福島県 第一話
『地図にない帰還』
その集落は、帰還困難区域の外側にあるはずだった。
少なくとも、地図の上では。
福島県で地方紙の記者をしている三浦直人は、編集長から渡された一枚の古い地図を見つめていた。
「この集落を探してほしい」
編集長は、地図の一点を赤鉛筆で囲んだ。
「名前は?」
「分からん」
「住所は?」
「それもない」
「じゃあ、何を探せばいいんですか」
「人が住んでいたらしいんだ。少なくとも、三十年前の記録にはある」
直人は地図を受け取った。
そこには、現在の地図には存在しない道路が一本描かれていた。
山あいを縫うように伸びる細い道。その先に、鉛筆で小さく書かれた文字がある。
――七戸。
「ななと?」
「読み方も分からん。役場の古い資料に、一度だけ出てくるらしい。住民票の記録も、戸籍も、ほとんど残っていない」
「災害か何かで廃村になったんですか」
「そういう記録もない」
編集長は、そこで一度言葉を切った。
「ただな。妙なことがある」
机の引き出しから、古びた封筒を取り出す。
中には、色あせた集合写真が入っていた。
山を背景に、二十人ほどの男女が並んでいる。子どももいる。皆、正面を向いているが、誰一人として笑っていなかった。
写真の裏には、黒いインクで一文だけ書かれていた。
『帰還者二十三名。残留者一名。』
「これ、何の写真です?」
「分からん。ただ、写真を持ち込んだ人間がいた」
「誰ですか?」
「それが、いないんだ」
直人は顔を上げた。
「いない?」
「受付簿には、持ち込んだ人間の名前が書いてあった。ところが、翌日にはその名前が消えていた。受付を担当した職員も、そんな写真は見ていないと言い出した」
「編集長、それ、冗談じゃないですよね」
「冗談なら、わざわざお前に頼まん」
編集長は写真を直人に渡した。
「調べてくれ。記事にできるかどうかは、その後で考える」
直人は写真を封筒に戻した。
そのとき、ふと気づいた。
集合写真の一番後ろ。
木の陰に、ひとりだけ顔の見えない人物が立っていた。
身体の輪郭はある。
服も着ている。
しかし、その人物の頭部だけが、黒い染みのように潰れていた。
まるで、そこだけ写真が焼けてしまったかのように。
*
翌朝、直人は現地へ向かった。
地図に記された道路は、現在の県道から分岐しているはずだった。
だが、現場に到着してみると、分岐点にはガードレールが設置されていた。
道路らしきものはない。
あるのは、雑草に覆われた斜面だけだった。
直人は車を停め、古い地図とスマートフォンの地図を見比べた。
古い地図には、確かに道がある。
現在の地図には、ない。
直人は斜面を登った。
十メートルほど進むと、雑草の向こうにコンクリートの道が現れた。
ひび割れ、苔に覆われている。
だが、道だった。
その先には、電柱が一本立っていた。
電線は切れている。
電柱に取り付けられたプレートには、文字が残っていた。
七戸第一号。
「本当にあったのか……」
直人は写真を撮り、道を進んだ。
道の両側には杉林が続いていた。
奇妙なのは、鳥の声がしないことだった。
風は吹いている。
枝も揺れている。
それなのに、音がない。
自分の靴が砂利を踏む音だけが、妙にはっきりと響いた。
十五分ほど歩いたところで、視界が開けた。
集落があった。
古い民家が七軒。
小さな商店が一軒。
石垣に囲まれた神社が一社。
集落の中央には、手押しポンプのある井戸が残っていた。
どの家も古びていたが、廃墟というほど荒れてはいなかった。
玄関先には箒が立てかけられ、縁側には洗濯物を干すための竿が置かれている。
畑には、青々とした野菜が育っていた。
そして、道の奥から人が歩いてきた。
老人だった。
灰色の作業着を着て、手に鎌を持っている。
「こんにちは」
直人が声をかけると、老人は立ち止まった。
「どこから来た」
「福島市からです。新聞社の者で、こちらの集落について調べています」
老人の顔から、表情が消えた。
「帰れ」
「え?」
「帰れ。ここに来たことを忘れて、帰れ」
「すみません、何かご存じなんですか。この集落の名前は七戸で間違いありませんか」
老人は答えなかった。
代わりに、直人の背後を見つめた。
「……お前、何人で来た」
「ひとりです」
「本当に?」
「はい」
老人は、直人の背後をもう一度見た。
そして、ひどく疲れた声で言った。
「そうか。まだ、お前には見えんのか」
「何がです?」
「帰っていない人間だ」
老人は鎌を握り直した。
「日が暮れる前に出ていけ。山道を戻れば、まだ間に合う」
そう言って、民家の間へ消えていった。
直人はその後ろ姿を見送った。
取材対象が見つかった。
そう考えるべきだった。
だが、直人の頭には別の疑問が浮かんでいた。
老人は、なぜ最初から自分がひとりではない可能性を疑ったのか。
*
最初に訪ねた民家には、玄関の引き戸が半分開いていた。
「ごめんください」
返事はない。
直人が中を覗くと、土間の奥に小さな居間が見えた。
ちゃぶ台。
湯飲み。
新聞。
そして、壁に掛けられたカレンダー。
直人は日付を確認した。
二〇一一年三月。
震災のあった月だった。
日付の欄には、赤い丸がいくつも書き込まれている。
三月十一日。
三月十二日。
三月十三日。
その後も、三月末まで毎日。
すべての日付に赤い丸があった。
ただし、三月十一日の丸だけは二重になっていた。
直人はカレンダーを撮影しようとした。
その瞬間、奥の部屋から声がした。
「帰ってきたの?」
女の声だった。
直人は振り返った。
誰もいない。
「お母さん?」
もう一度、声がした。
今度は子どもの声だった。
「お母さん、帰ってきたよ」
直人の背筋に冷たいものが走った。
彼は玄関へ戻ろうとした。
だが、その前に居間のちゃぶ台が目に入った。
そこには、食事が二人分並んでいた。
炊きたての白いご飯。
味噌汁。
焼き魚。
湯気が立っていた。
誰かが、今ここで用意したように。
そして、ちゃぶ台の向こう側に、子どもが座っていた。
小学校低学年くらいの男の子だった。
古い学生服のような服を着ている。
男の子は直人を見つめていた。
「おかえり」
直人は動けなかった。
「……君、誰?」
男の子は首を傾げた。
「お兄ちゃん、忘れちゃったの?」
直人は後ずさった。
男の子の顔に見覚えがあった。
どこで見たのかは分からない。
だが、知っている。
ずっと昔から知っている顔だった。
「お兄ちゃん」
男の子が笑った。
「ぼく、ずっと待ってたんだよ」
直人は玄関から飛び出した。
走って家を離れ、道に出た。
息が切れた。
振り返る。
民家は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
直人は震える手でスマートフォンを取り出した。
撮影した写真を確認する。
カレンダー。
ちゃぶ台。
食事。
そして、最後の一枚。
男の子の写真があった。
直人は撮影した覚えがなかった。
写真の中の男の子は、ちゃぶ台の前に座っている。
その隣には、誰かの手が写っていた。
大人の手だ。
男の子の頭を撫でている。
手首には、黒い腕時計。
直人がいつも着けているものと、同じ腕時計だった。
*
集落の中央にある神社には、鳥居がなかった。
石柱が二本、参道の入口に立っているだけだった。
片方には「七戸神社」と刻まれていた。
もう片方には、文字を削り取ったような跡があった。
直人が境内に入ると、社殿の前に木箱が置かれていた。
蓋には紙が貼られている。
帰還者名簿。
直人は箱を開けた。
中には、古い帳面が何冊も収められていた。
最初の帳面には、明治時代らしき年号が書かれている。
次の帳面は昭和。
その次も昭和。
そして、最後の帳面は二〇一一年で終わっていた。
直人はページをめくった。
名前が並んでいる。
年齢。
性別。
帰還した日付。
どの帳面にも、同じ欄があった。
帰還者。
残留者。
そして、最後にもうひとつ。
帰還を認めてはならない者。
直人は、その欄を見つめた。
二〇一一年三月のページには、二十三人の名前が記されていた。
そのうち二十二人には、帰還者の欄に丸がついている。
一人だけ、何も書かれていない。
残留者の欄にも、帰還を認めてはならない者の欄にも、印はなかった。
名前は――三浦直人。
直人は帳面を落とした。
自分の名前だった。
漢字も、間違いない。
生年月日まで一致していた。
直人は震える指で、自分の名前の下を見た。
小さな文字が書かれている。
帰還予定日 二〇二六年十月十九日。
今日の日付だった。
その瞬間、境内の奥で鈴が鳴った。
一度。
二度。
三度。
社殿の扉が、ゆっくりと開いた。
中は暗かった。
だが、奥に人が立っているのが見えた。
黒い服を着た男。
顔は見えない。
男は直人と同じ背格好をしていた。
そして、直人の声で言った。
「やっと帰ってきたな」
直人は走った。
神社を飛び出し、民家の間を抜け、山道へ向かった。
老人の言葉を思い出していた。
日が暮れる前に出ていけ。
ここに来たことを忘れて、帰れ。
帰っていない人間。
何もかもが意味を持ってつながっているように思えた。
だが、山道へ出たはずの場所に、集落の入口があった。
直人は立ち止まった。
走ってきた道を振り返る。
そこにも、集落があった。
同じ民家。
同じ井戸。
同じ神社。
道を間違えたのではない。
集落が、円になっている。
どこへ進んでも、同じ場所へ戻ってくる。
そのとき、家々の玄関が一斉に開いた。
老人。
女。
子ども。
作業着の男。
白髪の老婆。
住民たちが、次々と姿を現した。
彼らは道の両側に並び、直人を見つめた。
誰も口を開かない。
誰も動かない。
ただ、全員が直人の帰りを待っていたかのように、静かに立っていた。
やがて、一人の老婆が口を開いた。
「これで、二十三人」
直人は首を振った。
「違う。俺はここに住んでいない」
「そうだね」
老婆は穏やかに答えた。
「あなたは、ここから帰った人だから」
「何を言ってるんだ!」
「帰った人は、帰った場所を忘れる。だから、帰ってこられる」
老婆は直人の胸元を指差した。
「でも、帰ってこなかった人は、ずっとここにいる」
直人は自分の胸を見た。
シャツのポケットから、何かが覗いていた。
古びた紙片だった。
引き抜くと、そこには見覚えのない文字が並んでいた。
小さな子どもの字。
お兄ちゃんへ。
ぼくは、あの日から一度も帰っていません。
その下に、名前があった。
三浦直人。
直人は息を呑んだ。
自分と同じ名前。
自分と同じ生年月日。
だが、紙片の裏には、もうひとつの名前が書かれていた。
三浦直人 弟。
頭の中で、何かが軋んだ。
知らない。
そんな弟はいない。
両親は健在だが、直人は一人っ子だった。
少なくとも、そう聞かされて育った。
それなのに。
男の子の顔が浮かんだ。
ちゃぶ台の前で待っていた男の子。
お兄ちゃん、と呼んだ声。
ずっと昔、どこかで聞いた声。
直人は頭を抱えた。
「やめろ……」
老婆は言った。
「思い出さなくてもいいんだよ。思い出したら、あなたは帰れなくなる」
「俺は……」
「あなたは、帰ったんだから」
住民たちが、一斉に頭を下げた。
「おかえりなさい」
その声は、集落全体から響いた。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
直人の視界が歪んだ。
その瞬間、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、編集長からの着信が表示されていた。
直人は震える手で電話に出た。
『おい、三浦。今どこだ』
「集落です。七戸という場所に……」
『何を言ってる。お前、今日は取材に出ていないだろ』
「え?」
『朝からずっと会社にいたじゃないか。さっきもお前の席で話しただろう』
直人は周囲を見回した。
住民たちは、まだ頭を下げている。
『それと、変な電話があったぞ』
「誰からですか」
『お前の名前を名乗る男からだ。昔、弟を置いて帰ったことがあるだろう、って』
直人は声を失った。
『何の話か分からん。いたずらだろうが……』
編集長は言葉を切った。
『三浦。お前、本当に一人っ子だったよな?』
電話が途切れた。
画面が暗くなった。
直人は顔を上げた。
住民たちが、ゆっくりと頭を上げていた。
老婆が、初めて笑った。
「これで、帰れるね」
直人は後ずさった。
「何が……」
「あなたが帰ったから、あの子も帰れる」
老婆は集落の奥を指差した。
七軒の民家のうち、一番奥の家。
そこから、男の子が歩いてきた。
直人の記憶の中に、ほんの一瞬だけ、景色が戻った。
雨。
崩れた道。
誰かの手を握っていた感触。
そして、自分が走っていたこと。
振り返らずに。
誰かの声を背中に受けながら。
――お兄ちゃん、待って。
直人は膝をついた。
男の子は、直人の前で立ち止まった。
「お兄ちゃん」
笑顔だった。
「あの日、ぼくを置いていったこと、怒ってないよ」
直人の目から涙が落ちた。
「ごめん……」
口にした瞬間、男の子の輪郭がぼやけた。
住民たちが、息を吸った。
まるで、集落全体が何かを飲み込もうとしているようだった。
老婆が叫んだ。
「名前を言うな!」
遅かった。
直人は、男の子の名前を思い出していた。
口にした。
その名前が、森の中へ消えていった。
山が震えた。
地面の下から、巨大な何かが動く音がした。
民家の屋根が一斉に軋み、井戸の水面が黒く染まった。
男の子は、直人を見上げていた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
そして、消えた。
集落から、子どもの姿だけが消えていた。
直人は地面に手をついた。
何かが変わった。
何が変わったのか、分からない。
ただ、目の前の老婆が泣いていた。
「これで、二十二人になった」
直人は顔を上げた。
「……何が?」
老婆は答えなかった。
代わりに、集落の入口を指差した。
そこに、一本の道が伸びていた。
今度こそ、外へ続いているようだった。
「帰りなさい」
老婆は言った。
「もう、ここには戻ってこなくていい」
*
直人が山を下りたとき、日はまだ高かった。
車は、停めた場所にあった。
スマートフォンには、編集長からの着信履歴が残っている。
直人は車に乗り込み、エンジンをかけた。
走り出してから、ようやく息を吐いた。
あの集落で何が起きたのか。
自分に弟がいたのか。
何も分からなかった。
ただ、もう二度とあそこへ行きたくないと思った。
会社に戻ると、編集長が待っていた。
「どこへ行ってた」
「……取材です」
「何の?」
直人は答えようとした。
だが、言葉が出てこなかった。
七戸。
七戸という集落。
そこへ行った。
誰かに会った。
何かを思い出した。
そのはずだった。
しかし、集落の名前を口にしようとすると、舌が動かなくなった。
直人は机に戻った。
パソコンを開き、地図を検索した。
福島県。
山間部。
古い道路。
七戸。
検索結果はゼロだった。
次に、古い地図の写真を探した。
撮影したはずの写真は、スマートフォンから消えていた。
集合写真もない。
カレンダーの写真もない。
ちゃぶ台の男の子の写真もない。
すべて消えていた。
直人は自分の手首を見た。
黒い腕時計があった。
いつもの時計だ。
だが、時計の裏側に、見覚えのない文字が刻まれていた。
七戸 残留者。
直人は時計を外した。
裏側を何度も擦った。
文字は消えなかった。
その夜、直人は実家に電話をかけた。
『どうしたの、こんな時間に』
母の声だった。
「母さん。俺に、弟っていた?」
電話の向こうで、沈黙が流れた。
直人は息を止めた。
『……どうして、そんなことを聞くの』
「いたのか、いなかったのか。それだけ教えてくれ」
長い沈黙。
やがて、母が答えた。
『あなたには、弟なんていないわ』
「本当に?」
『ええ』
直人は目を閉じた。
やはり、あの集落で見たものは幻だったのだろうか。
だが、母の次の言葉で、血の気が引いた。
『だって、あの子は……』
母は、何かを言いかけた。
そして、電話の向こうで、小さく息を呑んだ。
『ごめんなさい。今、何を言おうとしたのか分からなくなった』
通話が終わった。
直人は、しばらく動けなかった。
机の上に置いた腕時計が、かちり、と音を立てた。
裏返す。
刻まれた文字の下に、新しい文字が浮かび上がっていた。
帰還者 二十二名。
その下には、見覚えのない数字があった。
残り三十九。
直人は、息を呑んだ。
数字の横に、小さな赤い点がひとつ付いていた。
彼は引き出しから宮城県編の取材資料を取り出した。
あの事件を調べていた記録。
地図に浮かんだ赤い点。
県境で消えた道。
そこに書かれた数字。
残り四十。
そして今、残り三十九。
赤い点は、宮城県から福島県へ移っていた。
直人は、地図を机の上に広げた。
福島県の山間部。
七戸という集落があるはずの場所。
そこに、赤い点があった。
しかし、その点は地図上の位置から、ゆっくりと西へ動き始めていた。
福島県の境界線に向かって。
県境に近づいたところで、点は止まった。
そして、地図の余白に、見覚えのない文字が浮かび上がった。
帰還は、終わっていない。
直人は地図を閉じた。
そのとき、部屋の外から子どもの声がした。
「お兄ちゃん」
直人は振り返らなかった。
「今度は、ちゃんと一緒に帰ろうね」
窓の外には、誰もいなかった。
ただ、ガラスに映った直人の背後にだけ、小さな男の子が立っていた。
その子は、笑っていた。
そして、直人の肩越しに、耳元へ顔を寄せた。
「ねえ、お兄ちゃん」
男の子は囁いた。
「次は、どこの人が帰ってくるの?」
窓に映った男の子の顔が、ゆっくりと黒く潰れた。
その黒い染みの中央に、赤い点がひとつ灯った。
まるで、日本の地図に、もうひとつの場所が生まれたかのように。
直人は、目を閉じた。
目を開けたとき、窓には自分しか映っていなかった。
だが、机の上の地図には、赤い点がもうひとつ増えていた。
福島県の中に。
七戸の場所ではない。
直人の実家の位置だった。
その下に、誰かの字で短く書かれていた。
『帰ってきたのは、誰だ。』
――福島県編・第一話 了




