↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本の怖い話  作者: こうた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/21

宮城県・第三話

今回は宮城県編・第三話。これまでの「海に映る人」「地下にある五階」で現れた赤い点と、存在しないはずの自分という謎を引き継ぎます。


今回は、自分の記憶にない人生が、写真の中で少しずつ現実を侵食していく恐怖を描きます。


#

## 『四十七枚目の家族写真』


 写真の中の男は、私の父だった。


 けれど、私は父の顔を知らない。


 父は、私が生まれる三か月前に死んだと聞かされていた。


 事故だったらしい。


 母はそれ以上を語らず、親戚たちも父の話になると、決まって話題を変えた。


 仏壇に写真はなかった。


 墓はあったが、そこには父の名前と没年月日が刻まれているだけだった。


 私は四十歳になるまで、父の顔を一度も見たことがなかった。


 その日までは。


     *


 仙台市内の古い商店街に、小さな写真館があった。


 看板には、かすれた文字で「佐伯写真館」と書かれている。


 駅前の大型店に客を取られ、何年も前から閉店の噂があった店だ。


 私は仕事帰り、雨宿りのためにその軒先へ入った。


 ガラス戸の向こうには、古いカメラと、色あせた家族写真が並んでいた。


 その中に、一枚だけ妙な写真があった。


 七人の家族が写っていた。


 父親らしい男。母親らしい女。子供が五人。


 全員が、こちらを向いて笑っている。


 ただし、子供は四人しかいなかった。


 五人目の子供は、写真の右端に立っているはずの場所だけが、黒く塗りつぶされたようになっていた。


 私は、なぜかその写真から目を離せなかった。


 黒い部分の輪郭は、子供の肩と頭の形をしていた。


 まるで、そこに誰かが立っていたのに、写真からだけ消されてしまったようだった。


「それ、気になりますか」


 背後から声がした。


 振り向くと、白髪の老人が戸口に立っていた。


 写真館の店主らしかった。


「昔の写真ですか」


「ええ。ずいぶん昔のものです」


「どうして、一人だけ黒くなっているんです?」


 老人は写真を見た。


 そして、私の顔を見た。


「あなたには、何人に見えますか」


「七人……いや、六人ですかね」


「そうですか」


 老人は、なぜか安心したようにうなずいた。


「まだ、六人なんですね」


 私は聞き返した。


「まだ?」


 老人は答えなかった。


 代わりに、店の中へ入るように手招きした。


「よかったら、こちらも見ていってください」


 断る理由はなかった。


 雨は強くなっていた。


     *


 店の中は、外から見た印象よりも広かった。


 壁一面に写真が飾られている。


 七五三。成人式。結婚式。家族写真。


 どれも古いものだった。


 妙だったのは、写真に写っている人々の表情だった。


 誰もが笑っている。


 しかし、目だけが笑っていない。


 特に、家族写真がそうだった。


 父親も、母親も、子供たちも、口元だけを無理に持ち上げたような笑顔を浮かべている。


 私は一枚の写真の前で立ち止まった。


 そこには、五人家族が写っていた。


 父親、母親、男の子、女の子、そして赤ん坊。


 赤ん坊を抱いた母親の手が、不自然な方向に曲がっていた。


 写真の中の母親は、赤ん坊ではなく、その隣に立つ何もない空間を見つめていた。


「昔のカメラは、こういう写り方をすることがあるんですか」


「いいえ」


 老人は即答した。


「写ってはいけないものがあると、こうなることがあります」


 私は笑いかけた。


 冗談だと思ったからだ。


 しかし、老人は笑わなかった。


「写真というのは不思議なものでね。人が写るでしょう。すると、その人が確かにそこにいたという証拠になる」


「まあ、そうですね」


「逆もあるんです」


 老人は、私が見ていた写真の隣を指した。


「写っていない人間は、最初からいなかったことにされる」


 その言葉が、妙に耳に残った。


「例えば?」


「家族写真を撮るでしょう。五人で暮らしている家族が、ある日、四人で写真を撮る」


「一人がいない日に撮ったとか?」


「そうです。ところが、その写真を見ているうちに、家族は不思議に思うようになる」


 老人はゆっくりと話した。


「うちは、ずっと四人家族だったんじゃないか、と」


 私は黙っていた。


「そして、家にある五人で写った写真を探す。けれど、どこにもない。アルバムにも、卒業写真にも、昔のビデオにも、その人だけがいない。名前を思い出そうとしても、思い出せない」


「……」


「最後には、その人の部屋までなくなるんです」


 老人は、壁に飾られた写真を見上げた。


「最初から、そんな部屋はなかったことになる」


 私は、なぜか自分の実家を思い出していた。


 母と二人で暮らしていた、古い家。


 そこには、使われていない部屋が一つあった。


 物置として使っていた六畳間だ。


 私は子供の頃、その部屋に入ることを母から禁じられていた。


 理由は聞いたことがない。


 ただ、あの部屋には古い家具と段ボールが置かれていた。


 そう記憶している。


 本当に、そうだっただろうか。


「お客さん」


 老人の声で我に返った。


「お名前を伺っても?」


 私は名字を答えた。


 老人は店の奥へ歩いていった。


 しばらくして、薄い紙箱を持って戻ってきた。


「佐々木さん。もしかすると、これをご存じかもしれません」


 箱の蓋には、私の名字が書かれていた。


 その下に、私の名前もあった。


 佐々木健司。


 私が、いつも使っている名前だった。


     *


 箱の中には、写真が四十六枚入っていた。


 すべて、家族写真だった。


 私は一枚目を手に取った。


 古い居間で撮影された写真だった。


 中央には若い母が座り、その隣に見知らぬ男が立っている。


 男は、私が最初に店先で見た写真の父親と同じ顔をしていた。


 そして、母の膝の上には赤ん坊がいた。


 写真の裏には、日付が書かれていた。


 私の誕生日だった。


「これは……」


「お母様から預かったものです」


 老人が言った。


「母を知っているんですか」


「ええ。ずいぶん前に、一度だけ」


「いつです?」


「あなたが生まれる前です」


 私は写真を握りしめた。


 父は私が生まれる前に死んだ。


 そのはずだった。


「この男は、私の父ですか」


 老人は、答えなかった。


 代わりに、二枚目の写真を指した。


 そこには、母と男、そして幼い私が写っていた。


 私は三歳くらいに見えた。


 男は私の肩に手を置いていた。


 私は男の手を握り、嬉しそうに笑っていた。


 写真の裏には、こう書かれていた。


『健司、三歳。お父さんと初めて海へ行った日』


 私は息を止めた。


 父と海へ行った記憶などない。


 そもそも、父と会ったことがないはずなのだ。


 三枚目。


 四枚目。


 五枚目。


 写真をめくるたびに、私は成長していった。


 幼稚園の制服。


 小学校の入学式。


 運動会。


 誕生日。


 七歳の私が、父の肩車に乗っている。


 十歳の私が、父と釣り竿を持っている。


 十二歳の私が、父と並んで歯を見せて笑っている。


 どの写真も、あまりにも自然だった。


 背景も、服装も、当時の私が実際に着ていたものと一致している。


 だが、私には一つも記憶がなかった。


「これは偽物でしょう」


 私は老人をにらんだ。


「誰かが、私の写真に別の男を合成したんだ」


「そう思われますか」


「そうとしか考えられない」


「では、四十七枚目もご覧になりますか」


 老人が、箱の底を指した。


 そこには写真が一枚だけ、裏返しで残されていた。


 私は手を伸ばした。


 しかし、老人が私の手首をつかんだ。


「最後に、一つだけ約束してください」


「何ですか」


「その写真に、あなた以外の人が写っていたら」


 老人の指が、私の手首に食い込んだ。


「絶対に、その人の名前を呼ばないでください」


 私は老人の手を振りほどいた。


「いい加減にしてください」


 そして、写真を裏返した。


     *


 写真には、私の実家が写っていた。


 玄関の前に、母が立っている。


 その隣に父がいる。


 そして、私がいる。


 三人で並んでいた。


 私は写真の中の自分を見た。


 四十歳の私だった。


 今の私と同じ服を着ている。


 同じ顔。


 同じ髪型。


 同じ、左眉の上の小さな傷。


 写真の中の私は、玄関の前で笑っていた。


 そして、私の隣にはもう一人、男が立っていた。


 私とまったく同じ顔をした男だった。


 服装まで同じだった。


 ただし、そいつだけは笑っていなかった。


 そいつは私の肩に手を置き、カメラではなく、写真の外にいる私を見つめていた。


 写真の裏には、文字が書かれていた。


『佐々木家 家族写真』


『四人』


 私は何度も数えた。


 母。


 父。


 私。


 もう一人の私。


 四人だった。


 父は死んだはずだ。


 母は、今も実家で一人暮らしをしている。


 私は結婚し、別の家で暮らしている。


 では、この写真は誰が撮ったのか。


 いつ撮られたのか。


 そして、もう一人の私は何者なのか。


 写真を持つ手が震えた。


 その瞬間、写真の中の男が、少しだけ首を傾けた。


 私は写真を落とした。


 気のせいだ。


 写真が動くはずはない。


 床に落ちた写真を拾い上げた。


 男は、今度は口を開けていた。


 声は聞こえない。


 だが、唇の動きは読めた。


 男は、私の名前を呼んでいた。


 健司。


 健司。


 健司。


 その後ろで、母が笑っていた。


 父も笑っていた。


 そして、写真の中の私も、ゆっくりと笑い始めた。


     *


「返してください」


 私は写真を箱へ戻そうとした。


 老人は、首を横に振った。


「もう、持って帰ってください」


「何を言っているんですか」


「あなたのものですから」


「こんなもの、いりません」


「そう言って、皆さん置いていかれるんです」


 老人は、写真館の壁を見上げた。


 飾られている家族写真。


 笑っている人々。


 そのすべてに、私は気づいた。


 写真の端に、黒い部分がある。


 子供の形。


 大人の形。


 椅子に座った人間の形。


 そこだけ、顔も服も見えない。


 しかし、黒い部分の周囲に立つ人々は、皆、同じ方向を見ていた。


 写真の外。


 こちら側。


「この人たちは……」


「最初は、誰も気にしません」


 老人は言った。


「けれど、写真を見返すたびに、黒い部分が少しずつ大きくなる。やがて、家族の一人が消える」


「消えるって、どういう意味ですか」


「写真からです」


「写真だけ?」


 老人は黙った。


 私はその沈黙を、答えとして受け取った。


「まさか、現実からも消えるんですか」


「現実というのは、案外、写真に似ているんですよ」


 老人は静かに言った。


「誰も覚えていなければ、その人がいたことを証明できない」


 私は箱を抱え、店を出ようとした。


 そのとき、老人が背中に声をかけた。


「佐々木さん」


 振り返る。


「お母様に会ったら、聞いてみてください」


「何を?」


「あなたには、兄弟がいましたか、と」


 私は固まった。


 老人は、初めて笑った。


「きっと、何も覚えていないとおっしゃるでしょう」


     *


 実家へ向かう車の中で、私は母に電話をかけた。


 何度目かの呼び出し音のあと、母が出た。


「どうしたの、こんな時間に」


「母さん。聞きたいことがある」


「何?」


「俺に、兄弟はいた?」


 沈黙があった。


 ほんの二、三秒。


 それだけだった。


「何を言ってるの。あんたは一人っ子でしょう」


「本当に?」


「当たり前でしょう」


 母の声は、少し怒っていた。


 私は写真のことを話そうとした。


 だが、口が動かなかった。


 写真館。


 四十六枚の写真。


 父の顔。


 もう一人の自分。


 何から話せばいいのかわからない。


「母さん、昔、父さんと一緒に撮った写真は残ってる?」


「お父さんの写真?」


「そう」


「そんなもの、ないわよ」


「一枚も?」


「ないって言ってるでしょう」


 母の声が震えていた。


 私は気づいた。


 母は、何かを知っている。


「母さん」


「もう遅いから、切るわよ」


「待って。俺が小さい頃、使ってはいけない部屋があっただろ」


 電話の向こうで、何かが落ちる音がした。


「……何ですって?」


「物置にしてた六畳間。あそこに、何があった?」


 長い沈黙。


 やがて母が、小さな声で言った。


「健司」


「何?」


「あんた、今、どこにいるの?」


「車の中だよ。実家に向かってる」


「来ないで」


 母の声が、急に鋭くなった。


「絶対に来ないで」


「何でだよ」


「玄関に、誰かいるの」


 私はアクセルから足を離した。


「誰かって?」


「さっきから、インターホンが鳴るの」


 母は泣きそうな声で続けた。


「でも、モニターには誰も映っていない」


 私は何も言えなかった。


「それなのに、声がするの」


「どんな声?」


 母は答えた。


「子供の声よ」


 息を吸う音。


「お母さん、開けて、って」


 私はハンドルを握りしめた。


「母さん。絶対に開けるな」


「わかってる。わかってるけど……」


 母は、声を押し殺した。


「その子、あんたの声なの」


     *


 実家に着いたとき、玄関の明かりは消えていた。


 車を降りる。


 夜の住宅街は静かだった。


 家の窓はすべて暗い。


 母は電話に出なくなっていた。


 私は玄関の前に立った。


 インターホンを押す。


 返事はない。


 もう一度押した。


 そのとき、玄関の内側から声が聞こえた。


「お兄ちゃん?」


 子供の声だった。


 私は凍りついた。


「お兄ちゃん、帰ってきたの?」


 聞き覚えがあった。


 忘れているはずなのに、懐かしい。


 小さい頃、何度も聞いたことがあるような声。


「ねえ、お兄ちゃん」


 声が、扉のすぐ向こうに近づいた。


「今日は、何人で寝るの?」


 私は後ずさった。


 その質問を、知っていた。


 どこかで聞いたことがある。


 何度も。


 何度も。


 人数が合わない。


 数えるたびに、一人増える。


 私は震える手でスマートフォンを取り出した。


 写真館で持ち帰った箱を、助手席から引っ張り出す。


 四十七枚目の写真。


 私はそれを取り出した。


 写真には、実家の玄関が写っている。


 母と父。


 私。


 もう一人の私。


 そして、写真の端に、黒く塗りつぶされた子供の姿があった。


 さっきまで、そんなものはなかった。


 私は目を凝らした。


 黒い部分の中央に、白い文字が浮かんでいた。


 名前だった。


 私が知らないはずの名前。


 だが、見た瞬間に理解した。


 それは、私の弟の名前だった。


 その瞬間、家の中から母の悲鳴が聞こえた。


 続いて、玄関の鍵が回る音。


 私は扉へ駆け寄った。


「母さん!」


 扉が、ゆっくりと開いた。


 暗い玄関に、母が立っていた。


 その顔は真っ青だった。


 母の背後には、誰もいない。


 ただ、廊下の奥にある、使われていない六畳間の扉が開いていた。


 そこから、子供の笑い声が聞こえた。


「母さん、逃げよう」


 私は母の手をつかんだ。


 母は動かなかった。


 ただ、私の背後を見つめていた。


「……帰ってきたのね」


 母が言った。


「ずっと、待っていたのよ」


 私は振り返った。


 玄関の外。


 車の隣に、男が立っていた。


 私と同じ顔。


 同じ服。


 同じ傷。


 写真の中にいた、もう一人の私だった。


 そいつは、ゆっくりと歩いてきた。


 母は私の手を離し、男へ歩み寄った。


「健司」


 母が、そいつに呼びかけた。


「おかえりなさい」


 私は叫んだ。


「違う! そいつは俺じゃない!」


 母は、振り向かなかった。


「ごめんね」


 母は男の頬に触れた。


「ずっと、あなたのことを忘れていた」


 男は母を抱きしめた。


 その顔が、私の方を向いた。


 笑っていた。


 唇だけで、言葉を作った。


 ――お前が、いらない子だったんだ。


     *


 私は逃げた。


 どこへ逃げたのか、よく覚えていない。


 気がつくと、仙台市内のホテルにいた。


 朝になっていた。


 母に電話をかけた。


 つながらなかった。


 実家へ戻る勇気はなかった。


 私は警察へ行こうと思った。


 だが、何を説明すればいい。


 自分と同じ顔の男が現れた。


 母はそいつを自分の息子だと思っている。


 存在しないはずの弟がいる。


 写真の中で、自分の人生が書き換えられている。


 そんな話をして、誰が信じるだろう。


 私はホテルの机に、写真を並べた。


 一枚目から、四十六枚目まで。


 どの写真にも、父がいた。


 母がいた。


 幼い私がいた。


 そして、成長した私の隣には、時折、黒い部分が写っていた。


 私は写真を数え直した。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 四十六枚。


 四十七枚目。


 最後の写真だけ、裏返しになっていた。


 恐る恐る、表を向けた。


 そこには、ホテルの部屋が写っていた。


 机。


 ベッド。


 窓。


 そして、机の前に座っている私。


 写真の中の私は、今の私と同じように写真を見つめていた。


 その背後に、もう一人の男が立っていた。


 男は、私の肩に手を置いていた。


 私はゆっくりと、背後を振り返った。


 誰もいない。


 もう一度、写真を見た。


 男は、さっきより近づいていた。


 私の耳元に顔を寄せていた。


 写真の裏に、文字が増えていた。


『四十七枚目』


『家族の人数、五人』


 私は、写真を放り投げた。


 その瞬間、スマートフォンが鳴った。


 母からだった。


 私はすぐに電話へ出た。


「母さん!」


『健司?』


「大丈夫か? 今どこにいる?」


『家よ』


「家にいるのか? あいつは?」


『あいつ?』


 母は不思議そうに聞き返した。


『何を言っているの?』


「昨日、玄関にいた男だよ。俺と同じ顔の……」


『健司』


 母の声が、少しだけ優しくなった。


『あなた、疲れているのよ』


 私は黙った。


『昨日は帰ってこなかったでしょう。お父さんも、あなたが心配だって』


 私は耳を疑った。


「……父さん?」


『そうよ。お父さん、今、隣にいるわ』


 電話の向こうから、男の声がした。


『健司。久しぶりだな』


 私はスマートフォンを落としかけた。


 父の声だった。


 写真の中でしか知らないはずの、父の声。


 それなのに、私は知っていた。


 子供の頃、毎晩聞いていた声だった。


『健司』


 父は穏やかに言った。


『お前、いつまで一人でいるつもりだ?』


 電話が切れた。


 私は震える手で、母の連絡先を開いた。


 名前の横に、写真が表示されていた。


 母と父。


 そして、三人の子供。


 私。


 私と同じ顔の男。


 そして、もう一人の子供。


 私は知らないはずの、その三人目の子供の顔を見た。


 その子供は、こちらを見て笑っていた。


 顔の右半分が、黒く塗りつぶされていた。


     *


 私は写真館へ戻った。


 店は閉まっていた。


 ガラス戸には、白い紙が貼られていた。


『閉店しました』


 店内は空っぽだった。


 カメラも、棚も、家族写真も、すべてなくなっていた。


 私は近くの商店で、佐伯写真館について尋ねた。


 店主は首を傾げた。


「佐伯写真館? そんな店、ここにはなかったと思いますよ」


「いや、ここにあったんです。古い写真館で、白髪の老人が……」


「この場所は、ずっと空き店舗ですよ」


 私はスマートフォンで撮った写真を見せた。


 写真館の看板。


 店主の顔。


 店の中の家族写真。


 しかし、画面には何も映っていなかった。


 黒い画像だった。


 いや、正確には、黒い画像の中央に小さな赤い点が一つあった。


 その下に、白い文字が浮かんでいた。


『宮城』


『残り四十一』


 私はその文字を見つめた。


 画面が切り替わった。


 地図が表示された。


 北海道。


 青森。


 秋田。


 山形。


 宮城。


 それぞれの場所に、赤い点が打たれている。


 そして、宮城の赤い点だけが、ゆっくりと明滅していた。


 点の隣に、数字が表示された。


『四十七』


 私は息を止めた。


 赤い点が、一つ増えた。


 宮城のすぐ隣。


 地図の上では、県境をまたいだ場所。


 福島県だった。


 その瞬間、スマートフォンにメッセージが届いた。


 送信者は、佐々木健司。


 私自身の番号だった。


 本文は、たった一行。


『弟を思い出したか?』


 私は、知らないはずの名前を口にしかけた。


 喉が動いた。


 舌が震えた。


 その名前を呼べば、何かが終わる。


 そんな気がした。


 だが、同時に思った。


 呼ばなければ、何かが始まるのではないか。


 私はスマートフォンを握りしめた。


 そのとき、背後から声がした。


「お兄ちゃん」


 子供の声だった。


 振り向いてはいけない。


 名前を呼んではいけない。


 老人の言葉が、頭の中で響いた。


「ねえ、お兄ちゃん」


 声は、すぐ耳元にあった。


「今度は、何人で数えるの?」


 私は目を閉じた。


 耳元で、子供が笑った。


「一人」


 声がした。


「二人」


 もう一つ、声がした。


「三人」


 さらに、声が重なった。


「四人」


 そして最後に。


 私とまったく同じ声が、私の耳元で囁いた。


「五人」


 目を開けたとき、スマートフォンの地図には、もう一つ赤い点が増えていた。


 それは宮城でも福島でもなかった。


 地図上の、県境の線そのものに打たれていた。


 点の横に、小さな文字が表示されている。


『境界』


 その下に、見覚えのない数字があった。


『残り四十』


 私は、ようやく理解した。


 消えたのは、弟だけではない。


 父も。


 写真館も。


 あの地下五階も。


 そして、私が自分の人生だと思っていたものも。


 何かが、少しずつ数を変えている。


 日本中で。


 誰にも気づかれないように。


 誰かが消えるたび、誰かが増える。


 そして、増えた人間は、最初からそこにいたことになる。


 スマートフォンが、もう一度震えた。


 新しいメッセージだった。


 送信者は、佐々木健司。


 本文は、こうだった。


『次は、お前の母親だ』


 私は走り出した。


 母を助けなければ。


 母を、忘れてはいけない。


 母の名前を。


 父の名前を。


 弟の名前を。


 私は何度も心の中で繰り返した。


 しかし、走るたびに、記憶の中の顔がぼやけていった。


 母の目。


 父の口元。


 弟の笑顔。


 思い出そうとするほど、遠ざかっていく。


 やがて、私は自分の名前さえ、うまく思い出せなくなった。


 横断歩道の前で立ち止まる。


 向こう側に、男が立っていた。


 私と同じ顔の男だった。


 男は、私に向かって手を振った。


 そして、口を動かした。


 ――やっと、帰ってきた。


 信号が青に変わった。


 私は一歩、踏み出した。


 その瞬間、すべての音が消えた。


 車の音も。


 人の声も。


 風の音も。


 世界が、一枚の写真になったようだった。


 私は自分の手を見た。


 指先から、黒くなっていた。


 まるで、写真の中の人間のように。


 私は叫ぼうとした。


 だが、声は出なかった。


 目の前の男が、静かに笑った。


 その顔には、私の顔があった。


 そして、私の記憶の中には、もう一人分の空白があった。


 その空白に、何かが入り込もうとしていた。


 私は最後の力を振り絞り、スマートフォンを見た。


 地図の上には、四十七個の赤い点が並んでいた。


 そのすべてが、同時に明滅している。


 そして、画面の中央に文字が浮かんだ。


『宮城県・第三話』


『記録対象:佐々木健司』


『家族構成:五人』


『本人の認識:一人』


『処理を開始します』


 私は、その文字を見つめた。


 最後に一つだけ、思い出した。


 弟は、いつも私の後ろを歩いていた。


 転ばないように。


 迷子にならないように。


 私が一人にならないように。


 だから、私は弟の手を握っていた。


 ずっと。


 ずっと。


 その手の感触が、今も残っている。


 冷たく、小さな手。


 私は、誰にも聞こえない声で呟いた。


「ごめんな」


 その瞬間、世界が元に戻った。


 車が走り抜ける。


 風が吹く。


 人々が歩いている。


 誰も、私を見ていなかった。


 私は自分の手を見た。


 黒い部分は消えていた。


 スマートフォンの画面には、地図が表示されていた。


 赤い点は、四十七個。


 そのうち一つが、ゆっくりと消えた。


 宮城県の点だった。


 代わりに、私の連絡先から、母の名前が消えていた。


 私は慌てて電話帳を開いた。


 父もいない。


 母もいない。


 弟もいない。


 写真もない。


 実家の住所を検索しても、該当する場所は見つからなかった。


 私は立ち尽くした。


 何かを失った。


 それだけはわかった。


 だが、何を失ったのかが、思い出せなかった。


 その夜、私はホテルに戻り、鏡の前に立った。


 鏡の中には、私がいた。


 疲れた顔の男。


 四十歳の男。


 どこにでもいる、普通の男。


 私は鏡に向かって笑ってみた。


 鏡の中の男も笑った。


 私は手を上げた。


 鏡の中の男も手を上げた。


 何もおかしくない。


 私は安心して、鏡から離れようとした。


 そのとき、鏡の中の男だけが、口を動かした。


 音は聞こえなかった。


 だが、唇の形ははっきりと読めた。


 ――お兄ちゃん。


 私は振り返った。


 誰もいない。


 もう一度、鏡を見た。


 鏡の中の男は、まだ私を見つめていた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


 今度は、声が聞こえた。


「次は、誰を忘れる?」


 私は叫んだ。


 鏡を殴った。


 ガラスが割れ、破片が床に散らばった。


 その破片の一つ一つに、私の顔が映っていた。


 そのすべてが、違う表情をしていた。


 泣いている私。


 笑っている私。


 怒っている私。


 知らない誰かの顔をしている私。


 そして、その一つだけが、私ではなかった。


 小さな男の子が、破片の中からこちらを見ていた。


 男の子は、涙を流しながら笑っていた。


 私は、その顔を知っていた。


 知っているはずだった。


 なのに、名前が出てこない。


 男の子は口を動かした。


 ――忘れないで。


 その声を最後に、すべての破片が黒くなった。


 翌朝、ホテルの清掃員が部屋に入った。


 割れた鏡。


 床に散らばったガラス片。


 机の上には、古い家族写真が一枚だけ残されていた。


 写真には、五人の家族が写っていた。


 父。


 母。


 兄。


 弟。


 そして、もう一人。


 写真の裏には、誰かの筆跡でこう書かれていた。


『この家族を、覚えていますか』


 清掃員は首を傾げた。


「誰だろう、この人たち」


 写真をゴミ箱に捨てようとした。


 その瞬間、写真の中の弟が顔を上げた。


 清掃員は気づかなかった。


 写真の端に、小さな赤い点が浮かび上がったことにも。


 その点が、日本地図の形を描き始めたことにも。


 そして、写真の裏に新しい文字が浮かび上がったことにも。


『宮城県』


『第四話』


『次に消えるのは、あなたです』


 その日、仙台市内で一人の男性が行方不明になった。


 警察は捜索を行った。


 勤務先にも、自宅にも、友人のもとにも、手がかりはなかった。


 男性の名前は、佐々木健司。


 しかし、調べれば調べるほど、不思議なことがわかった。


 彼の住民票は存在しなかった。


 勤務記録もなかった。


 家族もいなかった。


 彼を知っている人間は、一人もいなかった。


 まるで、最初から存在しなかったかのように。


 ただ一つ。


 古い写真館の跡地に、小さな赤い点が残されていた。


 それは雨に濡れたアスファルトの上で、いつまでも消えなかった。


 そして、その赤い点の隣に、誰にも読めないほど小さな文字が刻まれていた。


『残り四十』


 宮城県・第三話 終。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。