意味がわからない」


「お前は、弟を忘れたんじゃない」


 老いた男の声が低くなった。


「弟の名前を、誰かに食べられたんだ」


 黒田は動けなかった。


「名前を食べられた人間は、誰からも呼ばれなくなる。誰からも呼ばれなければ、誰もその人を思い出せない。最後には、存在したことさえ消えてしまう」


 老いた男は、食卓の上の写真を裏返した。


 そこには、黒い線が一本引かれていた。


「だが、完全に消える前に、誰かが名前を思い出すと……」


 男は言葉を切った。


 家の奥から、足音が聞こえた。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 濡れた裸足の足音。


 廊下の暗がりから、小さな男の子が現れた。


 顔は見えない。


 頭から黒い布をかぶっている。


 子供は、黒田の前で立ち止まった。


「お兄ちゃん」


 黒田は息を止めた。


「迎えに来てくれたんだね」


 子供が手を伸ばした。


 その指は、異様に長かった。


「ぼくの名前、覚えてる?」


 黒田は、口を開きかけた。


 頭の中に、名前が浮かんだ。


 確かに浮かんだ。


 その名前を呼べば、すべてが元に戻る気がした。


 母も、父も、弟も。


 失われた人生が戻ってくる。


 黒田は、子供を見つめた。


「お前は……」


「うん」


「お前は……」


 子供が、ゆっくりと顔を上げた。


 布の下から、黒い顔が見えた。


 目も鼻も口もなかった。


 ただ、顔の中央に赤い点が一つあった。


 黒田は叫んだ。


 子供が笑った。


 口がないのに、笑い声がした。


「思い出してくれたんだね」


 子供の手が、黒田の胸に触れた。


 その瞬間、黒田はすべてを思い出した。


 弟と遊んだ日々。


 父に叱られた夜。


 母が二人分の弁当を作ってくれた朝。


 弟が転んで泣いた日。


 自分が弟の手を離した日。


 そして、弟が県境の向こうへ歩いていった日。


 黒田は、泣きながら名前を呼んだ。


 声に出して。


 はっきりと。


 その瞬間、家の中の五人が、一斉に顔を伏せた。


 子供の顔から赤い点が消えた。


 代わりに、黒田の胸に赤い点が浮かび上がった。


 子供は、嬉しそうに笑った。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 そして、黒田の体をすり抜けて、玄関へ向かった。


 黒田は振り返った。


「待て!」


 子供は振り返らなかった。


「どこへ行く!」


 子供は玄関の前で立ち止まり、答えた。


「次の県」


 扉が開いた。


 外には、何もなかった。


 道路も、森も、空もなかった。


 ただ、真っ白な空間が広がっていた。


 子供は、その中へ歩いていった。


 扉が閉まった。


 黒田は、その場に崩れ落ちた。


 胸の赤い点が、ゆっくりと明滅していた。


     *


五 宮城県の最後の記録


 翌朝、黒田は県警本部の机で目を覚ました。


 目の前には、昨夜の資料が並んでいた。


 四十七件の失踪事件。


 古い地図。


 赤い点。


 だが、資料には一つも黒田の名前がなかった。


 彼は、自分の身分証を取り出した。


 名前は黒田修司。


 所属は宮城県警。


 顔写真も自分だった。


 しかし、写真の背景に、見覚えのない人物が写っていた。


 小さな男の子。


 黒い服。


 濡れた髪。


 男の子は、黒田の肩に手を置いていた。


 黒田は、写真を裏返した。


 裏面に、赤い文字が浮かんでいた。


『宮城県』


『記録完了』


『残り四十』


 黒田は立ち上がり、資料室へ向かった。


 地図を確認する。


 宮城県の赤い点は、すべて消えていた。


 代わりに、福島県の地図上に赤い点が一つだけ浮かんでいた。


 黒田は電話を取った。


 福島県警へ連絡しようとした。


 だが、受話器から聞こえてきたのは、電話交換手の声ではなかった。


 子供の声だった。


『お兄ちゃん』


 黒田は受話器を落とした。


『今度は、そっちだよ』


 電話が切れた。


 その瞬間、資料室の壁に貼られていた日本地図が、音もなく剥がれ落ちた。


 地図の裏側には、もう一枚の地図が貼られていた。


 日本地図ではなかった。


 日本列島に似ていたが、県境が存在しない。


 北から南まで、一本の赤い線が走っている。


 その線の上に、無数の小さな文字が書かれていた。


 人の名前だった。


 黒田は、その中に自分の名前を見つけた。


 そして、そのすぐ隣に、弟の名前があった。


 弟の名前の横には、黒い線が引かれていた。


 黒田の名前の横には、まだ何もなかった。


 彼は地図を見つめた。


 赤い線が、ゆっくりと動き始めた。


 北から南へ。


 北海道から、青森へ。


 秋田へ。


 山形へ。


 宮城へ。


 そして、福島へ。


 赤い線が福島県に達した瞬間、黒田の机の上に置かれていた電話が鳴った。


 今度は、普通の電話だった。


「黒田です」


『こちら福島県警です』


 男の声だった。


『そちらで、奇妙な地図を見つけたという記録はありますか』


「どうして、それを?」


『こちらにも、同じものが届いたんです』


 電話の向こうで、男が息を呑んだ。


『地図の中央に、文字が書かれています』


「何と?」


 長い沈黙のあと、男が答えた。


『国喰い』


 黒田の手から、受話器が滑り落ちた。


 その言葉を聞いた瞬間、彼は理解した。


 これは、失踪事件ではない。


 人間が消えているのではない。


 何かが、人間の存在を食べている。


 名前を。


 記憶を。


 家族を。


 歴史を。


 そして、土地そのものを。


 宮城県は終わった。


 だが、怪異は終わっていなかった。


 むしろ、今までのすべてが、始まりにすぎなかったのだ。


     *


六 県境の向こう側


 黒田は、その日の夕方、宮城県と福島県の境界へ向かった。


 何かを確かめなければならなかった。


 なぜ自分が弟を忘れたのか。


 なぜ四十七人が消えたのか。


 そして、なぜ地図に「国喰い」という言葉が現れたのか。


 山道を進むと、古い標識が見えてきた。


 宮城県。


 福島県。


 二つの県名が並んでいる。


 その標識の前に、一人の男が立っていた。


 黒田と同じ顔だった。


 だが、今度の男は警察官の制服を着ていなかった。


 白い服。


 濡れた髪。


 そして、顔の中央に赤い点が一つ。


 男は黒田を見つめた。


「お前は、誰だ」


 黒田が尋ねた。


 男は答えなかった。


 代わりに、標識を指した。


 黒田は標識を見た。


 そこには、奇妙な変化が起きていた。


 宮城県の文字が、薄くなっている。


 福島県の文字も、薄くなっている。


 まるで、二つの県が一つに溶け合おうとしているようだった。


「何が起きている?」


 黒田が尋ねた。


 男は、ようやく口を開いた。


「県境が、なくなるんだ」


「県境が?」


「人間は、境界があるから、ここから先は自分ではないと思える」


 男は、黒田に一歩近づいた。


「自分と他人。生者と死者。過去と現在。記憶と忘却。こちら側と向こう側」


 男の顔が、ゆっくりと歪んだ。


「だが、境界がなくなれば、全部が一つになる」


「一つになると、どうなる?」


「誰が誰だったのか、わからなくなる」


 男は笑った。


「誰がどこに住んでいたのか、わからなくなる。誰が何をしたのか、わからなくなる。誰が生きていて、誰が死んでいるのか、わからなくなる」


 黒田は後ずさった。


「お前は何者だ」


「お前だよ」


「違う!」


「そうだな」


 男は、悲しそうに笑った。


「お前が忘れたお前だ」


 その言葉を聞いた瞬間、黒田の胸の赤い点が熱を持った。


 彼はシャツをめくった。


 赤い点の周囲に、細い線が伸びていた。


 地図の県境のように。


 胸の中心から、肩へ。


 首へ。


 腹へ。


 赤い線が、ゆっくりと体を覆い始めていた。


「やめろ……」


 黒田は膝をついた。


 男が手を伸ばした。


「もうすぐだ」


「何がだ」


「四十七の点が、全部つながる」


 男は、黒田の耳元で囁いた。


「そのとき、国は一つになる」


 黒田は叫んだ。


 だが、声は出なかった。


 男の指が、黒田の額に触れた。


 世界が暗くなった。


     *


七 宮城県の外へ


 翌朝、県境の道路で、一台の車が見つかった。


 運転席は空だった。


 車内には、警察手帳が残されていた。


 名前は黒田修司。


 宮城県警。


 しかし、県警の記録を調べても、黒田修司という警察官は存在しなかった。


 同僚も、上司も、誰一人として彼を覚えていなかった。


 彼の自宅には、別の家族が住んでいた。


 彼の机は、別の刑事が使っていた。


 彼の名前は、どの名簿にもなかった。


 ただ一つ、県警本部の古い資料室に、奇妙な記録が残されていた。


 誰が書いたのかはわからない。


 日付もない。


 紙は黄ばんでいた。


 その記録には、こう書かれていた。


『宮城県、記録完了』


『福島県、記録開始』


『残り四十』


 そして、その下に、赤い文字で一文が追加されていた。


『次の県では、あなたの家族を信じてはいけない』


 その日の夜。


 福島県の山間部にある古い民家で、女性が一人、目を覚ました。


 隣には、夫が寝ていた。


 居間には、子供のランドセルが置かれていた。


 壁には、家族写真が飾られていた。


 何もおかしくない。


 いつもの家。


 いつもの家族。


 いつもの夜。


 女性は安心して、再び目を閉じようとした。


 そのとき、廊下から声がした。


「お母さん」


 子供の声だった。


「どうしたの?」


 女性は布団から顔を上げた。


「お母さん、聞きたいことがあるんだけど」


「何?」


 廊下の向こうで、子供が言った。


「うちって、何人家族だったっけ?」


 女性は笑った。


「何を言ってるの。三人家族でしょう」


 すると、夫が隣で目を覚ました。


「違うよ」


 夫が言った。


「四人家族だろ」


 女性は、夫を見た。


「何を言ってるの?」


 夫は、天井を見つめていた。


「ずっと四人だったじゃないか」


 廊下から、子供の笑い声が聞こえた。


 女性は、壁の家族写真を見た。


 夫。


 自分。


 子供。


 そして、もう一人。


 写真の端に、知らない男が立っていた。


 男は、こちらを見て笑っていた。


 女性は、その顔を知っていた。


 知っているはずだった。


 名前が、喉まで出かかっていた。


 その瞬間、部屋の明かりが消えた。


 暗闇の中で、夫が囁いた。


「名前を呼ぶな」


 女性は息を止めた。


 夫の声は、夫のものではなかった。


「呼んだら、あいつが帰ってくる」


 窓の外で、誰かが立っていた。


 濡れた黒い服。


 泥のついた靴。


 顔は見えない。


 ただ、胸の中央に赤い点が一つあった。


 その人物は、窓ガラスに手を当てた。


 そして、ゆっくりと文字を書いた。


『福島県』


『第一話』


 女性は、声を出せなかった。


 窓ガラスの向こうで、人物が笑った。


 その背後には、もう一人、同じ顔の人物が立っていた。


 さらに、その後ろにも。


 さらに、その後ろにも。


 暗闇の中に、同じ顔が何十人も並んでいた。


 全員が、同じ方向を向いていた。


 日本の北から南へ続く、見えない一本道。


 その道の先で、何かが目を覚まそうとしていた。


 誰も、その名前を呼んではいけない。


 誰も、その存在を思い出してはいけない。


 だが、すでに遅かった。


 宮城県で消えたものは、福島県へ移ったのではない。


 最初から、そこにいたのだ。


 ずっと昔から。


 県境の向こう側で。


 人々が、境界のこちら側にいると信じていた、その瞬間から。


 そして今。


 日本地図の上で、宮城県と福島県を隔てていた線が、音もなく消えた。


 赤い点が、一つになった。


 その下に、誰かの筆跡で文字が浮かんだ。


『国喰い』


『第一段階、完了』


 宮城県怪異譚・第四話 終。

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